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アウシュヴィッツを視察した上で、 ホロコーストの歴史の特別教室を開きたい

アウシュヴィッツがポーランドにあることを、僕たちは大人になるまで知らなかった。このプロジェクトは、一人の教師と一人のマーケターにできる今、精一杯の「発信」の挑戦です。立場を越えて共に対話することで、私たち「部外者の観光客」で次世代へ歴史を紡いでいく。そんな空間を一緒に作りませんか。

現在の支援総額

425,500

85%

目標金額は500,000円

支援者数

24

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2024/02/18に募集を開始し、 24人の支援により 425,500円の資金を集め、 2024/04/04に募集を終了しました

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アウシュヴィッツを視察した上で、 ホロコーストの歴史の特別教室を開きたい

現在の支援総額

425,500

85%達成

終了

目標金額500,000

支援者数24

このプロジェクトは、2024/02/18に募集を開始し、 24人の支援により 425,500円の資金を集め、 2024/04/04に募集を終了しました

アウシュヴィッツがポーランドにあることを、僕たちは大人になるまで知らなかった。このプロジェクトは、一人の教師と一人のマーケターにできる今、精一杯の「発信」の挑戦です。立場を越えて共に対話することで、私たち「部外者の観光客」で次世代へ歴史を紡いでいく。そんな空間を一緒に作りませんか。

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 前回の【1.設計編】を未読の方は、そちらからお読みいただけますと幸いです。


 2024年5月25日(土)、かえつ有明中学校・高等学校にて、アウシュヴィッツとホロコーストについて考える特別教室を開催しました。我々の特別教室の開催をご支援いただいた皆様、誠にありがとうございました。当日お越しいただき、ご参加いただいた皆様もありがとうございました。


 前回の活動報告【1.設計編】では、我々がどのような経緯で特別教室を企画し進めていったのか、ポーランド・ドイツへ行く前と後に考え、議論したことを中心にご報告いたしました。今回は特別教室開催の2週間前から直前までの期間についてお話しします。


5月12日、打ち合わせ後に話したこと

 前回の続きから。ある程度の見通しがついたと感じた二人は、幾分ほっとして、飲み行こうぜ、となりました。月島のバーへ行きました。ウイスキーのソーダ割を頼みました。そんな感じで、カウンター席に二人で並んで座り、今考えていることを話し合いました。

 

 アウシュヴィッツから帰ってきた直後は「無事行って帰ってきた」という想いが強く、実際に観て、感じ、考えたことについて互いに深く話すことを、実はあまりできていませんでした。現地にいるときは、実際に観ながら、夕ごはんを食べながら、電車に乗りながら、あらゆる時間、あらゆる場所で、ある意味我々はずっと語り合っていたとも言えます。それは即時的に、反射のような形で発露された言葉でした。今この瞬間に観て、感じたことを永遠に無かったことにしないように。


 少し時間を経て、改めて自らに問うこと。我々がアウシュヴィッツへ行って考えたこととは何か。問いと対話の場をつくることが特別教室の構成的側面、もしくは教育の実践としての側面だとすれば、もうひとつ考えなければならないのは、特別教室の内容的な側面、すなわち我々は何の歴史を伝えるか(=何を語るか)というものでした。


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自動的に生成された説明特別教室当日使用スライドより

  

 二人は共に似た困難にぶつかっていました。アウシュヴィッツへ行く前に我々が考えていたことに対して応答することの困難さ、果たして我々にアウシュヴィッツを語ることは可能なのか、というものでした。二人の実力不足で解にたどり着けていない、という側面も正直なところあるかもしれません。この点については今なお、解に迫ろうと試みています。二人が書くレポートと紀行文には、その痕跡が多少なりとも刻まれるものになるはずです。そうでなければならない。


 他方で、それは単に「よくわかりませんでした」ではないということもお伝えしたい。我々が躓いた、ある種の解答不可能性とでも呼ぶべきものとは次のようなものでした。少し長くなります。


