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アウシュヴィッツを視察した上で、 ホロコーストの歴史の特別教室を開きたい

アウシュヴィッツがポーランドにあることを、僕たちは大人になるまで知らなかった。このプロジェクトは、一人の教師と一人のマーケターにできる今、精一杯の「発信」の挑戦です。立場を越えて共に対話することで、私たち「部外者の観光客」で次世代へ歴史を紡いでいく。そんな空間を一緒に作りませんか。

現在の支援総額

425,500

85%

目標金額は500,000円

支援者数

24

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2024/02/18に募集を開始し、 24人の支援により 425,500円の資金を集め、 2024/04/04に募集を終了しました

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アウシュヴィッツを視察した上で、 ホロコーストの歴史の特別教室を開きたい

現在の支援総額

425,500

85%達成

終了

目標金額500,000

支援者数24

このプロジェクトは、2024/02/18に募集を開始し、 24人の支援により 425,500円の資金を集め、 2024/04/04に募集を終了しました

アウシュヴィッツがポーランドにあることを、僕たちは大人になるまで知らなかった。このプロジェクトは、一人の教師と一人のマーケターにできる今、精一杯の「発信」の挑戦です。立場を越えて共に対話することで、私たち「部外者の観光客」で次世代へ歴史を紡いでいく。そんな空間を一緒に作りませんか。

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ホロコーストとアウシュヴィッツとは何か、について。

 ホロコーストとは、 1933年から1945年の間にナチスドイツ政権を中心としてヨーロッパ全土で進展したユダヤ人の組織的な迫害および虐殺のことであり、国立の施設である強制収容所で実施されました。

1933年から建設が始まっていた強制収容所には、ナチス政権に反対した人や刑事犯、障がい者といったナチス政権から「不必要な人材」と見做された人々が収容されており、そこにユダヤ人も含まれました。第二次世界大戦の勃発後、ドイツは占領した国にも収容所を造り始め、中でもアウシュヴィッツ強制収容所が最大規模の収容所でした。

ポーランドのクラクフ近郊にあるアウシュヴィッツ強制収容所には火葬場、絶滅収容所、および強制労働収容所があった。「Arbeit macht frei (労働は自由への道)」というスローガンが掲げられた門をくぐると、自由や尊厳は剥奪され、“ユダヤ人であること”が殺害を肯定しました。運ばれたユダヤ人はナチスの医師に“選別”され、労働に適さないと判断されれば性別や年齢、政治思想にかかわらずガス室に送られました。

 こうした意味でアウシュヴィッツ強制収容所は、ヨーロッパにおける「ユダヤ人絶滅センター」でした。ホロコーストによって約600万人のユダヤ人が犠牲になったといわれますが、そのうちの110万人がアウシュヴィッツでの犠牲者であり、アウシュヴィッツ強制収容所は「ホロコースト、大量虐殺、暴力の象徴」とされました。

このような歴史を僕たちは学びました。



僕らの出会いと来歴。

 僕らは大学の史学科で出会いました。お互いの共通点は「元サッカー部」「歴史」「教職課程」くらいでしたが、授業の合間に話をする回数が増えていきました。

 世界史が好きだった僕らは、大学の食堂や居酒屋で多岐にわたるテーマを、時には声を荒げたりもしながら語りあってきました。議論は尽きることなく、互いの家へ行ってお酒片手に、読んだ本の話、歴史の話、政治の話などを深夜までして、朝になったら頭痛を抱えて帰路につくのが通例でした。そんなやりとりは大学を卒業しても続き、定期的に二人で集まっては10時間ずっと語りっぱなしなんて日も普通になっていました。

 教員と出版社と、お互い活動する場所は違っても、それぞれが考える「発信」の意義と価値について議論を重ねてきました。

 語る量が増えていくうちに関心も似てきて、「今、ここに行きたい」と思ったら自然と声を掛け合うようになりました。これまでにも、「歴史の継承」と「復興」をテーマに思索を深めに、京都と奈良へ行きました。また2019年には、当時話題になっていた「あいちトリエンナーレ」について、ネットの情報や誰かの言葉からではなく、この目で見て、考えたいという思いを共有して、愛知県へ訪問しました。今回のプロジェクトも、いつも通り二人で飲んでいる時に三塚が放った「一生に一度は必ず、アウシュヴィッツに行っておきたいんだ」という言葉から始まりました。

 三塚の来歴

 小学校の時の担任と合わず、学校に行けなくなる日々を過ごしました。「自分の方が教師に向いている」という反骨精神から教職を志し始め、気付いたら授業を「自分だったらこうする」と考えながら受けるようになっていました。高校3年生の頃に受けた日本史の授業が受験の知識を越えた深い内容で、「教科書に書いている歴史とそうでない歴史の違いは何か」、「そもそも歴史は誰が作っているのか」という問いを探究したくなり、教育学部ではなく文学部史学科に進むことを決意しました。

 昆を含めた友人の影響から、受験で使った日本史よりも世界史に関心を持ち始め、気付いたら西洋史関連の本を読んだり、映画を観たりするようになっていました。昆の家で友人たちと観た「新・映像の世紀」が面白くて、過去作を振り返りながら観ているうちに、「ホロコースト」のテーマに出会いました。それまで、「ヒトラー」「アウシュヴィッツ」「ユダヤ人」「ホロコースト」というワードは知っていたものの、アウシュヴィッツがポーランドにあることすら知らなかった僕は、その映像に衝撃を受けました。人はどうしたらここまで残酷になれるのか、何が人を残酷にするのか。そんな問いが駆け巡りました。大学卒業後もそれは続き、様々な本や映像を参照してきました。

 中でも、ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」、東浩紀の「愚かな悪」という概念は、一人一人のユダヤ人の「固有名」を剥奪し「数値化」したアウシュヴィッツと、一人一人の子どもを「生徒」とし「管理」する学校、という対比を僕に突き付けました。僕は、この「凡庸な悪」「悪の愚かさ」という問題は教師を志す限り真剣に考える必要があると思いはじめ、その頃から「いつか必ずアウシュヴィッツへ行きたい」と思うようになりました。(*誤解を避けるために書きますが、学校とアウシュヴィッツが同じだということを言いたいわけでは決してありません。同様の構造を持った「暴力」を行使しかねないことに危機感を持ったという意味で書きました。)

