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八戸藩の飢餓と慢性的な藩財政の赤字から抜け出した、ハレの政・流鏑馬を伝承する事業

・藤沢周平の時代小説『漆の実のなる国』の海坂藩とそっくりの藩改革の成功例。八戸藩八代藩主南部信真公の文政年間、 登用した野村武一が旧勢力の四面楚歌のもとで孤軍奮闘した「御主法替え」で成し遂げた、赤字地獄からの脱出。それを祝う花火が流鏑馬であった。 ・加賀美流を宗家した訳は、小藩の独立宣言であった。

現在の支援総額

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目標金額は1,500,000円

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募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2023/10/25に募集を開始し、 2023/11/30に募集を終了しました

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目標金額1,500,000

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このプロジェクトは、2023/10/25に募集を開始し、 2023/11/30に募集を終了しました

・藤沢周平の時代小説『漆の実のなる国』の海坂藩とそっくりの藩改革の成功例。八戸藩八代藩主南部信真公の文政年間、 登用した野村武一が旧勢力の四面楚歌のもとで孤軍奮闘した「御主法替え」で成し遂げた、赤字地獄からの脱出。それを祝う花火が流鏑馬であった。 ・加賀美流を宗家した訳は、小藩の独立宣言であった。

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はじめに・ご挨拶

  私たちのプロジェクトを開いてくださりありがとうございます。東日本大震災の後に、この会を立ち上げました。

「八戸藩 御家流 加賀美流 正伝 流鏑馬 再興会」と申します。長い名前ですが、会の目的がすぐにわかってもらえるように考えて命名しました。

 三陸国立公園が、震災後に八戸市の自慢である、名勝・種差海岸を編入し、「復興」の冠をのせて「三陸復興国立公園」として再生しました。この自然遺産に対して、復興しなければならない歴史的民俗文化遺産がありました。版籍奉還、廃藩置県により消滅しておりました、八戸藩御家流加賀美流正伝流鏑馬です。先人の遺された無形文化財を再興することを、本会の活動目標に据えました。

 大地震の時、種差海岸の芝生地で流鏑馬の稽古をしていました。地震の後も稽古を続けようとした私の指示を拒否して、小高い丘の方へ走り出したのです。間もなく、消防車やパトカーがけたたましくサイレンを鳴らし、津波が来るから高い所へ避難してくださいと、警告しています。

 愛馬に命を救われて、改めて愛おしさが深まりました。愛馬「尾駮(をぶち)」の飼い主の柏木善治さんと、馬運車の山内正孝さんは、私たちの活動の趣旨に賛同され、ずーっと無料で便宜を図ってくれました。しかし、人間なら100歳を超える高齢には、襲歩(ギャロップ)の流鏑馬は負担が掛かり、心臓麻痺で突然死されてはかわいそうなので、引退してもらいました。

 私、黄綿昶行は珍名さんに出てもよさそうな希少な姓です。ネットで検索すれば、30数軒ありますが、実際は3軒です。弟と愚息です。絶滅危惧種の姓です。

   現役時代は公立高校の教員で、還暦迄務めました。大学では哲学を専攻し、教員免許は社会科。哲学教室のK教授が、ひとりぼっちの受講生を、それじゃいいとこで哲学しょう!と「樽満」という焼き鳥の旨い居酒屋に教室を移されました。

 奇縁でした。子供のころから教授を知っていました。父は教授とは飲み友で、給料日は決まって焼き鳥屋で焼酎を飲んでいました。母の走り使いで、家に連れて帰る役目でした。父は教授を誘って家に帰り、酒盛りを続けました。お酒を飲む客人が来れば、小屋の漬物樽の氷を割って、大根の鰊付け(がっくら漬げ)をどんぶりに一杯盛り上げて出すのが、我が家の習いでした。その時の漬物小僧が10年後に大学で再会したのでした。

 高校では、担当科目は「倫理社会」を、分掌は「教育相談」を、部活はサッカー部顧問兼監督を仰せつかりました。

 30歳の時に男の子が授かりました。この子に伝える日本人らしさがあるのだろうか、と振り返ったとき、哲学もサッカーも西洋カブレなことに気付きました。日本人としての遺伝子は見当たりませんでした。

 日本人らしさを探し求める中で、R.ベネディクトの『菊と刀』に邂逅し、ならばと、文には「和歌」を、武には「流鏑馬」を選びました。私の二刀流です。和風の文武両道です。この転機に、エネルギーが一気に増幅し、内なるマグマが煮え滾り吹き出しそうになりました。幸福を感じ、祈りを覚えました。

【目 的】このプロジェクトで実現したいこと

や)目的の一は、令和元年に、152年ぶりに再興した「八戸藩御家流加賀美流正伝流鏑馬」を、伝承する段階へ進め、その端緒となる第2回目を、令和三年に果たしました。

 今度は、この歴史的民俗遺産を、八戸の地熱として繋いでゆくことです。令和五年の今年がその第三回目です。強力な助っ人が仲間に入りました。令和3年より八戸市に転入した流鏑馬の同志です。福岡県時代に、橘流流鏑馬を修行して、師範代の資格を持っています。橘流の流祖をたどれば、八戸藩加賀美流とルーツが同じであることが解かり、一層の親近感が湧いてきました。