 アウシュヴィッツへ行く前、我々は本を読み、映画を観て、アウシュヴィッツについて一定の知識を身に着けた。歴史学や哲学の思考法を取り入れながら、ある種の仮説として、「なぜ我々がアウシュヴィッツへ行くのか」「その上で、特別教室としてどうアウトプットするのか」を立てた。しかし、アウシュヴィッツの見学を経て、日本に戻り1カ月間、目の前の仕事をこなす日々の日常に回帰し、その中で僅かな時間ずつ繋ぎ合わせ、少しずつ思考してゆきながら辿り着いたのは、「僕はアウシュヴィッツの歴史について語り切れない」という根本的な無力感でした。それは、アウシュヴィッツへ行く前には語れると思っていた、あるいは実際に何かしら語ることができていたものが、アウシュヴィッツへ行ったことで却って語ることができなくなってしまった、という事態でした。


 そう思わせるくらいに、アウシュヴィッツがひどく巨大な施設だったこと、その巨大さは「想像を絶するような」暴力の規模を表していたこと。何かを語ろうとする時、語ることを選択し、同時に別の何かは語らないこととして選択される、その時に零れ落ちてゆくものを見つめ、真っ直ぐに見つめ返される。アウシュヴィッツの大地を踏みしめ、青い空を見上げ、何十年と昔のその場その瞬間を「想像して」きたからこそ、本で読んだ借り物の理論や言葉を使いながら(まったくのゼロから言葉を紡がない限り、否、それが言葉である以上、初めからそれは借り物でしかありえない)、現地で観てきたことをあたかも自分たちの思想のように語ることに、抵抗を覚えたのです。それは本当に、ひどく無力感を覚えるものでした。焦りも感じました。歴史とは何であったか。

 

 我々が行く前に考えていたこと、実際に行った上で応答しようと試みたお題は宙づり状態となり、代わりに我々は、この「言葉にできない」「語ることができない」ことについて、アウシュヴィッツへ実際に訪れたからこそ得た感覚として伝えることにしました。


 その是非は、特別教室の開催当日を迎えるまで幾度も我々のもとに到来し、論点となりました。一方では、我々が実際にアウシュヴィッツへ行ったからこそ考え至ったことなのだから、それが特別教室における僕らの「考えたこと」だと捉えました。他方では、そう思いながらも、我々が行く前に考えたことに対し、あまりに正対しきれていない答えをありのまま提示してしまってよいのだろうか、と思いました。しかし、何か解答しようとして無理やり言語化を試みたその瞬間に、僕らが帰国後に突き付けられた「言語化することの困難さ」自体の感触を否定してしまう。

 

 言葉にできないことは、言葉にしないことが誠実なのか。それでもなお、言葉にすべきなのか。

 

5月18日、中村さんと打ち合わせ

 内容面ではそのような困難を抱えながら、特別教室当日のスライドを作成していきました。同時に来場者用の受付リストを作ったり、配布用の文献リストを作成したり、並行してロジ周りも進めていきました。

テキスト 
自動的に生成された説明文献リストの一部のキャプチャ


 ザクセンハウゼン強制収容所でガイドを務める中村さんが、オンラインで特別教室に参加してくださることになりました。それはとても嬉しいお話でした。ザクセンハウゼンで中村さんのガイドでお聞きした話は、我々にとって本当に貴重な体験でした。特別教室に参加される方に、ぜひ中村さんの素晴らしいお話を聞いてもらいたいと思い、こうして実現することができました。


 特別教室開催の1週間前、我々はオンラインでミーティングをしました。特別教室の内容をプレゼンし、中村さんにお話ししていただきたいことをお伝えしました。素敵なアイデアや、ありがたいアドバイスをたくさんいただきました。我々が内容をお伝えし、最初に指摘いただいたのが、「参加者の知識にバラつきのある会で、参加者自らが問いを立てるところから始める。その場合にホロコーストという歴史の事実はどのように伝えるのか」ということでした。画面越しに相対する中村さんの真剣な眼差しから、歴史を伝えることへの態度を問われているのがわかりました。