 昆の来歴 

 中学二年生の頃、沖縄へ修学旅行に行きました。沖縄では、元ひめゆり学徒隊の語り部の方から沖縄戦の話を伺いました。生徒を代表し、僕が感想とお礼の言葉を述べました。「今日お聞きしたお話を、記憶し、次の世代につなげていきたいです」。そう言うと、彼女は僕の手を強く握り「ありがとう」と言いました。修学旅行から戻り、今、僕らにできることは何か、考えました。ドイツ国際平和村への募金活動を学年全員で実施したり、自分たちで平和宣言文を作成したりしました。2008年から2009年にかけてのこと。世界ではガザ地区への空爆がニュースになっていました。

「社会科の教師になろう」。たくさん勉強して入った高校では、日本史と世界史ばかり勉強していました。一浪の末入った大学では、史学科で主に西洋近現代史を学びました。三塚と出会いました。戦争と平和の問題は常に僕の中心にありました。大学一年の夏、初めての一人旅として広島へ行き、沖縄や長崎へも行きました。他方で、歴史を残すこと、さらに転じ、情報を発信すること・表現することへ興味を抱くようにもなり、メディアやマーケティングに関心を持ちました。当時、広告界隈で「ソーシャルグッド」の概念が注目されつつあり、この考えに僕は惹かれました。また、趣味で小説を書き始めました。

 新卒で出版社のマーケター職に就きました。「人々が知りたい情報を代わりに取材し、人々へ届けるのがメディアの役目だ」と僕は教わりました。マーケターとして日々数字とデータを見つめ、人々がより関心のある情報の発信量を増やします。効果的に、より効率的に。

 では、人々が興味を持っていない情報はどうなるのだろう。それが歴史として刻まれるべき大切な情報だったとして、いかにして世に広め、残すことができるだろう。人々に関心をもってもらえるだろうか、どうすれば、戦争と歴史を伝えられるのか。問いは尽きないし、答えは見つからない。今、僕らにできることは何か、考えました。

今、僕らがアウシュヴィッツに行くということ。 

 正直、アウシュヴィッツは「いつか行けたらいい」と思っていました。もっと言えば、「いつかは行ける」と思っていました。

 新型コロナウイルスの流行とロシアによるウクライナ侵攻は、僕たちのそんな感覚を打ち砕きました。円安と石油の高騰という経済面で海外旅行のハードルは上がり、安全面や政治面でロシアやウクライナに行くことは困難になりました。「いつか」に保証はない。

 また、 20代も終盤に差し掛かり、各々のライフステージや社会的ステージに少しずつ変化が起きてきました。「いつか」がきたとき、身動きが取りづらい状況である可能性もゼロではありません。家庭的にも社会的にもフレキシブルな「今」、動くしかないのかもしれない。こうした想いに背中を押された僕たちは、 9月中旬に始めた計画を9月下旬にはある程度の形にしていました。

 しかし、この計画は 10 月 7 日、イスラーム教原理主義組織ハマスのイスラエル攻撃で端を発した「戦争」によって、様相が一変しました。僕たちは、「今、アウシュヴィッツに行くこと」の意味を考える必要性に迫られることになったのです。

 史学科だった僕らは、歴史を辿ることから始めました。

歴史から現代のパレスチナ問題を考えることの“躓き”。

 パレスチナ問題の起源を辿るのは簡単ではありませんでした。中世の十字軍遠征、 19世紀のシオニズム運動、第一次世界大戦時のイギリスの三枚舌外交など、調べ、学ぶほど、その問題の複雑性が際立ち、歴史の研究者でない僕たちにとって安易に結論が出せるものではないように感じられました。同様に、ハマスがなぜ「攻撃しなくてはならなかったのか」を探ることもまた、困難を抱えておりました。

 僕たちを驚かせたのは、そうした「わからない」「難しい」という反応に対して、直ちに「テロ擁護」「ハマスに与する」と、レッテルを貼られる現代社会の状況でした。実際、BBCはハマスを“テロリスト”と呼ぶことに慎重な立場を示し、人々へ中立な立場で観察することを呼びかけましたが、イギリスの首相や議会はもちろん、人々からも痛烈に批判されました。また、フランスの左派政党がハマスの攻撃を「イスラエルによる占領政策強化の流れの中で起きた「武力攻撃」」と表現したことは、「テロの正当化」として批判されました。それにもかかわらず、イスラエルによる民間人への空爆等の報復攻撃に対する欧米からの批判は多くありませんでした。こうしたある種のダブルスタンダードは、何に起因するのでしょうか。

 その一因として、僕たちはホロコーストの歴史があるのではないか、と考えました。ホロコーストという負の歴史が、反ユダヤ的と判断されかねない主張を困難にし、イスラエルの空爆を否定できないのが、世界の現状なのかもしれない。歴史を辿るという観点で言えば、歴史に学ぶということは、歴史に縛られる可能性もまた含んでいるということなのかもしれない。僕らはそう考えました。

 今の時代、ホロコーストに学ぶことは、一方では特定の主張を困難にし、慎重な検討を求める人を「テロ擁護」と非難するにもかかわらず、他方でイスラエルの空爆は否定できないというジレンマを抱えています。ホロコーストの当事者であるヨーロッパがこうしたジレンマを自ら解消することができないのは、想像に難しくないと思います。グローバリズムの時代、ヨーロッパのジレンマは世界のジレンマとして表出し、それは私たちの問題でもあると言えるでしょう。

 ホロコーストの歴史を継承しつつ、より中立的な立場でパレスチナの問題を考え、最終的な解決に向かうためには、第三者(部外者)の参入が必要なのではないか。

 そうした意味で、ホロコーストの象徴であるアウシュヴィッツに「今、日本人が行くこと」には重要な意義がある、むしろ日本人だからこそ、アウシュヴィッツを訪れ学ぶべきなのだ、と僕たちは強く確信しました。歴史に縛られ、ポリティカル・コレクトネスと切実性の対立が激化した現代社会では、第三者(部外者)の参入が果たす役割は大きいのではないでしょうか。

