本の出版作業は順調に進んでいます。著者校正もおおむね完了し、最終のゲラの作成に入っている段階だと思います。
研究会も試験的運用段階で、いろいろうまくいかないこともありますが、徐々に質を上げていこうと思いますので、長い目でお付き合いください。
ところで、研究会は、日本の大学院を対象としており、海外を対象外にしています。私が相談を受ければ、特に文系の場合、日本語で論文を書いた方が良いと思うので、日本をおすすめすると思います。それは、母語の運用能力が高ければ、必然的に論文もより深い内容のものが書けることと、研究成果を日本社会に還元することを考えた場合、やはり日本語が良いと思うからです。
藤原正彦氏は、『祖国とは国語』(新潮文庫、2003年)において、国語は、思考の結果を表現する手段であるばかりか、国語を用いて思考しているので、思考そのものであり、十分な語彙と共に考察しないと、深い検証ができないといいます。
施光恒氏も『英語化は愚民化』(集英社新書、2015年)において、新しく何かを作り出す時、必ず、新しい「ひらめき」や「カン」、「既存のものへの違和感」といった漠然とした感覚(暗黙知)を、試行錯誤的に言語化していくプロセスが求められ、そのプロセスを土着語(母語)以外の言語で円滑に進めるのは不可能であると断言します。
よって、より深く掘り下げた、内容の濃い論文にしたければ、やはり母語の方が望ましいと思うのです。
また、知を社会に還元するという視点では、近代以降の哲学が参考になります。デカルトの『方法序説』は、土着語のフランス語で書かれています。それまで哲学者は、ラテン語や古代ギリシャ語を使用していたそうですが、土着語を使用した『方法序説』のおかげで、ラテン語を理解しない庶民が高度な知識を身につける機会を獲得したそうです。その後、ドイツやイギリスなど各国において土着語で文献が執筆されるようになり、多くの人々が高度な学問に触れることができるようになっています。
このように考えると、日本語を母語とする人が、その土着語である日本語で論文を執筆することが当然のように思えるのです。もちろん、外国語の重要性は認識しています。私も過去に外国資本の二社に勤務しました。上司はイギリス人、アメリカ人、シンガポール人、オーストラリア人といましたが、サラリーマン人生で、日本人も含めて最も相性の良かった上司はオーストラリア人だったかもしれません。そう考えると、英語ができなければ、その職が務まらなかったわけなので、誰よりも外国語の有り難さはわかります。それでも、もう外国で学ばなければならない必然性は減っていると思います。日本でも外国のことを学べる時代です。
また、日本の失われた30年も、アメリカのルールに沿ってビジネスを始めたから日本が衰退したという仮説もあり得ると思います。コミュニケーションは英語、契約書も英文で、秘密保持契約など30年前はほとんど存在しませんでした。今は膨大な時間をかけて文言を詰めて契約しています。法務部やコンプライアンス部などが権限を振りかざして現場に介入し、仕事はますます混乱し増えるばかりです。このグローバリゼーションなのか何かわかりませんが、30年という歳月を奪ったものは、まさしくこれではないでしょうか。
研究会における当面の対象は日本の大学院とし、もし海外の大学院の情報もという需要が出てきた場合は、また考えたいと思います。