 ふるさと・八戸市は、八戸藩のあった城下町でした。2万石の大名ならぬ小名でした。でも、駿馬の代名詞ー「南部馬」を産する九つの牧の中心地でした。藩のふところはいつも赤字で、ヤマセという冷たい風に、稲は実らず、飢えにひもじい思いをしておりました。

 8代将軍徳川吉宗が武芸奨励を推し進めたことで、全国の諸大名は、こぞって流鏑馬を立ち上げ、流行しましたが、わが八戸藩は、窮乏のどん底にあってすぐにはできませんでした。そこで八戸藩8代藩主は、上杉鷹山とそっくりの大改革を進めて、貯えができる程になりました。そのハレのお祝いを、領民とともに祝おうと始めたのが流鏑馬でした。

 それまでの習わしだと、武士と大店(おおだな)だけが、幕の内側で観ていましたが、領民すべてに開放したのです。しかも、3代藩主・南部通信公以降の藩主は、御家流(おいえりゅう)の馬術の最高師範(道統・どうとう)の免許を受け継ぐ伝統がありました。

 すぐらりゅう(徒鞍流)を御家流に定めたほか、8代藩主南部信真公が宗家となり、文政10年(1827)に「加賀美流(かがみりゅう)」弓馬術の宗家を拓き、そのお披露目に、鎮守の社三社(現在の長者山新羅神社)の桜馬場で、前夜祭には同流附伝の騎馬打毬を、本祭日には同流正伝流鏑馬を創始奉納されました。

 私は、再興伝承の初代師範で 、版籍奉還後の消滅期間150有余年の実際が、空白のまま伏していた不確かさを抱えますが、一系道統の六代になります。五代迄は藩主と馬別当ないし馬術師範が交互に道統を繋ぐ習わしでした。幕末動乱期から新政府草創の混乱期に、旧藩士の有志により、家伝の武術奥義書類を、旧八戸藩の歴史的民俗文化財を護るため、実技面の免許取得を割愛して、書面免状のみを書写し保存伝承する事で、滅失を免れ今日に遺された御仁がおられます。版籍奉還当時の家老職にあって武芸に秀でていた、 徒鞍流21代道統・山崎勘解由吉豊が、八戸藩が消滅する慶応年間に、御家流はもとより主な武芸流派を網羅した、長大な巻子を残しました。藩主自らが宗家された加賀美流弓馬術が、流鏑馬系のカテゴリー即ち、騎射八道を基軸とした亀鑑であるため、系譜を二つの流れのままにされました。八戸の領内を流れる馬淵川と新井田川のようにー。

 元八戸町長・北村益、柏木善太郎、音喜多富寿(号・古剣)等の功績の賜物です。八戸市立博物館や同図書館に収蔵されている「八戸南部家文書」で、館内閲覧できるのもこれ等先人のおかげです。

ぶ)八戸市並びに青森県の無形文化財として、指定登録されるよう書類申請します。同流の附伝騎馬打毬は、既にユネスコ文化遺産に登録済みです。三社大祭と一括りにされ山車文化の一部として評価をいただいたゆえです。

 これに、正伝流鏑馬を再興することで、八戸藩独自の加賀美流弓馬術が、片肺飛行から両翼飛行に復元されます。八戸藩の流鏑馬を再興した後は、同様の歴史を持つ南部町、三戸町、七戸町など故実のある流鏑馬を再興する事業を拡大していきます。八戸藩の流鏑馬再興事業は、そのさきがけとなるものです。

【流鏑馬興しは地域づくりの資源】流鏑馬という埋蔵文化財を、地域興しの資源として、その発掘と活用に貢献していきます。『南部町史』の資料編は、華厳院(けごんいん)文書が大半を占め、流鏑馬の詳細が記録されています。その原本の全部が、マイクロフィルムに保存されています。武家政権草創の時代に、政の華であった、神事流鏑馬の詳細を研究するうえで貴重な古文書です。これを基に、旧南部領の自治体が連携する「南部サミット」の、周年記念イベントとして、往時のように全自治体の射手衆が、技を競う故実を復元したい。

 一戸から九戸迄の9組と、東西南北の柵・四門、併せて13組の射手衆が一堂に会して、技を競い絆を結んだ、一大流鏑馬会は、国内最大の祭典でした。中でもオオトリには八戸と櫛引八幡宮の本拠地である四戸組(現在の八幡、浅水に及ぶ細長い領地)は、別格で2回の奉納を許されていました。七戸組の射手は二ツ森家の世襲で、同日に流鏑馬を奉納する習わしだったので、本義1回のみで即七戸八幡宮に馬を奔らせたそうです。

 調べたところ、再興成って、現在も産土の社に流鏑馬を奉納している自治体は、四戸・櫛引八幡宮、八戸=根城➡遠野市・遠野郷八幡宮、三戸➡盛岡八幡宮、消滅した状態は、七戸・七戸八幡宮現新館神社、昭和30年代後半に馬場を県道用地に寄付し消滅。南部町、三戸町、五戸町、六戸町、七戸町=合併前の天間林村、東門、南門、西門、北門の市町村)

 歴史的創始からすれば、現在の行政上の県境の岩手側の盛岡と遠野が戦後の昭和25年、同28年にそれぞれ再興され、今日に続いて盛況ですが、わが青森県には、櫛引八幡宮に遺るのみです。他に八戸藩の加賀美流流鏑馬がありますが、本会が再興して続けています。