 以上を踏まえ、僕らは「観光客(部外者・第三者)」としてアウシュヴィッツを訪れ、学ぶことを、改めて決意しました。一方で、アウシュヴィッツへの観光を再考したとき、アウシュヴィッツへ日本人が訪問するのに複数のハードルが存在していることに気付きました。そもそもアウシュヴィッツがポーランドにある、という事実の認知度はどの程度あるのか。僕ら自身、大学に入るまで曖昧でした。周りの人に聞くと、アウシュヴィッツ自体を知らない人、アウシュヴィッツとポーランドが結びついていない人が多数でした。それを裏付けるように、大手旅行会社にもアウシュヴィッツのツアーはもちろん、ポーランドのツアーすらありませんでした。

 僕たちが「今、アウシュヴィッツに行くこと」は、部外者の参入という側面の他にも、日本人がアウシュヴィッツへ行くハードルを下げる、という副次的な効果もあるかもしれない。その可能性に気付いたとき、この旅行を個人的な体験に閉じず、社会に還元するプロジェクトにしたいと想うようになりました。

僕たちの役割と、歴史の発信と対話への挑戦。

 僕たちが世界の問題を今すぐ解決することはできません。複雑なこの問題に対し、有効なアイデアも浮かんでいません。では、僕たちがアウシュヴィッツを見学して果たせる「役割」とは何か。

 一つは僕たちの体験を広めることで、アウシュヴィッツを日本人にとっての「観光地」として考えてもらう場所にしたいということです。もう一つはアウシュヴィッツでの体験が、前述したような課題意識を持つ僕たちにどのような意味をもたらしたのか報告することです。

 教育とメディアと、異なる畑で活動する僕たちですが、「発信」に価値を置いていることは共通します。その上でこの発信は、単なる事実の報告ではなく、より多様な人々を交えての対話として行いたいと考えています。中高生や学生、社会人という立場を越えて、「観光客」(部外者)同士での対話が、この先の可能性を開いていくと信じています。それこそが、僕たちの考える新たな「発信」の形への挑戦です。

プロジェクトの理念

 僕たちのプロジェクトに共感し、支援してださった方とかえつ有明の生徒で、対話をベースにした特別教室を開きます。対話を重視する本校で、単に歴史を知ることの先にある、創造的空間を一緒に作りたいと思っています。

 第1講で、上記で示したような現代社会が抱える課題やホロコーストおよびアウシュビッツに「今、日本人が行く意義」を確認する講演を実施します。続く第2講でアウシュヴィッツへの行き方を含めた現地レポートをします。最終第3講で、みなさんと問いを作りながら対話する時間を設けたいと思っています。

 

 現在企画中の特別授業について、以下のスライドで紹介します。

 上は現段階で、僕らが考えている計画のスケッチです。内容をお約束するものではなく、変更になる場合が多分にございますので予めご了承ください。

特別教室で実際に使用する想定で作成中のスライド資料を適宜更新中です。下記URL先をご覧ください。授業で取り扱おうと考えているテーマや問題設定については、合わせてこちらをご参照ください。

▼特別教室の企画書公開更新中▼

https://www.canva.com/design/DAF-bmDX33c/GRR8NuQqBzNBkvD7HCQ_RQ/edit#1


プロジェクトの概要と展望

 特別授業の内容自体についても、ご支援者の皆様からアイデアをいただき、それらを組み込んでいくことも考えたいです。どこまで実現できるか、という点はむろんございますが、皆様と共に作り上げるプロジェクトとなればと思います。ご要望があれば何卒よろしくお願いいたします。

 本プロジェクトはあくまで「我々がアウシュヴィッツを訪れた上で、子どもから大人まで交えた特別教室を開く」プロジェクトです。しかし同時に、このプロジェクトが挑戦の第一歩となるような構想も考えております。資金調達の達成および本プロジェクトにより実施する「特別教室」が成功すれば、第2回、第3回とシリーズ化したり、より多くの人が参加できる枠組みを具体化していきます。その構想を、僕たちは「レキシする教室」と名付けました。少しだけ紹介いたします。

 歴史をともに学び、考える場を企画するプロジェクトとして、本クラウドファンディンを皮切りにスタート。その上で「レキシする教室の特別授業#1」と位置づけして、ホロコーストの特別教室を開催します。頻繁開催は現実的ではないですが、第2回、第3回、とシリーズ化を目指します。

また、より気軽に、けれど深く、歴史や歴史の実践について考える時間を作れればと思い、stand.Fmで音声コンテンツの配信をスタートいたしました。長尺の1本撮り、いい意味で不真面目で、だからこそ熱く。歴史を語るのではなく、考える、そんなありそうでなかった“歴史する”番組を目指します。

僕たちのプロジェクトに共感し、支援してくださる方をお待ちしております。


 現在、僕たちは上記のような視察内容で計画しています。アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所とザクセンハウゼン強制収容所の視察を中心に、ワルシャワ、クラクフ、ベルリンの各博物館や記念碑等を巡る予定です。


リターンについて

 本プロジェクトは「特別教室」の開催の対話を中心に、基本リターンとして、今、僕たちができる発信の実践として、充実したコンテンツを用意したつもりです。そのため、寄付額に対し、返礼としてなるべく見合う範囲でのプランをと考え、設計いたしました。

 他方で、純粋に僕らの活動を応援し、寄付をいただくものとして、寄付型のプランも合わせて用意させていただきました。応援いただけますと嬉しいです。



 目標金額は50万です。今回、All in型を採用しました。僕らは目標が未達の場合も、実際に視察を行い、一人でもご支援いただける方がいらっしゃれば、特別教室の開催をいたします。最終的な人数や金額が目的ではなく、一人でも一緒に対話をしてくれる人を、賛同してくれる人を募りたいという想いから、このプロジェクトは設計されています。何卒よろしくお願いいたします。


部外者としてかかわることの暴力について

 僕たちは部外者としてかかわることを肯定的に語りました。しかし、それは必ずしも褒められる態度ではないのかもしれません。殴られる痛みは殴られたことがある人間にしかわかりません。いじめられたことがない人間がいじめの問題について語っているのを、いじめられたことのある人が見たとき、不快な想いをすることもあります。ホロコーストの暴力の歴史は、突き放した態度で語ること自体を拒絶するほどに、凄惨なものです。僕らはまだ、その悲惨を十分に語る言葉を持っていないし、持つことはできないのかもしれません。

