
【外の世界はちゃんと“美しかった”】
年が明け少しだけ落ち着いた頃。僕は当時付き合っていた今の妻と、いくつかのレストランを食べ歩いていました。
その中の一つが、ホテル時代のマネージャーが働いている「カルチャラタン」というレストランでした。
正直、期待以上でした。
一皿一皿が美しく、香りが立ち上がり、口に入れるたびに味が重なっていく。
伝統的でありながらどこか軽やかで洗練されているフランス料理。
当時働いていたビストロの骨太なクラシックとは、明らかに違う世界でした。
「こういうフランス料理もあるんだ」
料理を食べながら、心の奥が静かに揺れているのが分かりました。
コースの最後マネージャーがふと、こんなことを言いました。
「今、料理人募集してるんだよ」
その一言で胸の中に風が吹きました。
今の店は、確かに勉強になる。でも、毎日変わるポジション。休みのなさ。減っていく貯金。
そして、“外には、こんな料理をしている世界がある”と知ってしまった自分。
この夜まだ何も決めていないはずなのに、僕の中では何かが動き始めていました。

【この店では犯人は、分からないままでいいと知った】
そのビストロで働いていた頃、ある日、盗難事件が起きました。
先輩が置いていた財布から、現金が抜き取られていたのです。
犯人は分かりませんでした。
先輩は言いました。「もういいよ。犯人探しはやめよう」
その場は、それで終わりました。
でも、あとから聞いた話があります。その先輩はサービスのスタッフにお金を貸していたそうです。
詳しいことは誰も言いませんでした。ただ、状況を考えれば、「十中八九…」と頭をよぎった人は、僕だけじゃなかったと思います。
でも、誰も何も言いませんでした。
僕自身の当時の給料は月14万5千円。引っ越し補助もなく、店の近くに住めと言われ、毎月の生活は本当にギリギリでした。
ホテル時代にも盗難事件がありました。その時は、休憩中に呼び出され、そのまま戻ってこなかった人もいました。
この店では、違いました。
誰も責めない。誰も裁かない。ただ、静かに時間だけが過ぎていく。
正しいのか、間違っているのか、今でも分かりません。
ただ一つ言えるのは、「ああ、みんな余裕がなかったんだな」ということだけです。
料理以前に、生活が限界だった。
この出来事は、今でも僕の中に重たいまま残っています。

【「辞められると思うなよ」と言われた日】
カルチェラタンの一件があってから、僕はずっと悩んでいました。
ここで学んだことは大きい。感謝もしている。でも、次のステップに進みたい。
1ヶ月考えた末、シェフに相談することを決めました。
一人で言う勇気は、正直ありませんでした。これまでの空気を考えれば、何が起きるか分からなかったからです。
だから、最後の集礼。スタッフ全員が集まるミーティングの場で、僕は口を開きました。
「このお店では、とてもお世話になりましたし勉強にもなりました。ですが、次のステップのために1ヶ月後にこの店を辞めさせてください」
明日から辞めたい、ではありません。1ヶ月後に辞めたい。きちんと引き継いで、終わりたい。そのつもりでした。
でも、言い終わる前に。
シェフが近づいてきて、僕の胸ぐらを掴みました。
「お前、辞められると思うなよ」
みんなが見ている前で。静まり返った厨房で。
正直、頭が真っ白になりました。
お願いしただけでした。相談しただけでした。逃げようとしたわけでも、裏切ろうとしたわけでもない。
それでも、“辞める”という言葉はこの場所では、許されない言葉だったのだと知りました。
あの日から、この店は僕にとって「学びの場」から「出られない場所」に変わりました。

続く…
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