 しかし、この南部惣領一之宮は、盛岡藩の鎮守の社なのです。また、秋の例大祭で流鏑馬を奉納する役者(射手衆)は、根城から村替えした遠野郷の保存会によって執行される習わしでした。

 故に、今日私どもの流鏑馬再興会が、歴史学的な時代考証からも、青森県内各所の神事流鏑馬の政を、歴史民俗的無形文化財として掘り起こし、地域の再生のための資源として活用すべきことと信じます。

さ)【八戸人には誇りがあります。小さい藩でも、独立精神に満ち、盛岡藩の覇権主義に毅然と対峙した気概が、後世の私どもにも不断の誇りと勇気を伝えてくれました】ー盛岡藩の覇権政策に真っ向拒否の構えを示したのが、宗家・加賀美流弓馬術の旗揚げでした。

 なぜなら、加賀美流の名は、加賀美遠光(かがみとおみつ)に発するものでした。源頼朝が鎌倉に幕府を開き、鶴岡八幡宮を創建し、流鏑馬を奉納した最初の射手衆12人の一人で、虎の威を借りたのです。

め)【上皇様と上皇后さまに、八戸市の三社大祭中日の加賀美流附伝騎馬打毬をご覧いただきたく、宮内庁を通してお願い申し上げます】青森放送テレビの日曜日17時15分から、神社庁青森県支部がスポンサーの『皇室日記』があります。令和2年のある回(当時のTV番組名は「皇室日記」)に、ご成婚間もないころか、白のポロシャツにポロのいでたちのお姿が目に入りました。平成天皇陛下と皇后陛下のご在位中のフィルムでした。乗馬姿を初めて拝見しました。ポロは宮内庁の恒例の行事の一つであり、八戸市自慢のユネスコ文化遺産登録の「加賀美流附伝騎馬打毬」は、宮内庁と山形市と国内は3か所だけの希少な歴史的無形文化財です。

 なかでも、八戸市の加賀美流騎馬打毬は、日本的に進化した武術的形式を特徴としています。宮内庁の騎馬打球は「球」であり、スティックは本場と同じ短いものです。八戸の加賀美流は、「毬」であり、打つというよりは槍と同じ長さの杖の先に毬を掬う網を付けて、掬ってゴールに投げ入れる形式を保っています。

 ポロシャツではなく、馬乗り袴と小袖に襷(たすき)を掛け、毬を奪い合う攻防の激しさで、馬場には土煙が舞い上がるほど緊張感がみなぎります。先取点を取れば、杖で相手と馬を突いても叩いても良いので、落馬や馬具が壊れて、競技はいったん停止のドラが鳴る事たびたびです。

 フランスに本部のある国際ペルシュロン(大型輓系馬)協会より招待され、恒例のフェスティバルに2018年に渡仏し、絶賛を博してまいりました。保存会の幹事長と騎士2名が八戸から遠征しました。展示用には、螺鈿入り漆塗りの鞍や和鐙を、空輸に耐えるよう鎧櫃を模して一回り大きな木箱を作りました。  

 私たちの地域のご紹介

・八戸市は「はちのへ・し」と読みます。「はっと」ではありません。工業と漁業の盛んな街です。新産業都市計画により北東北の工業の中心的役割を果たしてきました。漁業は、かつて漁獲量、金額双方で10指に入る漁港として自慢の一つでした。近年は、イカやイワシ、鮭など主な魚種の不漁が続いています。

・地球の温暖化により、海流が変わってしまいました。潮目は近海から遥か沖へ遠のき、鳥柱も見ることがなくなりました。この喪失感の八戸漁民を励ますため、加賀美流蟇目鳴鏑矢(かがみりゅうひきめなりかぶらや)という厄除けの儀式を奉仕したいと考えています。

・自然に恵まれた美しい街です。太平洋に面し、三陸復興国立公園内の名勝地・種差海岸の芝生地や、鳴り砂の砂浜・大須賀海岸、ウミネコの繁殖地・蕪島など、国指定の天然記念物と海岸美を堪能できます。

・館鼻(たてはな)岸壁の日曜朝市は、魚の水揚げが定休日となる日曜日の漁港を利用して、百科商店が並びます。漁船は給油、食糧補給、乗組員の休業などで港に係留され、荒海でもまれた漁船が骨を休めます。

・二本の1級河川が海に出る臨海地区には、工場群が林立します。回遊するイワシなどを釣っています。八戸市民は、海釣り、花火大会、凧揚げ大会、水族館、海浜トレッキング、それに私たち会員の渚を駆ける乗馬トレッキングなど、海添いの自然を楽しむことが大好きな市民です。

・市民の森不習岳、青葉湖、階上岳、名久井岳、遠く八甲田連峰を望める、山並みと海に抱えられた、自然の宝庫です。他に、奥入瀬渓流と十和田湖、八甲田山、下北ジオパーク、小川原湖等、八戸から近い観光名所が盛りだくさん。下北半島の東端・尻屋崎には青森県指定の天然記念物・寒立馬(かんだちめ)が草を食み、通年放牧の厳寒期は吹雪に耐え、氷を蹄で叩き割り枯芝を食み、母馬が仔馬を囲み防風馬林になります。尻屋崎へ向かう三沢から六ケ所の辺りは、藩牧・木崎之牧と、幻の駿馬・尾駮の駒(をぶちのこま)の生息地帯です。農作には不毛の地でしたが、ミネラル豊富な海水を含む偏東風(ヤマセ)こそ、強靭な体をもつ馬体を育む秘密のカギでした。