 確かなことは、いずれ、本当の意味での当事者がいなくなるということです。加害者が消え、被害者も消え、後には歴史のみが残ります。確実に、遠くない未来の話です。ポストトゥルースと歴史修正主義の時代、僕らは、それでも、語らなければならないはずだと考えています。ホロコースト自体、世界における歴史修正主義の問題の中心でもあるからです。

 当事者と部外者の対立を超えた「第三者=観光客」として考えることこそが、「歴史として考える」ということなのではないか、と思います。

 長文となりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

最新の活動報告

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  •  全四回を予告としておりました特別教室の活動報告の最終回【4.振り返り編】をお送りします。【1.設計編】【2.準備編】【3.開催当日編】を未読の方は、そちらからお読みいただけますと幸いです。特別教室、改めての感想 勝手もわからずノウハウもなく、限られた人的、時間的リソースの中で、最後までやりきることができました。参加してくださった方々が、参加する以前と以後で考えや気持ち、態度あるいは行動に、少しでも変容を起こせられたのではないか、と控えめながらも胸を張らせていただきます。至らぬ点も多々あったと思います。他方で、特別教室を開いたことが、参加してくださった方々の人生に少しでも良いきっかけを引き起こすことができたこと、そのことが歴史だったり、社会だったり、あるいは世界だったりを良い方向へ導くだろうこと。そう、信じられるような会にできたことが、ひとつの成果と感じています。 特別教室の振り返りは、一方では特別教室自体の振り返りでありながら、他方ではクラウドファンディングを通じたプロジェクトの全体、僕らがやってきたことすべての振り返りでもあります。ホロコーストとアウシュヴィッツについて学び、その上で特別教室を開催して、結果最終的に我々は何を考え、学び、得たのか。その全体の成果を踏まえて、我々は「この先」、どこへ向かってゆくのか。これまでと、これからの話です。 実は、本プロジェクトをクラウドファンディングとして公開した当初は無かった、あるタイミングに書き加えられた構想「レキシする教室」というものがあります。アウシュヴィッツへ行く数週間前、今回の特別教室の開催を単体で終わらせるのではなく、何かしらの形で持続させていきたいと既に考えていました。そのプロジェクトの構想の名が「レキシする教室」です。 アウシュヴィッツへ行く前に打ち立てられたその構想のコンセプトは、アウシュヴィッツへ行った後、そして特別教室を終えた後で、当然の如く困難を突き付けられました。「レキシする」とは何か。それを当初どのように捉え、どんな困難と直面して、どう乗り越えてゆくのか。 いきなり、まとまりなく書き連ねてしまいました。順にお話いたします。 特別教室を終えて1週間と経たないうちに、我々は振り返りを行いました。基本的にはお互い成功だったという認識でした。アンケートの結果も好評をいただいており、我々もとにかく楽しかった。ぜひまたやりたい。 ただ、振り返りでポジティブなことのみ話しても仕方がありません。改善すべき点や次もっとうまくやりたい点に議論は移りました。我々の振り返りの議論をすべて書くことはできないのですが、そこでひとつ論点となった、発信の場と対話の場という観点を切り口に、振り返り編を進めていきます。発信の場と対話の場、二軸の問題。および言語化の問題について 特別教室の活動報告【1.設計編】では、構成面の二項対立として「発信の場」と「対話の場」の難しさについてお話しました。【2.準備編】では、内容面の二項対立として「言語化可能」と「言語化不可能」の葛藤をお話しました。それらの問題を改めて図で整理しながら、今回の我々の活動で浮上した「問い」に対し、応答を試みたいと思います。 構成面の二項(発信の場と対話の場)を横軸に、内容面の二項(言語化することと言語化しないこと)を縦軸にとって、四象限に整理したものが下記の図です。構成面の二項の対立はすなわち、登壇者が主体の会か、参加者が主体の会か、と言い換えることが可能です。 それぞれの象限に当てはまると思われる構成の会を入れてみたのが下記です。あくまで主観に基づく整理なので不正確であることご了承ください。 では、我々の特別教室はどのあたりだったと言えるか。  上記の特別教室の位置づけは、あくまで「大体」です。実際にはもっと我々の発信がありましたが、あえてわかりやすく位置付けるなら、と捉えてください。発信の要素もあるし登壇者主体の部分もあったけれど、どちらかといえば参加者主体な傾向ではあったかな、と思います。 発信の場と対話の場。この点は開催前にも論点となり、実際、発信の時間をしっかりとつくり、我々が考えたことについても語りました。しかし、実際に特別教室を終えて果たしてそれが十分だったかというと疑問も残ります。「主催の思いや感じたことももっと聞きたかった」や、「中村さんのお話が素敵だったから、もう少し詳しく聞きたかった」という声ももらいました。 我々の振り返りの時、三塚は「僕は伝えたいことを話す、ということを、むしろすべきでないと思って臨んだ」と言いました。他方で「改めて自分は、歴史の対話の場をつくることに関心がある」とも言いました。自分が何かを語るのではなく、語る場をつくる。 【3.開催当日編】で少しお話した通り、昆は特別教室で自分が語り切れていない感覚を反省点として持っていました。「僕は、これだけは伝えたい、ということを持って特別教室に臨んだ。実際にその話をしたつもり。けれど、正直足りてなかった。最低限しかできていない」と言いました。 ちなみに、内容面における二項対立「言語化しない」「言語化する」と、構成面における二項対立「対話の場」「発信の場」については、一見別々の論点に見えながら、実は互いに影響を与え合っているようにも思います。言語化するということは、我々の考えをメッセージとして明確に発信することになります。