2024年5月25日(土)、かえつ有明中学校・高等学校にて、アウシュヴィッツとホロコーストについて考える特別教室を開催しました。改めまして、我々の特別教室の開催をご支援いただいた皆様、誠にありがとうございました。当日お越しいただき、ご参加いただいた皆様もありがとうございました。
開催から少し時間が経ってしまいました。今更速報的なご報告には意味がありません。改めて振り返りながら、我々の活動のメインとなった「特別教室」について、その前後の経緯を踏まえてご紹介できればと思います。特別教室に関する活動報告は全4回(+αあるかも?)に分けてのご報告を予定します。第1回の今回は「設計編」です。ポーランドとドイツへ行って、帰ってきて、三塚と昆の二人は何を考え、どのように特別教室を設計していったのか。
4月、あるいはアウシュヴィッツへ行く前
4月4日、クラウドファンディングの募集最終日を迎えました。ドイツから帰ってきて一週間と少しが経った頃。僕らは二人で月島の河川敷でビールを飲み、ポテトチップスを摘みながら、stand.fmの配信をしました。アウシュヴィッツへ行って感じ、考えたことを語るというよりは、もっと単純に、行ってよかった、という思いをそのままに発露されていて、気分も発言も感想色の強い時期でした。ポーランドとドイツで目にし、触れ、感じた様々な物事が未だ鮮明で、ついさっき見ていた夢について語り起こすような面もあったかもしれません。「よかったよね」「いやあ、本当によかった」「また行きたいわ」「いやあ、本当にね」みたいな語り口だった気がします。
教員をやっている三塚にしろ、会社員の昆にしろ、4月というのは新学期だったり、業務の引継ぎがあったり、要するにとにかく忙しく、常にばたばたしているタイミングでした。気がつけばゴールデンウィークに差し掛かり、一瞬でゴールデンウィークが終わり、「さて、特別教室だな」と。「うむ」と。少々の焦りとともに、我々の特別教室開催に向けた具体的な準備は始まりました。
とは言いつつ、もちろんまったくのノープランで5月を迎えたわけではありません。クラウドファンディンの募集を開始する、その前の段階から、我々は特別教室の構想を少しずつ練ってきました。練るというより描く、という感じでしょうか。自由に、各方面にいくつもの色のクレヨンで線や図形を広げるように語り合いました。なぜいまアウシュヴィッツへ行くのか、我々が行く意味は何か、我々には何ができてそのためにどのような特別教室を開くのか。その思考の痕跡はある程度収束させて、クラウドファンディングのホームのページに綴った文章に込めたつもりです。少しでも、伝われば。
その上で、具体的な特別教室の方針として、ざっくりと下記のように考えていました。
1.二人が実際にアウシュヴィッツへ行き、現地で観て、考えたことを報告する(=発信の場)
2.単に歴史を知るだけでなく、大人と子どもを交えて、創造的な空間をつくる(=対話の場)
初め、1番の方針を主に考えていました。三塚がせっかく教師なのだから、現役の地歴科教師による歴史の授業、という建付けの報告会をする。そんな想定で始まった企画はしかし、せっかく特別な授業と銘打ってやるなら、重要な歴史の問題について知識の有る無しを問わず、自由に対話ができるような場をつくってみたい、と次第に考えるようになりました。こうして「特別教室」の構想が立ち上がったのです。後に、この二軸は我々の企画のユニークであり、躓きの石でもある、まさに諸刃の剣化していきます。とりあえず、続けます。
ポーランドとドイツへ行く前に我々が立てていた論点、「なぜ日本人がアウシュヴィッツへ行くのか」「歴史を学ぶ意義って何だろう」といった問題提起から始まり、その問いに答える形で、我々が観て、感じ、考えたことを語る。それを受けて、参加者が質問をしたり、意見を述べたりして、展開してゆく。そんなイメージを持ちつつ、これ以降の具体的な内容については、実際にアウシュヴィッツへ行って帰ってきてから設計しなければ意味がないだろうと話し、行く前に二人で立てた構想の具体化は帰国後に持ち越されることになったのでした。