・八戸と馬の関係でご紹介したい自慢話は、3歳馬日本一を決める、ダービーライダー前田長吉です。最年少記録はいまも破られておりません。シベリアに抑留中、病死しましたが、DNA鑑定で判明した遺骨が、ふるさとの遺族の元に還ってきました。馬ライターが八戸に足を運び書いた本があります。

・【赤字の無名・八戸藩を救ったのは、藩の広告塔・お抱え力士、大関四賀峰東吉、6尺35貫!】江戸で相撲が流行った時のこと、慢性赤字の藩財政脱却の特産品、味噌醤油の原料となる大豆、農作物の肥料にするイワシの〆粕、刀や釘の原料になる鉄の取引が盛んになるよう、無名の「八戸」を知ってもらうため、大関・四賀峰関と「お抱え角力(すもう)」の契約をしました。八戸藩の広告塔として勇名をはせました。藩財政はやがてうるおい、ついに悲願の黒字へ脱出できました。

〇【プロジェクトを立ち上げた背景や経緯】

【歴史的民俗文化遺産の資質を持ちながら、150有余年の長い星霜を眠りについていた八戸藩の流鏑馬を、今こそ再興伝承すべきです】

 藩政時代の神事流鏑馬は、八戸藩領の平穏無事を祈る政の華でした。廃藩置県と敗戦という2大政変により、消滅したり禁止されていた流鏑馬を再興・伝承すれば、元気な八戸づくりに寄与できると信じてこの事業を起こしました。

 しかし最大の構造的課題は、莫大な事業資金を継続的に確保するには何が必要か?ということでした。当市の市民による自主的地域興しの事業に、助成金制度がありますが、同一団体は一回に限定されています。事業は隔年開催で伝承する催事なので、他の助成制度や、ふるさと納税や赤い羽根共同募金使途指定式の採用に立候補する等、方策はいくつかありますが、皆未知数です。一番の頼りはCAMPFIREのクラウドファンディングです。

【これまでの活動】

〇【プロジェクトにつながる過去の活動経過と今後の展望】

(1)【消滅していた流鏑馬を再興しました。今回は第3回目で、「繋げて定着させる」ことが目標です。併せて、八戸市の無形文化財に指定登録されることを第2の目標に設定し、その書類申請を進めます。】

・版籍奉還、廃藩置県により、政の象徴であった神事流鏑馬が消滅してから、152年ぶりの令和元年、八戸市制90周年の記念すべき良き年に、本会の創立10周年の節目に、とうとう再興の第一目標を果たしました!これが活動の中で1番うれしかったことです。私が有言実行する人間だと、自分に誇りを持てる流鏑馬翁になれました。隔年実施の藩日記の記録に従えば、今年が伝承段階の端緒から繋げるジャンプの年となる、第3回目に当たります。15年前に木馬騎射から始めた小学生が、令和6年春には大学を卒業し、八戸地域に勤務予定です。

(2)【3.11大震災後の八戸市の復興を目指し、三陸復興国立公園に編入された、種差海岸芝生地・大須賀海岸の稽古に親しんできた名勝地の前途を祝い「種差海岸芝生地乗馬体験」を提案し、その後乗馬クラブが継承、12年間に渡り継続しました。】

・プレゼンテーションデモには、市観光課長のZさんと、種差海岸観光協会会長のYさん、メディアを代表して地域新聞「デーリー東北新聞社」報道写真部のOさんを現地にお招きし、渚や芝生地を駆けたり引き馬に乗ってもらいました。関取クラスの体格のOさんは、馬がかわいそうと固辞されましたが、馬上のカメラアイは新たな視角と無理やり乗ってもらいました。

・翌朝の1面トップの半ページ以上の紙面に、雄大な渚の騎乗姿が載りました。乗馬体験の提案が即採用になり、7~9月の3か月間、週末の乗馬を延べ20回分、補助金など予算をいただきました。地元八戸短大の幼児教育学科の学生さんに、ヘルメットやライフジャケットを装着してもらうスタッフとしてボランティアを要請しました。将来幼児教育の場で、馬と触れ合う教育を実践されるよう、未来のビジョンから指名したのでした。勿論学生さんたちにも乗ってもらい、岩場に咲くニッコウキスゲやスカシユリに、潮風に、波音に感嘆していました。並歩(なみあし)の揺れを怖がって緊張していたのが、一回りすると、馬の揺れに合わせてダンスを踊るように一体になって、こわばっていた顔が笑顔に変わっていました。

(3)【お師匠さんに恵まれて、乗馬と流鏑馬30周年を迎えました】

  [一のお師匠さん]自らの技術を磨き修練を積むため、4人の先生に教えをいただきました。[一のお師匠さんー鎌倉の武田流のK.I先生]の門を叩きました。教場は、三浦市のM乗馬クラブで、毎月第1日曜日で、正月の稽古始めに参りました。

 [二のお師匠さんー月一の稽古では不足なので、数多く和鞍に乗るため、乗り放題の山梨県のK牧場で合宿しました。和式馬術の元全日本やぶさめ競技連盟を立ち上げる草創期に参画されました。