言語化しないということは、我々には答えがない。だから、皆さんと一緒に考えていきたい、ということを意味し、「対話の場」を用意する。 「アウシュヴィッツへ行き、言語化できなくなった」 →対話の場 > 発信の場 「それでも、言語化して発信する」 →対話の場 < 発信の場「レキシする教室」とは何か 四象限について、今度は上下の象限に着目します。自らの考えを言語化しないとは何か。歴史に対して受け身な姿勢、すなわち、定まった知識として歴史を捉える態度だと言えるのではないでしょうか。 だとすると自分の考えを言語化するとは、能動的に歴史と関わることだと言えそうです。それは知識として歴史を享受するのと正反対なため、「歴史の実践」と表現することにします。 さらに、発信の場は登壇者が主体の場であり、対話の場は参加者主体の場であるとする先の整理を組み合わせると、以下のようになります。  さて。特別教室の振り返りを、我々はどのように結論づけるべきでしょうか。 どのポジションも、それ自体で「正しい」「間違い」とは言えないでしょう。では、我々が目指したのはそもそも何だったのか。それを踏まえて結論を導きたいと思います。鍵とはなるのは、「レキシする教室」です。 「レキシする教室」とは、我々が今回の特別教室の開催を一度きりにせず、今後も活動をしていきたい、という想いで名付けた構想名です。 「レキシする」とは何か。実は明確な概念を持たぬまま、我々は「レキシする教室」という構想名を採用しました。三塚は「レキシする、とは何か。それも含めて考えていく活動にしたい」と言いました。しかし、そこに込めたいと思ったものがまったくないわけではない。単なる知識として歴史ではなく、歴史について考えることで現実に役立てたり、歴史から未来をつくるための論理を導いたり、そんなことを考えて採用したものです。すなわち「レキシする」とは、歴史を自ら考え、言語化する営みに違いない。歴史の実践です。 我々が考えるべき「教室」とは何か。それは「対話の場」のことです。 歴史について自らの考えを言語化し、対話をする。 そんな場の名が、「レキシする教室」です。 以下結論をまとめます。①我々は自らの考えを言語化する必要がある。なぜなら我々は歴史を実践したいからだ(レキシする)。我々は知識としての歴史を奨励したいわけではなく、知識を広めたいわけでもない。我々が歴史を実践するには、我々自身が歴史と相対した際、例え困難な壁にぶつかったとしても、自ら考え、言語化しなければならない。そうでなければ、実践する歴史は始まらない。②我々は対話の場をつくりたい。それこそが我々が目指す「教室」であり、同時にこれもまた「レキシする」である。自ら考えたことを、語り、相手が考えたことを聞く。議論する。そこから新しい考えが生まれ、これまでと異なる角度から歴史に光を当てることができる。あるいは、歴史の議論を用いて、現代や未来の課題のその先を照らすトーチとなる。今回のプロジェクトは、我々がアウシュヴィッツへ行こうと決めたとき、自分たちの体験に閉じずに、何か社会に還元できないか、と思ったところから始まった。我々が辿り着いた還元の仕方こそ、歴史の対話の場をつくることである。 歴史について自らの考えを言語化し、対話の場をつくる。右上の象限こそが、我々が考える特別教室の理想と言えるでしょう。今回の実施を踏まえた今後について 我々は今後何をしていくのか。未だ考え中というのが正直なところです。取り急ぎふたつ、ここでお伝えします。ひとつは音声配信の継続実施、もうひとつは、時期未定ですが、別の歴史テーマでの「特別教室」の第二回開催です。 先の整理で使った四象限に当てはめると以下のようになります。 左上の象限の活動もしていく理由は、我々自身、まだまだ歴史の実践数が足りていない、と考えるからです。前述の通り「対話の場」は「言語化しない」との親和性が高いです。言語化する力が無いと下の象限に引きずられ、再度特別教室を開いても、右下の象限に落ち着く可能性が高い。ゆえに、まず我々自身が「レキシする」。しなければならない。 Stand.FMという音声配信サービスにて、番組名「レキシする教室」として配信をしています。  なかなか定期的な配信ができていないのが現状ですが、こちらの活動を継続的にしていくつもりなので、ぜひお聴きいただけますと幸いです。今回の特別教室やアウシュヴィッツへ行ったことについてもこちらで話しています。  特別教室の第二回の開催については現状未定です。ありがたいことに、第一回の特別教室に参加された多くの方々から第二回もぜひ参加したいです、とお声をいただきました。今回はクラウドファンディングという形をとりましたが、次回以降どのような建付けでやるのかという点も含め、今後検討していきたいと思います。開催決定の際には、こちらで改めてご報告をさせていただきますので、ぜひご参加検討いただけますと嬉しいです。 特別教室の構成についての振り返りとしては、場をつくることと、考えを発信することを役割として分けるのがベターと考えています。 対話の場を維持することに意識を向ければ、自らの考えを発信することにリソースを割けなくなるのはある意味当然でした。そのような反省から、ファシリテーター的な役回りと、コメンテーター的な役回りとに分割してやれればと考えています。先の四象限では右上を「特別教室の理想」として整理しましたが、このように役割を分けることで、特別教室においても発信の場を担保することが可能なはず。  特別教室においても我々が考えを言語化して参加することに変わりはありませんが、その上でふたつの活動の目的を分けて整理するのであれば、Stand.FMは我々自らの発信の場に、特別教室は我々も発信しつつ、メインは参加者が歴史について考え、語る場にしたいと思っています。  結局はあくまで構想にすぎません。今後の我々「レキシする教室」の行く末にご期待いただければと思います。 毎度長文が続いた特別教室の活動報告も、こちらで最後となりました。もちろん、活動報告自体が最後なわけではありません。引き続き応援の程何卒よろしくお願いいたします。 お読みいただきありがとうございました。ではまた。 もっと見る

