アウシュヴィッツを視察した上で、 ホロコーストの歴史の特別教室を開きたい

アウシュヴィッツがポーランドにあることを、僕たちは大人になるまで知らなかった。このプロジェクトは、一人の教師と一人のマーケターにできる今、精一杯の「発信」の挑戦です。立場を越えて共に対話することで、私たち「部外者の観光客」で次世代へ歴史を紡いでいく。そんな空間を一緒に作りませんか。

現在の支援総額

425,500

85%

目標金額は500,000円

支援者数

24

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2024/02/18に募集を開始し、 24人の支援により 425,500円の資金を集め、 2024/04/04に募集を終了しました

アウシュヴィッツを視察した上で、 ホロコーストの歴史の特別教室を開きたい

現在の支援総額

425,500

85%達成

終了

目標金額500,000

支援者数24

このプロジェクトは、2024/02/18に募集を開始し、 24人の支援により 425,500円の資金を集め、 2024/04/04に募集を終了しました

アウシュヴィッツがポーランドにあることを、僕たちは大人になるまで知らなかった。このプロジェクトは、一人の教師と一人のマーケターにできる今、精一杯の「発信」の挑戦です。立場を越えて共に対話することで、私たち「部外者の観光客」で次世代へ歴史を紡いでいく。そんな空間を一緒に作りませんか。

