しこしこしない「シコシコ」の日々
平井 玄(文筆家)
〈連載全16回のうち10回まで〉
50年前といえば、模索舎もそうだが、じつはぼくらには「シコシコ」だった。「ぼくら」とは都立新宿高校の全共闘たちである。
本屋と一緒にあるカフェが「シコシコ」。いまはそういう形のブックカフェも増えたが、当時は珍しかった。
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模索舎から180メートルほど駅方向に歩いて3分のところにある高校だ。
ところが全共闘でも、党派にかかわる連中はあまり顔を見せないのである。
黒ヘルノンセクト、べ平連、翻訳思想書の愛好家が主なメンバーだ。
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党派の連中は大学の拠点ばかり。街で「場所」をつくる意識が薄かったようだ。
音楽派でも毎日毎日ジャズ喫茶で飽きると、赤黒混合で津村喬に興味を持つ私みたいな者も寄る。いや彼のことは模索舎で初めて知ったのかな。
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紀伊國屋本店4階にあったリトルマガジン・コーナーにもない極マイナーでとんがった雑誌やパンフレットが山積みだった。
ここをパリのシェイクスピア&カンパニーや上海の内山書店と比べてはおおげさ。それでも大きく見ればその一角とはいえる。
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すぐそばの新宿通りを二丁目仲通りに向けて渡ると、その角にはマンガ喫茶のはしり「コボタン」、「新宿プレイガイド・ジャーナル」の編集室、はては赤軍系の救援組織「モップル社」まで隣り合わせている。
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さらに三丁目に行くと「風月堂」や「ウィーン」、「らんぶる」はもちろん、街中に広がるジャズ喫茶、芝居屋や音楽屋、出版関係者の集まる飲み屋にはすべて自費出版の雑誌や詩集、機関紙の類いが置かれていたからだ。
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地下道に立ってパンフレットを売る者たちもいた。神保町や京都のような大学街の雰囲気とも違う。猥雑というより猥褻な歓楽街の生々しさの中にあった。
この一点が「模索舎+シコシコ」なんである。
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ぼくらの高校は仲間の一人だった坂本龍一が世を去って、またなにかと取り上げられている。
さして華々しくもない闘争の顚末に責任を感じ、その体験を生き続けた者には、これがどうも気恥ずかしい。
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小林哲夫さんの『高校紛争』(中公新書)で取材を受けた時にも、
「有名になった人もいるので、実質以上にクローズアップされすぎている」
と控えめに話したものだ。
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占拠や逮捕にいたるのが難しい工業高校や商業高校も取り上げては――とアドバイスしたのは、水商売労働者が通う定時制があったからだ。
思えばこのすこし前、定時制にさえ行けない永山則夫も歌舞伎町で働いていた。
〈つづく〉