  • 【1.設計編】および【2.準備編】を未読の方は、そちらからお読みいただけますと幸いです。 活動報告【1.設計編】では、我々がどのような経緯で特別教室を企画し、進めていったのか、ポーランド・ドイツへ行く前と後に考え、議論したことを中心にご報告いたしました。【2.準備編】では、実際に特別教室をどのような構成にするか、あるいは、何を語るかを巡り、ある種の壁にぶつかりながらも、どうにか準備を整え、本番当日を迎えるに至った経緯をお話ししました。 今回はいよいよ開催当日の我々の活動と、特別教室の内容および様子をご報告いたします。当日の5月25日。朝から始動 朝9時、かえつ有明中・高等学校に集合しました。三塚は既に先に学校に来て、準備を進めていました。初めて訪れた昆は、なるほど、東京の私立の学校というのは立派なものだなあ、など思いながら、視線を四方に彷徨わせて三塚の後をついて学校に入りました。  スケジュールをまとめたスプレットシートや、受付表、特別教室で使用する写真、参加者への配布資料などを印刷し、特別教室で使用する機材や文房具(ポストイット、ペンなど)を用意しました。最後に学校の入り口に看板を設置して、いったんの準備を終えました。   一度近くのカフェに場所を移し、特別教室開始前の最後の打ち合わせをします。今回特別教室をやるにあたり、大学時代の同期や後輩がスタッフとして手伝ってくれました。受付や参加者の誘導から、飲み物の買い出し、画面投影のサポート、その他あらゆる対応を都度お願いしつつ、さらに特別教室のワークにも参加していただきました。あらゆる面で助けてもらいました。この場で改めてお礼を言わせてください。本当に、ありがとう。そんなスタッフを交えて、特別教室の流れと各自役割を確認しました。 12時半、三塚と昆は急ピッチで会場の設営や機材関係の準備を進めました。生徒や大人たちが次第にやってきて、賑やかになりました。13時を迎えました。13時、特別教室スタート。第一部「問いの時間」  13時、特別教室がスタートしました。この会の趣旨と感謝の言葉、我々の自己紹介を行い、プログラムに入ります。    まずは問いかけから。  最初はSlidoを使って、匿名で、自由に書き込んでいきます。参加者は自らのスマホで次々に書き込まれる言葉を眺めます。アウシュヴィッツやホロコーストについて詳しい方も多かったです。 次に会場のあちらこちらに写真をばら撒きます。みんなが会場を歩き回り、写真をひとつずつ見て、ポストイットに気になったことを書いて貼っていきます。  周りの人と小グループをつくって、写真を見たことを踏まえて話し合います。どの写真が印象に残ったか、どんなことを思ったか、話します。グループでした話を代表者が全体に共有します。共有された話を聞いて、参加者が自分の考えを述べたり、応答したりします。 途切れることのないリレーを、三塚が名残惜しそうにストップさせます。第一部はここまで。休憩時間に入りました。この休憩時間で用意した土産の菓子は瞬く間に無くなりました。 第二部へ 解説編スタート 第二部はいわゆる「報告会」のパート。三塚が中心に、時々昆が口を挟んだりしつつ、解説編に入ります。まずはアウシュヴィッツとは何か、の説明から始め、我々がアウシュヴィッツを訪れて見たこと、感じたことを話していきます。 実際にアウシュヴィッツへ行って見てきたことの説明は、第一部でばら撒いた写真を中心に紹介していきました。  アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の話から、ザクセンハウゼン強制収容所の話へ。アウシュヴィッツはポーランドにある収容所、ザクセンハウゼン強制収容所はドイツのベルリン北部にブランデンブルクにある収容所です。ユダヤ人など、収容されていた人々に関する展示が中心を占めるアウシュヴィッツに対して、ザクセンハウゼンは当時のナチスの将校のプロフィールなど、ナチス側の視点の展示が比較的多いように思いました。我々がアウシュヴィッツとザクセンハウゼンを訪れたのには、この被害と加害の二つの観点からホロコーストを捉えたいという意図がありました。   下記の写真はナチスの将校の教科書のイラスト。どちらが「良し」とされた将校の姿か、わかりますか? ザクセンハウゼンについての紹介を終えると、まとめとして三塚と昆が考えたことについて話をしました。   我々二人が考えたことを話したあと、ザクセンハウゼン強制収容所のガイドを務める中村さんをご紹介。オンラインでつないで、ご出演いただきました。自己紹介をしていただいた後、我々が中村さんに質問をします。丁寧に語られる中村さんの言葉に、会場の参加者は聞き入ります。参加者からも中村さんへ質問が次々に。生徒さんはもちろんですが、大人の参加者の方々が自らの仕事や経験に紐づけながら、中村さんへ質問をする姿が印象的でした。 当初想定といくらか内容を変え、第三部スタート 第二部の終盤で、中村さんから会場の参加者へ逆質問がありました。「皆さんは今日、どうしてこの特別教室に参加されたのですか」。第三部は当初の想定から変更して、中村さんの質問を受けて、改めて今日なぜ自分は参加し、参加して何を今考えているか、を発表することから第三部がスタートしました。 生徒や大人の参加者の方々から、実に多様な参加理由と、考えが発表されました。「もともとアウシュヴィッツに興味があったから参加した。自分だけでは出てこないような意見に触れることができて考えさせられた」「ホロコーストについてよく知っているわけではなかったが、大事な問題だと思っていたため参加した」といった話から、「知らないことを知れたし、色んな人の考えを知ることも出来た。けれどまだ自分の中でモヤモヤは残っている」といった言葉も。時間はあっという間に過ぎ、終了の時間になりました。 特別教室とは何かについて、考えていたこと。 特別教室に関するこれまでの3回の活動報告は、昆が書かさせていただいておりました。教育に直接携わっているわけではない私が、今回このような経験をし、特別教室を実施に際し思っていたことを、最後に少しだけ書き加えさせてください。  私は教師ではないし、歴史の専門家でもありません。 そういう意味で、特別教室という場に立って、何かを教える資格を持つ人間ではありません。あるいは、仕事柄的に話すことや、聞くことのプロでもありません。何かを伝えようとして話しても、聞き苦しいとこがあるかもしれないし、ぼんやりしたことを言うこともあったかもしれない。実際、そう思っていたから、当日は自分の発言する場面を限られたものにしてしまった気も。これは個人的な反省点です。 そんな私が、特別教室に来てくださった方にお伝えしたいことが有りました。  それは、歴史を学ぶこと、考えること、話し、聞くことは、誰にでも開かれたものだということです。 生徒だから歴史を勉強する、先生だから歴史教育の実践に参加する、ではない。もちろんそういう理由で参加された人もいると思うし、それはそれで良いのですが、そうでなくてもいい。生徒や先生といった自分の「属性」を取り払って、固有の経験をもつ個人として参加する。そのような個人を迎え入れ、集い、対話する場だからこそ、多様な考えが飛び交い、ひとつの歴史に複数の角度から光を当てることができる。そんな風に思うのです。だからこそ、歴史に関する仕事をしているわけじゃないから自分は関係ない、と思ってほしくない。  参加する人々が異なる経験と知識、考えを持ち、そんな多様な人々がひとつの場所に集まって、ひとつのテーマについて考える。あえて土曜日に、学校の通常授業外で開く理由はそこにありました。これは勉強のための歴史ではないし、新しい教育の実践の披露会でもないのだから、誰がどんな目的で参加してもいい、したがって知識のレベルも問わない。その上で、ホロコーストという人類にとって普遍的な問題について考える。  “子どもから大人まで交えた”特別教室を開くというのは、そんな願いのもとに生まれた夢と、私は捉えています。たとえば、ある土曜日に、今日は映画を見ようといった感覚で、今日は歴史について考えよう、となる。特別教室の時間が、そんな一日として経験されたのなら、私は嬉しいです。  歴史を学校の科目として以外の形でも捉えてほしい。教師でも、専門家でもない、何者でもない一人の歴史を考える人間として、私は特別教室を開き、同時に、参加してきました。 (※と言いながら、先述の通り、ほかでもない私が自分自身を属性で捉え、特別教室の当日は少し消極的になってしまっていたのでそこは反省です。また、クラウドファンディングについても、あの長文ページを読んだ人がどういう印象をもつか、あれは「誰に向けた」文章だったのかなど、改めて思うところは多々あります。本当にあれは開かれていた、と言えるのか。今後に活かせれば。。) そして、「レキシする教室」へ ご支援いただいた皆様にお礼申し上げます。皆様に応援いただいたおかげ様で、このような形で特別教室を盛況に終えることができました。 次回は最終回、振り返り編をお送りします。特別教室を終えて我々が話したこと、そしてこれから何をやろうと考えているのか(「レキシする教室」とは?)についてお話しします。  最終回、「5/25に特別教室を開催しました【4.振り返り編】」もぜひお読みいただけますと幸いです! もっと見る

