本の表紙がおおむね出来上がりました。イラストも入りソフトな感じで、堅いイメージはないカバーになります。そろそろ作業も最終段階に来ています。
ところで、今日は終戦記念日ですね。前回の続きです。初等教育や中等教育については、何もできないものの、高等教育で何か貢献できるかもしれないと思っています。ただし、思い込みかもしれません。
私が社会人大学院に期待するのは、あらゆる物事について批判的な考え方ができるような「場」であるということです。残念ながら初等教育や中等教育ではそれができません。日野田直彦『東大よりも世界に近い学校』(TAC出版、2023年)によると、今の学校は、思想をチェックしたり、校則を厳しくしたりして、先生のいうことを良く聞く、忠犬ハチ公のような「犬」、すなわち労働者を生産するシステムであるといいます。
過激な表現ですが、あながち間違っていません。そのまま会社に入れば、理不尽な上司の指示に従い、目標達成まで突き進む、立派なビジネスマンになります。ほとんど軍人教育と変わらないです。本当は、大学4年間で批判的思考を身につけるチャンスなのですが、前回申し上げたように日本の多くの大学生は受験で燃え尽きて勉強をしません。そう考えると、小中高そして大学と、日本の教育システムはうまくつられています。意図してつくったのかわかりませんが、忠犬ハチ公の量産システムです。
それは、自分の3人の子どもたちをみていてもわかります。学校に行くようになって、子育てが少し楽になったと油断すると、しっかりと従順な「日本人」ができあがっていました。
わが家の子どもたちは、妻がフランス人なので多少はフランスの影響もあり、批判的精神は身につけているだろうと思っていました。たとえば、今年のフランスのバカロレアという高校卒業試験では、次の哲学の問題が出題されています。
「平和を望むということは、正義を望むということなのでしょうか。」
"Vouloir la paix, est-ce vouloir la justice?"
これを4時間で回答する必要があります。日本の高校生は答えられますかね。求められているものが違うようです。そう考えると、100%日本人の子どもよりは、少し違う視点を持っているのかと思いました。しかし、そうではありませんでした。100%日本人に仕上がっています。それだけ、日本の教育システムはパワフルなのです。
久しぶりに、高校時代の教科書、村上堅太郎ほか『詳説 世界史〔改訂版〕』(山川出版社、1985年)を開いて近代史を確認しました。アメリカ軍は、広島と長崎に原爆を投下し、日本は御前会議でポツダム宣言受諾を決定したとあるだけでした。今の子どもたちの教科書も確認したら同じようなものです。
そこから、原爆投下前に日本は降伏することをアメリカに打診していたのではないのかとか、あるいは、終戦のために原爆投下が必要だったのか、仮に広島への原爆投下が必要だったとして、どうして二発目を長崎に落とす必要があったのかという問いは出てきません。きっとそんな問題提起をする教師は、歴史修正主義者として、上司や同僚、そして保護者から痛烈な批判をされるのでしょう。怖くて何もできません。よって、初等教育や中等教育は最も重要であるにもかかわらず、切り込むことが困難なのです。
しかし、高等教育は違い、自由が確保されています。だから「学問の自由」は重要で、幸いそれは日本国憲法でも保証されています。特に経済的に自立した社会人は、次に精神的にも自律するチャンスなのだと思います。社会人大学院で論文を書くというのは、批判的考え方を涵養するのに最適な営みになります。よって、この研究会の社会的な意義もこの辺にあるように思われます。ある意味で、忠犬ハチ公ではなく、たまには飼い主にも吠える犬になってみるということでしょうか。本日は終戦記念日に絡めた話題にしてみました。