本記事では、世界各国で精神疾患を持つ人がどう扱われているのかを駆け足で紹介します。精神疾患を持つ人の扱いには、その国の科学と人権意識の内容と程度、そしてその国の置かれてきた状況が、「隠せないホンネ」として現れやすいものです。
未だに精神科病院への収容主義を止められず、25万人以上の精神科入院患者のいる日本は、世界から完璧に取り残されています。
収容主義を止めたら幸せになれた国々
かつては精神障害者に対する施設収容が主流だったものの、地域生活と地域での支援が主流になってから長い時間が経過している国々は、先進諸国を中心に数多く見られます。
日本に情報が入って来やすいのは、米国・イタリア・フィンランドの3ヶ国であろうと思いますが、背景はそれぞれ異なります。
米国では、1960年前後に精神医療の専門家らから起こった施設解体への動き、医療費のコストカットを求める1960~1970年代の社会の動きなどが重なり、「病院でも施設でもなく、刑務所でもなく、地域生活を」という流れが概ね定着しました。
イタリアでは、精神科医のフランコ=バザーリアが1970年代にトリエステ市で行った「バザーリア改革」が広く知られています。多数あった精神科病院の入院病棟は閉鎖され、新規入院を認めず、病院以外に居場所がなくなっていた入院患者たちが高齢化して他界した後は入院病棟を新規に作らないようにすれば、精神疾患を持つ人の周囲にいる人々から「入院させる」という選択肢がなくなります。もちろん、他の選択肢の模索と定着が必要とされますが、既に根付き、市民社会にとって当然の存在となっています。ただしイタリアは向精神薬の使用量が多く、「閉じ込める代わりに薬でおとなしくさせているだけじゃないか」という批判もあります。
フィンランドでは、1980年代に「オープン・ダイアローグ」という試みが開始されて定着しました。フィンランドも精神科病院への収容主義が強い国でしたが、医療密度が極めて低い地域において精神疾患を持つ人が不安定な状態になった時、居住地から遠く離れた病院への入院を避ける選択肢が必要とされていました。家族や地域から切り離されてしまうと、退院後の生活が困難になります。また、収容主義を止めるのであれば地域で安心して暮らすための具体的な方法が必要でした。これらの背景から、精神疾患を持つ人本人を中心とした「開かれた対話(オープン・ダイアローグ)」が定着しました。
収容主義に走れなかった国々
「先進国」ではない国々においては、「そもそも医師が足りず、精神科医はほとんどいない」「先進国の医薬品メーカが開発している向精神薬は、高価すぎて使用を続けることが難しい」「精神疾患を持つ人のために収容施設を作るようなカネは余ってない」といった事情のあることが珍しくありません。
特に、政変や軍のクーデターなどを繰り返し経験してきた国々は、精神疾患や精神障害に特化した収容施設の政治的利用、すなわち「政治的に都合の悪い人間を精神疾患ということにして、強制的に薬で(以下略)」をはじめとする、極めておぞましい扱いの数々を経験してきました。「とにかく、収容施設は作らせちゃダメ」という認識は、多くの人々に共有されている様子があります。
「精神科医が全く足りていない」「向精神薬が買えない」「収容施設は作れない」となると、日本でいえば地域の保健所を中心として地域全体のメンタルヘルスを向上させ、その中で、精神疾患や精神障害を持つ人々にも対応できるようにするという路線が現実的ということになります。そもそも国民は政府や行政をそれほど信じていませんから、「コミュニティの中で」という方向で生存のための工夫を重ねる傾向が強く、「地域の保健所とうまく協力できればベスト」ということになります。
南米の国々は、国ごとに事情が大きく異なるため、一概に「これが南米だ」と示すことはできません。収容施設がないので「脱施設化」「地域移行」といったことを改めて考える必要がなかったというアドバンテージは、大なり小なり共通しています。
まずは死なない死なせないために、食糧とエネルギーと医療
2019年冬以来のコロナ禍、そして2022年以来のウクライナ情勢は、もともと課題のあった国々の状況をより困難にしました。メンタルヘルスの悪化もさることながら、誰も飢えず渇かず凍えないようにすることが喫緊の課題である国々も数多い現状。
今回、コロンビアで開催されるWCSJ2023は、比較的近い南米やアフリカからの参加者が多そうです。そして、その方々から生々しい現実を聴く機会がありそうです。
現地からのレポートにご期待ください。