「せっかくだから教育や授業として挑戦的な実践にしよう」「学校の授業とは少し毛色を変えて、せっかく休日に大人も参加する会なのだから、よりイベントっぽい催しにしよう」「支援してくださった方々も来てくれる、何か持ち帰ってもらえるものも用意しよう」「現地で買ったお菓子とかあれば、そういうのも喜ばれるんじゃないか」「ブックリストつくって配ろう」。二人でいろんなアイデアを出し合いました。
そうして我々は、アウシュヴィッツへ行き、帰ってきた。帰ってきてから1カ月以上が経った頃、我々は改めて集まりました。昆は特別教室の全体設計や用意すべきもの、TODO、スケジュール等をスプレットシートにざっくりまとめ、三塚は授業内容について、とある提案をもって現れました。
5月、迫る特別教室。想定外の思い
「まず、問いの時間から始めたい。会場に、僕らが撮った写真をばら撒くんだ。僕らはその写真が何の写真なのか、それがどういう写真なのかを、初めに解説しない。参加者に写真を見てもらって、思ったこと、感じたこと、疑問に思ったことを考えてもらう。考えたことを他の参加者と共有してもらう。それから、問いを立てる。出てきた問いを、またみんなで共有する。そんな風にして最初の一時間ちょっと、ワークしたい」
三塚はキリッとした表情で、言いました。昆はまず一言「なるほど」と言いました。心の中で昆は、村上春樹もびっくりの「やれやれ」を漏らしていました。やれやれ、こいつはいったい何を言い出したんだ?と。
しかし他方で、昆は「面白そうだな」とすぐに思いました。せっかくやるのだから、チャレンジングなことをしたい。まずは三塚の言うことを聞いてみようじゃないか。改めて三塚は、この特別教室を「対話」の場にしたいと言いました。何か「答え」を提供する場ではなく、かといって「みんな違う意見で、みんな正解です」みたいな形にもしたくはない。それでも、様々な年齢や立場の方が、ホロコーストとアウシュヴィッツという、人類の歴史的なひとつの問題について考え、話す。知識の有無にかかわらず、互いが尊重されて対話できるような、そんな空間。
もうひとつ、三塚がこのような構成にしたいと考えるきっかけに、あるひとつのイベントに参加したことがあげられます。
我々はドイツのベルリン郊外にあるザクセンハウゼン収容所に行きました。そこでは日本人の中村美耶さんにガイドをしてもらいました。中村さんが開いたイベントに帰国後三塚は参加し、その内容に驚いたのです。
アウシュヴィッツから送られた手紙を読む、というワークショップでした。手紙を読み、感じたことをグループで話し合う。三塚が驚いたのは、その手紙は誰によって書かれたのか、どのような手紙なのか、そのような解説が一切ないまま、ただ手紙を読み、感じたことを共有し、最終的に解答が与えられることもなく終わる。ああ、こんなワークショップもあるのか、とひどく驚いたと昆に言いました。
特別教室を、まず参加者自信の「問い」から始める。アイスブレイク的な要素ももちろん含んでいますが、他方で一時間以上をこの問いの作業に費やす想定で考えていました。単なるアイスブレイクには長すぎます。それはひとつの主題といっても過言ではない。挑戦的な内容に対し、昆は肯定を示しつつ、二つの懸念を三塚に伝えました。ひとつは、この特別教室の参加する人は「ホロコーストについて考えたい」と思って来てくれるのだろうか、それとも、現地に行ってきた我々が観てきたこと、現地だからこそ観て、知ることができたことの話を聞きたい、と思って来てくれるのだろうか、という点。すなわち、報告会的なものを想定していったら、ワークショップだった、という落差にがっかりされないだろうか。もうひとつは、ホロコーストという、歴史的に極めてシビアなテーマを扱う以上、「なんでもあり」な対話をしてはいけないよね、という点でした。そこは三塚も完全に同意する項目でした。