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 全四回を予告としておりました特別教室の活動報告の最終回【4.振り返り編】をお送りします。【1.設計編】【2.準備編】【3.開催当日編】を未読の方は、そちらからお読みいただけますと幸いです。特別教室、改めての感想 勝手もわからずノウハウもなく、限られた人的、時間的リソースの中で、最後までやりきることができました。参加してくださった方々が、参加する以前と以後で考えや気持ち、態度あるいは行動に、少しでも変容を起こせられたのではないか、と控えめながらも胸を張らせていただきます。至らぬ点も多々あったと思います。他方で、特別教室を開いたことが、参加してくださった方々の人生に少しでも良いきっかけを引き起こすことができたこと、そのことが歴史だったり、社会だったり、あるいは世界だったりを良い方向へ導くだろうこと。そう、信じられるような会にできたことが、ひとつの成果と感じています。 特別教室の振り返りは、一方では特別教室自体の振り返りでありながら、他方ではクラウドファンディングを通じたプロジェクトの全体、僕らがやってきたことすべての振り返りでもあります。ホロコーストとアウシュヴィッツについて学び、その上で特別教室を開催して、結果最終的に我々は何を考え、学び、得たのか。その全体の成果を踏まえて、我々は「この先」、どこへ向かってゆくのか。これまでと、これからの話です。 実は、本プロジェクトをクラウドファンディングとして公開した当初は無かった、あるタイミングに書き加えられた構想「レキシする教室」というものがあります。アウシュヴィッツへ行く数週間前、今回の特別教室の開催を単体で終わらせるのではなく、何かしらの形で持続させていきたいと既に考えていました。そのプロジェクトの構想の名が「レキシする教室」です。 アウシュヴィッツへ行く前に打ち立てられたその構想のコンセプトは、アウシュヴィッツへ行った後、そして特別教室を終えた後で、当然の如く困難を突き付けられました。「レキシする」とは何か。それを当初どのように捉え、どんな困難と直面して、どう乗り越えてゆくのか。 いきなり、まとまりなく書き連ねてしまいました。順にお話いたします。 特別教室を終えて1週間と経たないうちに、我々は振り返りを行いました。基本的にはお互い成功だったという認識でした。アンケートの結果も好評をいただいており、我々もとにかく楽しかった。ぜひまたやりたい。 ただ、振り返りでポジティブなことのみ話しても仕方がありません。改善すべき点や次もっとうまくやりたい点に議論は移りました。我々の振り返りの議論をすべて書くことはできないのですが、そこでひとつ論点となった、発信の場と対話の場という観点を切り口に、振り返り編を進めていきます。発信の場と対話の場、二軸の問題。および言語化の問題について 特別教室の活動報告【1.設計編】では、構成面の二項対立として「発信の場」と「対話の場」の難しさについてお話しました。【2.準備編】では、内容面の二項対立として「言語化可能」と「言語化不可能」の葛藤をお話しました。それらの問題を改めて図で整理しながら、今回の我々の活動で浮上した「問い」に対し、応答を試みたいと思います。 構成面の二項(発信の場と対話の場)を横軸に、内容面の二項(言語化することと言語化しないこと)を縦軸にとって、四象限に整理したものが下記の図です。構成面の二項の対立はすなわち、登壇者が主体の会か、参加者が主体の会か、と言い換えることが可能です。 それぞれの象限に当てはまると思われる構成の会を入れてみたのが下記です。あくまで主観に基づく整理なので不正確であることご了承ください。 では、我々の特別教室はどのあたりだったと言えるか。  上記の特別教室の位置づけは、あくまで「大体」です。実際にはもっと我々の発信がありましたが、あえてわかりやすく位置付けるなら、と捉えてください。発信の要素もあるし登壇者主体の部分もあったけれど、どちらかといえば参加者主体な傾向ではあったかな、と思います。 発信の場と対話の場。この点は開催前にも論点となり、実際、発信の時間をしっかりとつくり、我々が考えたことについても語りました。しかし、実際に特別教室を終えて果たしてそれが十分だったかというと疑問も残ります。「主催の思いや感じたことももっと聞きたかった」や、「中村さんのお話が素敵だったから、もう少し詳しく聞きたかった」という声ももらいました。 我々の振り返りの時、三塚は「僕は伝えたいことを話す、ということを、むしろすべきでないと思って臨んだ」と言いました。他方で「改めて自分は、歴史の対話の場をつくることに関心がある」とも言いました。自分が何かを語るのではなく、語る場をつくる。 【3.開催当日編】で少しお話した通り、昆は特別教室で自分が語り切れていない感覚を反省点として持っていました。「僕は、これだけは伝えたい、ということを持って特別教室に臨んだ。実際にその話をしたつもり。けれど、正直足りてなかった。最低限しかできていない」と言いました。 ちなみに、内容面における二項対立「言語化しない」「言語化する」と、構成面における二項対立「対話の場」「発信の場」については、一見別々の論点に見えながら、実は互いに影響を与え合っているようにも思います。言語化するということは、我々の考えをメッセージとして明確に発信することになります。言語化しないということは、我々には答えがない。だから、皆さんと一緒に考えていきたい、ということを意味し、「対話の場」を用意する。 「アウシュヴィッツへ行き、言語化できなくなった」 →対話の場 > 発信の場 「それでも、言語化して発信する」 →対話の場 < 発信の場「レキシする教室」とは何か 四象限について、今度は上下の象限に着目します。