 問いから始め、対話の場をつくる。その場は、知識の有無や年齢に問わず、互いに尊重し合い、自由に歴史について語り、聞く場を目指す。


 他方でそれは、ホロコーストという非常にシビアなテーマを扱うにあたり、嘘や間違いが広まる場になることは、何よりも避けなければならない。


 少し前に『ナチスは「良いこと」もしたのか?』という本が歴史界隈で話題になりました。ネットで時々浮かび上がる「ナチスは良いこともした」といった類の言説について、ナチズム研究の蓄積をもとに事実性や文脈を検証、歴史修正主義に陥らず、多角的な視点で歴史を考察することの必要性を主張する本です。この本で言われているように、学問としての歴史は、事実と解釈と意見とにフェーズを分けて整理する必要があります。事実から一足飛びに意見に繋げてしまえば、それは安易な切り取りによる陰謀論になりかねない。歴史が学問である以上、そこには間違いはあるし、正しいとされる言説も存在するのです。


 中村さんの指摘を受けて、我々は改めて特別教室の構成を見直しました。問いを立てる時間から始めるというのは残しつつ、その後のパートでアウシュヴィッツやホロコーストに関する歴史の事実の説明パートをしっかりと組み込み、参加者に最初に見せた写真(ばら撒いて、自由に問いを立ててもらった写真)を解説してゆく形で、我々が実際にアウシュヴィッツで観てきたものを話すことにしました。その上で、我々がアウシュヴィッツへ行って考えたことを伝え、中村さんにオンラインでご登場いただく。我々が中村さんに質問をしたり、参加者が中村さんに質問をしたりする。最後の一時間は、改めて三塚と昆の二人を中心に、もしくは中村さんも交えてディスカッション的に語りながら、会場に開いてゆく。


 そんな風にブラッシュアップしていきました。


直前MTG、高まる期待と不安

 こうしていよいよ当日を迎えることに。直前まで準備を進めました。二人でスライド資料を確認し、最後まで調整していきました。本当は盛り込みたいと考え作成したスライドも、時間だったり、構成の問題でなくなくカットしたものも多々ありました。


 特別教室の準備期間を振り返り改めて思うことは、当初二軸として据えた「発信の場」と「対話の場」の両立の難しさです。発信の場をメインに想定する場合、その主体は我々となります。他方で「対話の場」をメインとすると主体は参加者となります。発信の場を重視すればありきたりな一方向的な歴史の授業になってしまうし、対話の場を重視しすぎると、場のコントロールが課題になる(歴史の事実をいかに伝えるか、の難易度が上がる)。

 

 上記の構成面の難しさはまた、内容面の難しさと無関係ではありません。我々が内容面で躓いた「言語化することの困難さ」に対し、それでも「言葉にして伝える」ことを選んだ時に「対話の場」の空間に及ぼす影響と、逆に特別教室内での言語化を避け「言語化できない」ことをひとつの結論としたときに「発信の場」(あるいは前者における「発信の場」と後者における「対話の場」)に及ぼす影響について、いかに考えていくべきか。


 このあたりは、特別教室活動報告【4.振り返り編】で、再度整理してご報告できればと思います。


 今回初めて実践したからこそ、気がつき、考え、悩んだ問題がたくさんありました。活動内容の報告というより、活動を通じてどんなことを考え、何が難しかったのかに文量を割いてお話ししているのは、我々がこの挑戦で得た知見を少しでも共有し、次に挑戦される方への糧としてもらいたいと思ったからです。

 

 と言いつつ、考えたことについては今回多くご報告できた気もするので、次回の当日編では特別教室の具体的な部分をもう少しお伝えできればと思います。続きは【3.当日編】をお読みください!

 

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