 [三のお師匠さんー和式馬術の本流である大坪流の師範であられた、相馬市中村のT甲冑工房のT先生]に、野馬追に出陣される前にお宅での儀式を見学し、馬装や馬周りの手伝いをしました。工房の木馬や、修理中の国宝級甲冑など珍しいものばかりでした。仙台からお屋敷に着いた馬運車から馬を下ろして散歩させ、ブラッシングや馬装の装着など実習により覚えました。

 [四のお師匠さんは、乗馬教育のお師匠さんー乗馬と馬の世話を通した適応指導教育と、日光東照宮の流鏑馬の英語解説専属のS.K先生]経営のKホースパークと「なみあし学園」の寮生の宿泊寮に泊まり込み薫陶をいただきました。

 多彩な師匠に教わりました。流鏑馬を普及させるため、やぶさめ競技連盟を立ち上げ初代理事を務めました。北海道芽室で第1回大会を開催しました。その翌平成13年に、十和田市で第2回大会を開き、以後毎年開催しました。平成16年4月に女性限定の桜やぶさめを始めました。私が総括と審判長を務めました。木馬騎射を競技として確立しました。十和田市の馬事振興協議会設立に当たり、流鏑馬指導と普及のため、特任理事の役目をいただきました。平成17年に十和田市の駒っこ牧場がオープンしました。初代理事として管理運営に当たるNPO法人・馬主協会の理事として、調教ややぶさめ指導、ジュニア乗馬クラブの指導などを務め、アクロバティックライディング選任として指導に当たりました。

・武芸やぶさめ、神事流鏑馬再興普及のため、武具や馬具、衣装、人材(神事奉納の射手として)などの多様なニーズに応じてきました。徳川時代の故実の富士市の浅間(せんげん)神社復活新春流鏑馬奉納、帯広神社初奉納に「捨て鞭扇の儀」を披露、以後日本各地の歴史的流鏑馬の諸役や着付けの手伝い、馬廻りの馬具装着を介添えして、斯道の普及に奉仕してきました。

・競技歴は、弘前城築城400年祭国際ホースバックアーチェリー競技大会と北海道鹿追町の全国流鏑馬選手権大会団体の部で優勝しました。個人戦では、北海道恵庭市の全国やぶさめ競技大会で準優勝しました。ミズスマシのように滑らかに滑るように走る優れた馬を貸していただいたおかげです。

 併せて、在来馬の保護奨励のため、食肉用途に留めず、流鏑馬など乗用馬として活用することにより貢献できるものと自負しております。本会の流鏑馬興行には在来馬を使用しています。木曽馬、北海道和種(どさんこ)を主に用いています。

(4)一門の研修のため、盛岡八幡宮や遠野郷八幡宮、八戸の櫛引八幡宮、弘前藩高岡八幡宮等を実地に見学しました。

(5)地元の櫛引八幡宮の秋の例大祭の流鏑馬に、諸役で出演する八戸市立M小学校の児童に対して、事前の歴史学習、木馬騎射の実技体験、生き馬に乗る乗馬体験などを奉仕してきました。その体験学習の成果か、本会に入会した動機にこの体験を挙げております。

(6)八戸市にあります国史跡「根城」の記念祭(中世のお城を築いた南部師行公(もろゆきこう)の慰霊祭)に「天長地久の式(戦陣必勝祈願の式)」、「蟇目(ひきめ)の式=悪疫祓い」などを奉仕。

(7)秋の「根城まつり」には、本丸跡で木馬騎射の示範演武と体験騎射を例年奉仕してきました。

(8)三社大祭中日の加賀美流騎馬打毬の興行には、加賀美流弓馬術の専門解説者として、観光客や研究者に、事前の馬具組み立てから、実践上のルールや妙義の解説をして、観光水準にとどまらず、歴史的民俗文化遺産として学術的レベルで、加賀美流馬術の粋をわかりやすくひもとく解説を奉仕してきました。

(9)小学校や中学校が夏休み、冬休みに入った時期に、1週間の集中稽古を長者山新羅神社と櫛引八幡宮の馬場で木馬騎射の演武を披露して、体験の機会を設け、後継者の募集と育成に努めてきました。

(10)特別支援学校の乗馬体験に出張奉仕したり、青森県指定の天然記念物「寒立馬(かんだちめ)」の現地ガイド、目の不自由な児童生徒の特別ブラッシングや餌やりなどに、介添え奉仕してきました。

(11)藩日記など南部家文書などを解読し、八戸歴史研究会の機関誌『八戸地域史』に、論文「奥州南部流鏑馬史」を6回にわたり発表してきました(第六回目は八戸藩家伝の加賀美流弓馬術の巻子を撮影し、原文解読をして公表。令和5年11月刊行予定)。

 また、青森県文化財保護協会に入会して、令和4年11月の地域研究発表会において、〈「加賀美流流鏑馬」は青森県の無形文化財として指定登録するに相応しい要件をもっている〉と命題を立て発表しました。その機関誌『東奥文化』に収録され、令和5年春に上梓されました。八戸市と青森県の無形文化財指定登録を求めて関係書類をもって申請し、地域の遺産を保護する為に寄与したい所存です。

 (12)  八戸市立小・中学校における武道のカリキュラムに、流鏑馬や騎馬打毬の無形文化財を継承する人材育成のためと、青少年の健全育成に資するため、関係するクラブを設けるよう働きかけたい。