その日、ある程度まじめな打ち合わせを終え、特別教室の開催に向けたおおよその見通しが立ちました。ひとまずほっとして、二人はバーへ行きました。
特別教室はいかにして「設計」されたのか
4回に分けてお送りする予定の特別教室活動報告の初回、しかも設計編という本筋でないにもかかわらず、そこそこの文量に困惑された方も多いかもしれません。申し訳ございません。ご報告が遅くなってしまったというプレッシャーから、せめて文字数で挽回せんとばかりに筆を進めてしまいました。
あるいは、「設計編」と言いながら、本特別教室が何も工学的ないしIT系的なプロセスで立ち上がったわけではまったくないことに落胆された方もいるかもしれません。がっかりさせてしまった方には申し訳ないです。この点については、落胆されること承知で、それでもあえてこの経緯をお話ししたかったということがひとつと、このような一件カジュアルなやり取りで形成されていった特別教室を、あえて「設計」という言葉で言い表したのには、理由があります。
僕らの企画は、クラウドファンディングのスタートから実際の特別教室の開催に至るまで、そのほとんどが二人の会話ないし議論によって生まれ、育まれ、形づくられていったということです。二人だからこそできたのかもしれないし、二人が十年前から会話と議論を重ね続けた間柄だから可能だったという側面もあるかもしれません。むろん、多くの仕事が会議等によって進められていると思います。その上でお伝えしたいのは、僕らの会話と議論にはフォーマットもなければ客観視してジャッジする第三者も存在せず、それどころかたった二人ゆえに議事録もままならず、つまり仕事の会議などに比べはるかにフリーハンド的で、議論は常に拡散し、結論にたどり着かない危機を抱えているものでした。文字通り、おしゃべりの延長線上で企画会議が行われていました。
本企画は、だからこそ自由な発想で、良いアイデアは互いにポジティブに捉え合い、その上でおしゃべりの延長線上とはいえ(延長戦だからこそ)懸念点もしっかりと言い合い、といった感じで出来上がった企画です。
何も僕らの仲良しアピールをしたいわけでも、徹頭徹尾楽しく企画しましたと言いたいわけでもありません。議論が白熱して言い合いになることは多々あったし、本気だからこそ楽しいだけではないこともありました。僕らが言いたいのは、僕らが特別教室で目指した「対話の場」を、何より僕らが実践して今回の企画を立ち上げ、実施したということ。だからこそ、歴史を考える場として、まさに僕らがこれまでやってきたような会話と対話の延長戦として位置付けるあり方をどうにか実現できないか、という狙いがありました。
なぜならそれこそが、僕らにとっての「レキシする」だったからです。
このような会話と議論ベースの取り組みを「設計」と言い表したのは、僕らが目指す「レキシする」を、単なる学問を使った遊びに終わらせず、実際に現実を捉え、動かし、形作るようなものになると考えているからです。
もちろん、簡単な話ではありません。会話と議論で何もかも設計できるわけではないし、会話と議論を主軸にすることの困難さについては、このあとの活動報告でも何度か触れさせていただくことになるでしょう。
蛇足もまた、あまりに長くなりました。活動報告と言いながら、活動以外の話が長くなり恐縮です。設計編はこのあたりで。いずれにせよ、このようにして準備を進めていく我々、しかし特別教室を目前に控え、内容を何度も確認していくうちに、ある重大な欠陥に気が付くことになります。三塚と昆は、いかにしてその欠陥を乗り越えたのか、あるいは乗り越えられなかったのか。そんな感じで準備を進めてゆき、迎えた開催当日の行方は?
続きは「5/25に特別教室を開催しました【2.準備編】」をお読みください!