  •  前回の【1.設計編】を未読の方は、そちらからお読みいただけますと幸いです。 2024年5月25日(土)、かえつ有明中学校・高等学校にて、アウシュヴィッツとホロコーストについて考える特別教室を開催しました。我々の特別教室の開催をご支援いただいた皆様、誠にありがとうございました。当日お越しいただき、ご参加いただいた皆様もありがとうございました。 前回の活動報告【1.設計編】では、我々がどのような経緯で特別教室を企画し進めていったのか、ポーランド・ドイツへ行く前と後に考え、議論したことを中心にご報告いたしました。今回は特別教室開催の2週間前から直前までの期間についてお話しします。5月12日、打ち合わせ後に話したこと 前回の続きから。ある程度の見通しがついたと感じた二人は、幾分ほっとして、飲み行こうぜ、となりました。月島のバーへ行きました。ウイスキーのソーダ割を頼みました。そんな感じで、カウンター席に二人で並んで座り、今考えていることを話し合いました。  アウシュヴィッツから帰ってきた直後は「無事行って帰ってきた」という想いが強く、実際に観て、感じ、考えたことについて互いに深く話すことを、実はあまりできていませんでした。現地にいるときは、実際に観ながら、夕ごはんを食べながら、電車に乗りながら、あらゆる時間、あらゆる場所で、ある意味我々はずっと語り合っていたとも言えます。それは即時的に、反射のような形で発露された言葉でした。今この瞬間に観て、感じたことを永遠に無かったことにしないように。 少し時間を経て、改めて自らに問うこと。我々がアウシュヴィッツへ行って考えたこととは何か。問いと対話の場をつくることが特別教室の構成的側面、もしくは教育の実践としての側面だとすれば、もうひとつ考えなければならないのは、特別教室の内容的な側面、すなわち我々は何の歴史を伝えるか(=何を語るか)というものでした。 特別教室当日使用スライドより   二人は共に似た困難にぶつかっていました。アウシュヴィッツへ行く前に我々が考えていたことに対して応答することの困難さ、果たして我々にアウシュヴィッツを語ることは可能なのか、というものでした。二人の実力不足で解にたどり着けていない、という側面も正直なところあるかもしれません。この点については今なお、解に迫ろうと試みています。二人が書くレポートと紀行文には、その痕跡が多少なりとも刻まれるものになるはずです。そうでなければならない。 他方で、それは単に「よくわかりませんでした」ではないということもお伝えしたい。我々が躓いた、ある種の解答不可能性とでも呼ぶべきものとは次のようなものでした。少し長くなります。 アウシュヴィッツへ行く前、我々は本を読み、映画を観て、アウシュヴィッツについて一定の知識を身に着けた。歴史学や哲学の思考法を取り入れながら、ある種の仮説として、「なぜ我々がアウシュヴィッツへ行くのか」「その上で、特別教室としてどうアウトプットするのか」を立てた。しかし、アウシュヴィッツの見学を経て、日本に戻り1カ月間、目の前の仕事をこなす日々の日常に回帰し、その中で僅かな時間ずつ繋ぎ合わせ、少しずつ思考してゆきながら辿り着いたのは、「僕はアウシュヴィッツの歴史について語り切れない」という根本的な無力感でした。それは、アウシュヴィッツへ行く前には語れると思っていた、あるいは実際に何かしら語ることができていたものが、アウシュヴィッツへ行ったことで却って語ることができなくなってしまった、という事態でした。 そう思わせるくらいに、アウシュヴィッツがひどく巨大な施設だったこと、その巨大さは「想像を絶するような」暴力の規模を表していたこと。何かを語ろうとする時、語ることを選択し、同時に別の何かは語らないこととして選択される、その時に零れ落ちてゆくものを見つめ、真っ直ぐに見つめ返される。アウシュヴィッツの大地を踏みしめ、青い空を見上げ、何十年と昔のその場その瞬間を「想像して」きたからこそ、本で読んだ借り物の理論や言葉を使いながら(まったくのゼロから言葉を紡がない限り、否、それが言葉である以上、初めからそれは借り物でしかありえない)、現地で観てきたことをあたかも自分たちの思想のように語ることに、抵抗を覚えたのです。それは本当に、ひどく無力感を覚えるものでした。焦りも感じました。歴史とは何であったか。  我々が行く前に考えていたこと、実際に行った上で応答しようと試みたお題は宙づり状態となり、代わりに我々は、この「言葉にできない」「語ることができない」ことについて、アウシュヴィッツへ実際に訪れたからこそ得た感覚として伝えることにしました。 その是非は、特別教室の開催当日を迎えるまで幾度も我々のもとに到来し、論点となりました。一方では、我々が実際にアウシュヴィッツへ行ったからこそ考え至ったことなのだから、それが特別教室における僕らの「考えたこと」だと捉えました。他方では、そう思いながらも、我々が行く前に考えたことに対し、あまりに正対しきれていない答えをありのまま提示してしまってよいのだろうか、と思いました。しかし、何か解答しようとして無理やり言語化を試みたその瞬間に、僕らが帰国後に突き付けられた「言語化することの困難さ」自体の感触を否定してしまう。  