(13)直近の活動ー青森県民文化祭(主要市を持ち回り開催する)に、令和2年の第30回と令和3年の31回大会伝統文化部門ー藩政時代の古武道を演武する会ーを旗揚げし、その部会の代表理事として、八戸、弘前の大会を成功させました。本会の木馬騎射、蟇目の式等演武、居合道、篠笛演奏の三部構成のプログラムで実施。密を避け、公園などの屋外の風通しの良い環境で実施しました。いずれも晴天に恵まれました。

【資金の使い道と内訳】(目標額を超える分は地元企業の広告協賛金をもって当てます)

1)馬匹3匹のレンタル料-1日間(函館の牧場と会場・八戸間の輸送に各1日)     90万円

2)柾目的板(本義@3的×3回=9枚)×6射手=54枚(予備含め60枚)                  18万円

3)衣装類の夏鹿毛行縢(なつかげむかばき)ー2匹分で射手一人分。@10万×2枚、     20万円  

 第2回の時に、本会の備品として、射手3人のうちの一人目様を購入、今回の計上は2人目用。

4)招待射手交通費、宿泊費、謝礼食事お土産いっさいの経費。                                  20万円

5)傷害保険料(射手衆)3万円 6)ボランティアスタッフ(延べ50名分)ー弁当・お茶、飲料水 5万円

7)騎乗舞の巫女上衣と赤色の馬乗り袴、髪飾り一式                           10万円

8)的裏の流れ矢止め幕3張、馬出し・馬止め用幕  @8万円×3張+2張=40万円   40万円

9)家紋付き幟旗10枚  @¥3,500×10=30,000円                 3万円

10)諸役衣装(裃、小袖、襦袢、笠、大小刀、白緒草履、素襖袴他)順次揃えていきたい。

※予算が確保できるまでは、隣町の南部町より借用します。但しクリーニングして返す条件。        

〇見積り(「Kクリーニング」)で@(1セットは、裃、襦袢、小袖、帯) 但し、白緒の草履は、汚れたものは引き取り新品を以って返す。白緒草履@¥2,800 。白足袋は本会で購入し配布。各自洗濯。1回限りの消耗品として処理。屋外のため土で汚れ甚だしい故。     5点セット(裃、襦袢、小袖、足袋、帯)@\10,000×10人、 10万円

11)キャンプファイヤー手数料  17%(1,500,000×0.17)=255,000。     25.5万円

【実施スケジュール】※荒天の場合、降雨による馬淵川の水量が危険水位を超えた場合は中止します。小雨の場合決行。(日程を繰り上げたり、変更することがあります。)

〈事前準備〉①仮設馬場の草刈り。空き缶、ゴミ類も収集。1週間前の10月7(土)~8日(日)。

       ・1回目は草刈り払い。2回目は芝刈り機で刈り込み。防虫ネット着用する。

       ・馬場拵えその1:測量して2丁の長さ×土手下の緑地10メートル幅に、2.4m幅の馬場を造  

        るため、10m間隔に目印になる杭を打つ。

       ・そこに杉の丸木杭120㎝を打ち込む。・縄を張る。30mごとに縄を切り、馬が触れて埒全て

        が倒れるのを防ぐための工夫である。

       ・埒に平行に、トラ目ロープの縄を張る。観客が馬の走路に近付き過ぎないよう、安全のため

        補助縄張りである。その外に観客用のパイプ椅子を当日の朝に並べる。

      ②衣装虫干し ③馬具、武具、衣装の点検と営繕  ④衣装駆り出し日:10月11日(水)9時。

      衣装合わせと着付けリハーサル(一人で着れるように) 

○諸役リハーサル(太鼓打ち方、射手の呼び出し、馬止めと馬出し、扇の合図、的奉行の当たり外れの判定役リハーサルー「中(あた)り」は床几から立ち上がり、頭上に御幣を上げて左右に2回振り、着席します。「外れ」の場合は、腰かけたまま、御幣を地面を摺るように、左右に2階振ります。外れ的立て=的換えリハーサル、神事では矢が外れて的に損傷が無くても、射手ごとに新しい的に変えます。割れたり砕け散った的を素早く拾い集めて収納袋に入れます。矢を拾い、射手が並歩(なみあし)で馬場元に返す時、埒に寄り手渡します。鏑の方を持ち、羽の方を射手に向けて差し出します)※主役の射手に限らず、諸役の仕草一つに、「さすが!」と感心していただけるよう、➡古来からの正しい礼法に則った所作をします。

◆日程表 ◆⑤事前準備〈10月13日(金)15時:根城広場、下町側倉庫ーテント3張、横幕1張;

                    16時:市体育館東側倉庫からテーブル10,パイプ椅子50脚。

                    前田氏の軽トラ借用。

◆⑥〈前日設営、10月14日(土)9時、馬淵川河川敷特設馬場集合〉。設営隊昼弁当20人分11時、現地配達。     

                    吉成さん。

⑦馬場拵え(10月7日~8日が雨天などでできなかった倍の予備日として):9:00~12:00。予め測量して、杭打ち込み場所に目印を付けてある。軽トラに杭を積み、馬場本から馬場末(ばばうら)に向けて、10メートルごとに丸木の杭を、2丁(216m)ある馬場末まで打ち込む。馬止は3匹目が入るまでの待機場所であるから、すこしふくらみをもたせて走路延長の脇に設ける。杭に縄をかけて埒(らち)を仕上げる。縄の張り様は少したるみを持たせるくらいが良い。すでに馬場の拵えが終わっているときは、テントを収納袋から出して

