・川反花柳界とは
昭和12年に刊行された『文化の秋田』(秋田振興協会)にはこのような記述があります。
「花柳界といっても現在は秋田市には三段の別がある。すなわち代表秋田美人を擁するカワバタ(川反)とアレ専門の常盤町、その又ダークサイドたる米町とがある訳だが、しかしこの場合、秋田市の花柳界と呼びかつ通称されているところは、カワバタのことである」
当時、秋田市に3つあった「紅灯の町」の中で、川反は料理屋と芸者屋が立ち並ぶ二業地であり、常盤町(遊廓)や米町(私娼街)とは完全に区別された格調ある花街でした。名高き秋田美人を一目見ようと全国から遊客が訪れたり、政財界の大物たちが足繁く通ったりしたことから、近代における秋田の都市文化において重要な役割を果たしました。
川反に花街ができたきっかけは、明治19(1886)年、秋田の市街地の半分近くを焼いたという「俵屋火事」です。それまで下米町にあった遊廓が焼失し、料理屋と芸者屋が川反へ、妓楼が常盤町へ移転することになったのです。
移転当初は常盤町が下米町から続く花柳界の中心であり、川反は芸者4名ほどの小規模な花街でした。しかし明治の終わりには、立場は逆転。川反は名実ともに秋田を代表する花柳界となったのです。それには、いくつかの大きな要因があります(詳細は書籍で)。
・オリジナリティのある花柳界文化
川反芸者は子供の頃から唄、踊り、三味線など芸事を厳しく叩きこまれていました。常磐津、長唄、清元の他、十八番にしていたのが『秋田音頭』です。この演目は県外の人に向けた余興の定番であり、大正13(1924)年には東京の三越デパートでも披露されました。また昭和に入ると新民謡のオリジナル曲が川反で作られました。
若勇さんはこうした川反花柳界が育んできた芸の継承者。ご自身もお座敷に出ながら、後進の育成にも力を注いでおります。
もう一度、このクラウドファンディングが成功したらできることを列記します。
①「時代を語る」を加筆してバージョンアップさせます。
②書き下ろしの「あきた舞妓」の章も!「川反花柳界史」を俯瞰した一冊に。
③宮原葉月さんによる挿絵を掲載。
④舞妓時代の若勇さん、そして大正時代の川反芸者から現在の「あきた舞妓」まで、秋田川反芸者の写真を多数掲載。
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