言葉にできないことは、言葉にしないことが誠実なのか。それでもなお、言葉にすべきなのか。 5月18日、中村さんと打ち合わせ 内容面ではそのような困難を抱えながら、特別教室当日のスライドを作成していきました。同時に来場者用の受付リストを作ったり、配布用の文献リストを作成したり、並行してロジ周りも進めていきました。文献リストの一部のキャプチャ ザクセンハウゼン強制収容所でガイドを務める中村さんが、オンラインで特別教室に参加してくださることになりました。それはとても嬉しいお話でした。ザクセンハウゼンで中村さんのガイドでお聞きした話は、我々にとって本当に貴重な体験でした。特別教室に参加される方に、ぜひ中村さんの素晴らしいお話を聞いてもらいたいと思い、こうして実現することができました。 特別教室開催の1週間前、我々はオンラインでミーティングをしました。特別教室の内容をプレゼンし、中村さんにお話ししていただきたいことをお伝えしました。素敵なアイデアや、ありがたいアドバイスをたくさんいただきました。我々が内容をお伝えし、最初に指摘いただいたのが、「参加者の知識にバラつきのある会で、参加者自らが問いを立てるところから始める。その場合にホロコーストという歴史の事実はどのように伝えるのか」ということでした。画面越しに相対する中村さんの真剣な眼差しから、歴史を伝えることへの態度を問われているのがわかりました。 問いから始め、対話の場をつくる。その場は、知識の有無や年齢に問わず、互いに尊重し合い、自由に歴史について語り、聞く場を目指す。 他方でそれは、ホロコーストという非常にシビアなテーマを扱うにあたり、嘘や間違いが広まる場になることは、何よりも避けなければならない。 少し前に『ナチスは「良いこと」もしたのか?』という本が歴史界隈で話題になりました。ネットで時々浮かび上がる「ナチスは良いこともした」といった類の言説について、ナチズム研究の蓄積をもとに事実性や文脈を検証、歴史修正主義に陥らず、多角的な視点で歴史を考察することの必要性を主張する本です。この本で言われているように、学問としての歴史は、事実と解釈と意見とにフェーズを分けて整理する必要があります。事実から一足飛びに意見に繋げてしまえば、それは安易な切り取りによる陰謀論になりかねない。歴史が学問である以上、そこには間違いはあるし、正しいとされる言説も存在するのです。 中村さんの指摘を受けて、我々は改めて特別教室の構成を見直しました。問いを立てる時間から始めるというのは残しつつ、その後のパートでアウシュヴィッツやホロコーストに関する歴史の事実の説明パートをしっかりと組み込み、参加者に最初に見せた写真(ばら撒いて、自由に問いを立ててもらった写真)を解説してゆく形で、我々が実際にアウシュヴィッツで観てきたものを話すことにしました。その上で、我々がアウシュヴィッツへ行って考えたことを伝え、中村さんにオンラインでご登場いただく。我々が中村さんに質問をしたり、参加者が中村さんに質問をしたりする。最後の一時間は、改めて三塚と昆の二人を中心に、もしくは中村さんも交えてディスカッション的に語りながら、会場に開いてゆく。 そんな風にブラッシュアップしていきました。直前MTG、高まる期待と不安 こうしていよいよ当日を迎えることに。直前まで準備を進めました。二人でスライド資料を確認し、最後まで調整していきました。本当は盛り込みたいと考え作成したスライドも、時間だったり、構成の問題でなくなくカットしたものも多々ありました。 特別教室の準備期間を振り返り改めて思うことは、当初二軸として据えた「発信の場」と「対話の場」の両立の難しさです。発信の場をメインに想定する場合、その主体は我々となります。他方で「対話の場」をメインとすると主体は参加者となります。発信の場を重視すればありきたりな一方向的な歴史の授業になってしまうし、対話の場を重視しすぎると、場のコントロールが課題になる(歴史の事実をいかに伝えるか、の難易度が上がる)。  上記の構成面の難しさはまた、内容面の難しさと無関係ではありません。我々が内容面で躓いた「言語化することの困難さ」に対し、それでも「言葉にして伝える」ことを選んだ時に「対話の場」の空間に及ぼす影響と、逆に特別教室内での言語化を避け「言語化できない」ことをひとつの結論としたときに「発信の場」(あるいは前者における「発信の場」と後者における「対話の場」)に及ぼす影響について、いかに考えていくべきか。 このあたりは、特別教室活動報告【4.振り返り編】で、再度整理してご報告できればと思います。 今回初めて実践したからこそ、気がつき、考え、悩んだ問題がたくさんありました。活動内容の報告というより、活動を通じてどんなことを考え、何が難しかったのかに文量を割いてお話ししているのは、我々がこの挑戦で得た知見を少しでも共有し、次に挑戦される方への糧としてもらいたいと思ったからです。  と言いつつ、考えたことについては今回多くご報告できた気もするので、次回の当日編では特別教室の具体的な部分をもう少しお伝えできればと思います。続きは【3.当日編】をお読みください!  もっと見る

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