骨を組む。屋根のシートを装着する。組み立てが終わった後に、テーブル、パイプ椅子を折りたたんだ状態のままで覆います。

⑧仮設トイレ設置ー「イベントサポート(株)」のクレーン車がトイレ2基を現場に設置。立ち合い、設置場所を指定。夜間施錠する鍵を受け取る。 

⑨射手衆と打ち合わせ会議ー18時~20時。日程と役割の確認。衣装武具馬具の確認。射手が1組と2組それぞれ3人一組で、3匹の馬は二人で共用します。その際、鐙の長さが異なり調節する必要がある場合、何穴詰めるか伸ばすか、最初の騎乗である並歩(なみあし)と素馳せの段階で確認しておくこと。素馳せと試技の前には腹帯の緩みを確認し、必要があれば、二人立ち合いで作業を行うことを確認する。健康がすぐれず、体調が悪化した時は、我慢しすぎず総括の黄綿に連絡し、交代や代案等を工夫、善処することを事前に申し合わせる。

翌朝の朝一番の会場設営では、

(机1:受付案内、机1:放送機器用、机2:来賓用、机6射手、諸役)、本部内椅子はテーブル毎各2。埒沿いの観客用30脚。2の的周辺に並べる

⑩当日の日程

⑪現地集合:9:00 会場設営;土手の上の馬場の区間は通行止めにする。特に馬を奔らせているときは、動かないよう協力をしていただきます。内舟渡町内会には案内と日程、協力要請事項を記載したパンフレットを全戸配布する。

⑫行列集合:9:30 御家紋の幟旗を先頭に、太鼓、総奉行(騎乗)、神官、射手衆、諸役が正装して馬場を行進。本部前にて開会式を行う。三つの的の前で神官による厄払いの儀、御神酒を献ずる。

⑬開会式:10:00 実行委員長の口上、神官による弓矢、射手の厄払い。(市長の祝辞は現地入りできる時間帯で調整する。9月17日現在未定)

⑭持ち場に着く。射手の引き馬。馬場慣らし。返しは乗馬してなみあしで帰る。(射手の2組も乗り換えて同様にー。)

⑮素馳せ(弓矢を持たず、手綱を取るも置くも自由なり。立ち透かし乗りの確認ー走る馬の上下動や着地の衝撃を解放し、騎士の姿勢が常時一定に定まる乗馬法。馬の調教においても、上下動が少なく、ミズスマシが水面を滑るがごとく奔らせるのが馬上手、流鏑馬上手の観方、評価の目安です。モーグルの上村愛子選手がメダルを取ったときの滑りこそ、流鏑馬射手の極意の姿形なのです。これを実演してみせます。では、S.ローソンさん、下手な乗り方を見せてください。返しで理想の「立透かし乗り」を見せてください)

⑯試技1本。弓矢を持ち的に矢を放ちます。矢を射る射手と的をすげ替える的奉行、中り外れを知らせる弊振り奉行のリハーサルを兼ねます。弊振りは当たり外れを観衆に知らせます。日記は縦に3っつ並べた記録帳に当たれば白丸、外せば墨で塗りつぶして黒丸にします。顔に塗る遊びと違います。外せば末代まで不名誉を残すことになります。黒丸という苗字はそこからできたのかもしれません。

いよいよ本義ですが、馬の心拍数を下げるため、クールダウンをします。心音を聴きたい方は申し出てください。聴衆料は心拍数38回で1万円です。専属の馬医のKさんから借りしました。

⑰本義1本目(的1&3:鳥獣、2の的:白扇):11:00~11:30

⑱馬匹クールダウン:11:30~12:00:引き馬乗馬体験

⑲本義2本目 (的1&3小的、二之的:かわらけ):12:00~12:30

⑳馬匹クールダウン:12:30~13:00:騎乗舞(扇之舞)

㉑騎乗武芸:13:00~13:30(騎射ー下方射ち後方射ち、女手射ち、打毬)

㉒馬匹クールダウン:13:30~14:00:騎乗舞(神楽鈴之舞) 

㉓本義3本目(的:板的、杉・柾目、尺8寸四方):14:00~14:30

㉔記念集合写真撮影14:30~15:00(両端に馬も、諸役ごとまとまった位置取り、役者(=射手衆)、御来賓、町内会長さんは前列センター)

㉕体験乗馬:15:00~15:30(3匹各8人、お一人5分以内。体験希望者は馬ごと、馬に向き合う位置で1列に並ぶ。幼児児童は保護者同伴。ヘルメットを被る。)

㉖閉会式:15:30~16:00閉会宣言、全員「勝ち鬨の声三唱」

㉗撤 収:16:00:借用物のテーブル・パイプ椅子は、本部脇舗装指定場所に集めて折り畳みテントの屋根を剝さず被せる。      同・16日(月)8:30~9:00,テーブル・パイプ椅子➡市体育館へ。

