松陰神社にご支援・ご声援をいただいているみなさま、いつもありがとうございます!きょう午前中、萩市は激しい雷雨にみまわれました。・・・雷、心臓に悪いです。また境内に落ちないといいなぁ、といっつもドキドキします。これが恋?( *´艸`)・・・なわけない。前回の活動報告で触れましたが、↑当神社の社紋「五瓜角立左卍」についてお話しします。吉田松陰先生の吉田家の家紋ですが、どうしてこの形なのかは不明です。よくご参拝者様に「どうして神社にお寺のマークである卍があるの?」と聞かれます。たしかに不思議ですよねぇ。中の人調べによると、卍がお寺のマークと広く世間に認知されるようになったのは、明治時代に地図記号でお寺を卍で表してからのようです。それまでは縁起のいい形というような認識だったとかなかったとか。卍はインドのサンスクリットが起源で、東に伝播したものが卍、西に伝播したものが鍵十字になったようです。くれぐれも申し上げますが、当社の角立卍は左向きで、ナ〇スの鍵十字は右向きです。当社の角立卍は左向きで、ナ〇スの鍵十字は右向きです。大事なことですから二回申しました。周りの瓜は「木瓜(もっこう)」と呼ばれます。字の通り瓜を切った時の断面図であるとか、鳥の巣をかたどったものであるとか所説ありますが、いずれにしても縁起のいい形になるそうです。どうして木瓜紋が吉田家の家紋に使われているかは不明ですが、一説によると吉田家の御先祖様である松野平介という人物がおりまして、織田信長の織田家に仕えていたといわれます。織田家が本拠とした尾張国(愛知県西部)は木瓜紋を家紋とする家が多いそうでして、織田家の家紋も木瓜に桔梗紋です。松野の地元が尾張国なので木瓜が使われているということです。以上申しましたがあくまで仮説であり本当かどうかはわかりません。松陰先生の家も紆余曲折の末、長州にたどり着いたんですね。地方によっては川の水があふれているところもあるようです。皆様方くれぐれもお気をつけください。
松陰神社にご支援・ご声援をいただいているみなさま、いつもありがとうございます(>_<)以前もご紹介した「松下村塾印」ですが、ご支援をいただいておりまして、大変ありがたく感謝申し上げますm(__)mこちらの返礼品、本体はつげでしっかりとした作りですが、箱もなかなか良い感じです。社紋と社名が入った桐箱で、とても「いいもの」感があります。いやいや 感 ではなく、い い も の です。ちなみに当社の神紋ですが、呼び方はいろいろあります。当社では「五瓜角立左卍(ごかすみたちひだりまんじ)」と呼んでおります。まぁ実際には長いので「瓜に左卍」などと呼んでしまうこともあります・・・。もともと松陰先生の吉田家の家紋ですが、どうしてこういう意匠になっているのかは不明です。参拝者様から「神社なのにお寺のマークがあるんですね!」とよく聞かれますが、次回この社紋についてご紹介しようと思います。酷暑ですが、みなさまお体ご自愛下さい。
またですよ・・・、もうおなかいっぱいですよ・・・。昨日朝、境内の松に落雷が直撃しました。↓はっきりと真新しい筋が見えます。幸い人的被害はありませんでしたが、機械類の一部が破壊されました。コピー機などがうんともすんとも言わなくなってます。あぁ、また復旧にお金と時間が・・・。昨日は各種対応に追われ、今日になってようやく皆様にお知らせする気力が戻りました。昨日は雷雨でしたが、今日は一転真夏の晴天。だけど心はどんよりさ・・・。末尾になりましたが、松陰神社にご支援・ご声援をいただいているみなさま、いつもありがとうございますm(__)mみなさまがいらっしゃってくださるから、頑張れています。
松陰神社にご支援・ご声援をいただいてる皆様、いつもありがとうございます(^^)リターンでお渡しする限定朱印紙ができあがりましたのでご披露いたします!(Xですでに公開しているので見た方もいらっしゃいますよね、一旦記憶を消去して↓へ!)↓↓↓↓↓↓に、虹の宝石箱や~けっこう攻めてます。派手です。切り絵です。松陰先生か書かれた「至誠にして動かざるは未だこれ有らざるなり」の原文や肖像画、松下村塾の切り絵、しかも「松陰神社」の文字は松陰先生の筆跡です!こちらを黒台紙とともにクリアファイルに入れてお届けします。どうぞお楽しみに!
松陰神社にご支援・ご声援をいただいている皆様、いつもありがとうございます^_^みなさまのお力により、おかげさまでセカンドゴールを達成することができました!本当にありがとうごさいますm(_ _)mこれで鳥居が崩壊の危機を免れる…、感無量でごさいます。こんなにも松陰先生を、当神社を思ってくださるみなさまがいらっしゃる、ありがたい限りです。事業の進捗については逐次活動報告にてお知らせします。みなさまのお力で蘇る姿をどうぞお楽しみに!