久能山東照宮「刀剣伝承」プロジェクトに多大なご支援をいただきまして厚く御礼申し上げます。
本日4月17日は、御祭神である徳川家康公の薨去された日にあたります。そこで当宮では、この日に最大の神事である御例祭が斎行されます。徳川宗家当主を司祭に迎え、特別に調えられた「三品立神饌(さんぼんだてしんせん)」の供進や、江戸時代に駿府代官所・町人より野菜・菓子が献納された故事に基づく「神供進献の儀」などが厳粛に執り行われます。
そして今回の「刀剣伝承」プロジェクトにも、この日に縁のある刀剣がいます。
重要文化財 太刀 無銘光世作(ソハヤノツルキ)です。家康公の愛刀であり、久能山東照宮では第一の重宝として今日に伝わっている太刀です。何故第一の重宝となっているのか、それは社伝や数々の文献に残されている逸話に由来します。
家康公が亡くなる2日前(文献によっては前日)、つまり4月15日(16日)、家康公は側近の都築久太夫を召し出し、「三池の御刀」を授けて「子孫長久の守神」とする様遺言を遺されたといいます。社伝では大坂の陣後なお不穏な動向のある西国に切先を向けて立てておく様命じたとも伝わっています。
その逸話にちなみ、当宮ではこの太刀を御神体同様の扱いとして、江戸時代には社殿奥の最も神聖な場所に安置していました。ただ、納めたままでは刀剣は錆などの傷みが出る可能性もある為、定期的に職人を呼び寄せ、手入れを行っていた記録も残されています。それだけ大切に扱われていたという事がこういった記録からもうかがえます。
そうした逸話を持っているからなのか、当資料が重要文化財に指定されたのは明治44年(1911)の4月17日(※指定当時は国宝。昭和25年の法改正によって重要文化財の区分に変更)となっています。逸話、そして指定日と、何かと今日の日付に縁のある刀剣なのです。
刀身の保護には、「白鞘」を使用します。材料は調湿に優れた朴(ほお)の木を使用して、普段は拵に入れず、白鞘に入れて保存します。一般的には30年程度で新調すると言われています。
では、久能山東照宮に伝わる白鞘の多くははいつ頃作られたものなのでしょう?先程紹介した太刀 無銘光世作(ソハヤノツルキ)の白鞘を例にご紹介します。
本資料だけでなく、その他の鞘の多くには鞘書きが残されており、どの将軍が、いつ頃納めた何という刀なのかが一目で分かるようになっています。その裏面にはこの鞘が作られた年代、そして製作を担当した職人の名前が残されています。
鞘書きに残されている製作年代は安政5年(1858)であり、今から160年以上前に作られている事が分かります。それだけ古い白鞘を、現代まで大切に使用していたという事になります。また、柄部分も現在で使用されている白鞘とは異なり、茎(なかご:柄に隠れている部分。刀身で直接触れられる部分)の一部が露出した形になっているのも特徴です。
160年もの年月が経つと、表面がここまで綺麗な状態を保っていても内部の木材が削れるなどして痩せてしまい、本来の目的である刀身の保存が難しい状況になってしまいます。鞘書きに残されている情報も大変貴重なものが多く、刀身と白鞘、どちらも大切な文化財として後世に残す為、ただ今白鞘の新調の事業を進めております。
本プロジェクトも残り3分の1の期間を残すのみとなりました。皆様におかれましては、引き続きご支援頂けます様お願い申し上げます。