 9:30:仮設トイレ2基、汲み取り業者作業。15:00;業者クレーン車積み込み現場での撤収は完了した。

㉘17日(火)9:30 テント、横幕返却。根城広場下町側倉庫へ。軽トラで運ぶ。※興行日の午後より雨が降り、テント地が濡れたので、乾かしてから返した。➡19日(木曜日)10時。

㉙馬匹見送り:青森埠頭迄高速有料道➡フェリ―埠頭へ翌朝函館港着。※午後から雨が降り、切り上げて終了した。繰り上げの便に乗り、今日中に牧場へ帰れる。

リターンのご紹介

【リターン】せんべい汁(八戸の名物です。八戸はB1グルメの発祥地です。優勝経験もあります。飢餓に苦しむ領民を励ますため寒村を視察した藩主が休憩していると、村人が僅かに残る小麦粉を練って焚火であぶり、殿様に差し出したそうです。少しの塩味でしたが、たいそう歓ばれて、以来、「天保煎餅」として語り継がれ、街を歩けば焼き上がるせんべいの香りが流れてきます。これを汁に入れて、野菜などの具材を添えたものがせんべい汁なのです。非常食としても推奨できるものです。是非ご賞味ください。」

 プリント直前の最終校正の原板コピーを、追加掲載します。

 最後に【熱いメッセージ】◆招待射手は、武道流鏑馬の国際大会で優勝ないし上位入賞経験のある凄腕ばかり。飛ぶように疾駆する北海道和種馬と、左右の手綱を鞍の前輪に置き、「立透かし乗り」の姿勢で腰を張り、体の上下動を抑えて安定した姿勢で弓の妙技を堪能できます!流鏑馬の弓矢の安全と、馬と射手と諸役と皆さまの幸せを祈願しました。馬という字のつく馬淵川の特設馬場で、第3回目となる伝承の舞台に、お集まりいただき誠にありがとうございます!と、開始式の口上で高らかに読み上げます。まずは、晴れますよう、皆さんも祈ってください!

 「天気よし 馬場よし馬よし 気合いよし 悪疫祓う 的ぞ中(あ)てなむ 」     宙 飛

(頼朝に請われて流鏑馬の全てを教えた、流鏑馬の名手・佐藤義清は、皇后の御寝所を警護する北面の武士でした。出家して和歌を詠み、雅号を西行と申しました。これに倣い、和歌を一葉、宙飛の号で詠みました。支援者の皆様へ奉げます。

◆対価以外に必要な費用はございません。

◆<募集方式について> ●本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします


最新の活動報告

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  • この画像は、令和5年10月15日に実施された、第3階八戸藩加賀美流流鏑馬興行の、流鏑馬本義の後のクールダウン幕間に導入した、騎乗舞の「神楽鈴之舞」です。 友情出演の戸山流流鏑馬会の射手・清川悠女史の振り付け創作を自ら披露された、初舞台でした。直垂に夏鹿毛の行縢(むかばき)をまとった射手の荒業と、巫女の衣裳に衣替えした艶やかさと静けさは、両極の麗しさと言えましょう。 また、興行中のBGM として、「扇之舞」と「神楽鈴之舞」の伴奏曲、琴と篠笛の合奏曲「八戸の未来に祈りを」は、本会のために創作していただいオリジナルで、この日が デビュー初陣でした。ユニット名「あや・まり」コンビが、ここ八戸の舞台で実演してくれる次回が楽しみです。紫月綾子さんと、星野真里さんの和楽器と流鏑馬、騎乗舞の異文化が新たな文化を創造してくれるかもー。 もっと見る

  • ☆「蟇目之式(きひめのしき)」は、矢の先の鏑(かぶら)が木製です。楕円形で風を切る前の面に4つの穴を開けは、ています。悪疫の進入口である北東の方位(鬼門)の空へ、陰陽の矢2本を放ちますと、笛のような音が鳴り響きます。平家の佐藤義清(のりきよ)が北面の武士として皇后の御寝所を警備する勤めの交代時の儀式であったそうな。やがて、義清は23歳の若さで出家し、西行と呼ばれました。陰陽の蟇目矢は、斯道の大先輩であります東京の笠原克美氏から本会の興行記念に戴いたものです。☆予定を繰り上げて慌てていたせいか、手袋をはめて居ませんでした。小桜紋の鹿の皮製で愛用の一つでした。☆八戸はインフルエンザが流行り始めました。予防接種は高齢者故、\1,000でできますが、蟇目の鳴鏑矢の射手を務めた立場なので、「願」が叶うと信じ、予防接種はしません。皆様の健康も祈念しましたよ! もっと見る

  • ☆鞍上して気づいた。俺がライダーだ!オレが乗る幸柳こそ4Wだと!☆波が寄せても逃げなくなった。真っすぐ行けと命じれば、波に蹄跡が消されようとも、膝を高く上げて側対歩で走る。宮内庁の伝統行事「絹引」は、駆け足でも安定した走りを見せる走法である。私は流鏑馬の馬は側対歩に調教する。子の砂浜で「母衣引き」の稽古をしてみたい。☆雪柳と幸柳は機嫌が良かった。涼しい秋の風が吹き、虻は出てこなかった。稽古の後の蹄の裏堀りは不用でした。砂浜の良い処だ。津波を被り赤茶けて涸れた松の植え替え苗が2メートルにも伸びて頼もしく見えた。☆来春はこの渚で那須与一を体験してみよう! もっと見る

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