自らの考えを言語化しないとは何か。歴史に対して受け身な姿勢、すなわち、定まった知識として歴史を捉える態度だと言えるのではないでしょうか。 だとすると自分の考えを言語化するとは、能動的に歴史と関わることだと言えそうです。それは知識として歴史を享受するのと正反対なため、「歴史の実践」と表現することにします。 さらに、発信の場は登壇者が主体の場であり、対話の場は参加者主体の場であるとする先の整理を組み合わせると、以下のようになります。  さて。特別教室の振り返りを、我々はどのように結論づけるべきでしょうか。 どのポジションも、それ自体で「正しい」「間違い」とは言えないでしょう。では、我々が目指したのはそもそも何だったのか。それを踏まえて結論を導きたいと思います。鍵とはなるのは、「レキシする教室」です。 「レキシする教室」とは、我々が今回の特別教室の開催を一度きりにせず、今後も活動をしていきたい、という想いで名付けた構想名です。 「レキシする」とは何か。実は明確な概念を持たぬまま、我々は「レキシする教室」という構想名を採用しました。三塚は「レキシする、とは何か。それも含めて考えていく活動にしたい」と言いました。しかし、そこに込めたいと思ったものがまったくないわけではない。単なる知識として歴史ではなく、歴史について考えることで現実に役立てたり、歴史から未来をつくるための論理を導いたり、そんなことを考えて採用したものです。すなわち「レキシする」とは、歴史を自ら考え、言語化する営みに違いない。歴史の実践です。 我々が考えるべき「教室」とは何か。それは「対話の場」のことです。 歴史について自らの考えを言語化し、対話をする。 そんな場の名が、「レキシする教室」です。 以下結論をまとめます。①我々は自らの考えを言語化する必要がある。なぜなら我々は歴史を実践したいからだ(レキシする)。我々は知識としての歴史を奨励したいわけではなく、知識を広めたいわけでもない。我々が歴史を実践するには、我々自身が歴史と相対した際、例え困難な壁にぶつかったとしても、自ら考え、言語化しなければならない。そうでなければ、実践する歴史は始まらない。②我々は対話の場をつくりたい。それこそが我々が目指す「教室」であり、同時にこれもまた「レキシする」である。自ら考えたことを、語り、相手が考えたことを聞く。議論する。そこから新しい考えが生まれ、これまでと異なる角度から歴史に光を当てることができる。あるいは、歴史の議論を用いて、現代や未来の課題のその先を照らすトーチとなる。今回のプロジェクトは、我々がアウシュヴィッツへ行こうと決めたとき、自分たちの体験に閉じずに、何か社会に還元できないか、と思ったところから始まった。我々が辿り着いた還元の仕方こそ、歴史の対話の場をつくることである。 歴史について自らの考えを言語化し、対話の場をつくる。右上の象限こそが、我々が考える特別教室の理想と言えるでしょう。今回の実施を踏まえた今後について 我々は今後何をしていくのか。未だ考え中というのが正直なところです。取り急ぎふたつ、ここでお伝えします。ひとつは音声配信の継続実施、もうひとつは、時期未定ですが、別の歴史テーマでの「特別教室」の第二回開催です。 先の整理で使った四象限に当てはめると以下のようになります。 左上の象限の活動もしていく理由は、我々自身、まだまだ歴史の実践数が足りていない、と考えるからです。前述の通り「対話の場」は「言語化しない」との親和性が高いです。言語化する力が無いと下の象限に引きずられ、再度特別教室を開いても、右下の象限に落ち着く可能性が高い。ゆえに、まず我々自身が「レキシする」。しなければならない。 Stand.FMという音声配信サービスにて、番組名「レキシする教室」として配信をしています。  なかなか定期的な配信ができていないのが現状ですが、こちらの活動を継続的にしていくつもりなので、ぜひお聴きいただけますと幸いです。今回の特別教室やアウシュヴィッツへ行ったことについてもこちらで話しています。  特別教室の第二回の開催については現状未定です。ありがたいことに、第一回の特別教室に参加された多くの方々から第二回もぜひ参加したいです、とお声をいただきました。今回はクラウドファンディングという形をとりましたが、次回以降どのような建付けでやるのかという点も含め、今後検討していきたいと思います。開催決定の際には、こちらで改めてご報告をさせていただきますので、ぜひご参加検討いただけますと嬉しいです。 特別教室の構成についての振り返りとしては、場をつくることと、考えを発信することを役割として分けるのがベターと考えています。 対話の場を維持することに意識を向ければ、自らの考えを発信することにリソースを割けなくなるのはある意味当然でした。そのような反省から、ファシリテーター的な役回りと、コメンテーター的な役回りとに分割してやれればと考えています。先の四象限では右上を「特別教室の理想」として整理しましたが、このように役割を分けることで、特別教室においても発信の場を担保することが可能なはず。  特別教室においても我々が考えを言語化して参加することに変わりはありませんが、その上でふたつの活動の目的を分けて整理するのであれば、Stand.FMは我々自らの発信の場に、特別教室は我々も発信しつつ、メインは参加者が歴史について考え、語る場にしたいと思っています。  結局はあくまで構想にすぎません。今後の我々「レキシする教室」の行く末にご期待いただければと思います。 毎度長文が続いた特別教室の活動報告も、こちらで最後となりました。もちろん、活動報告自体が最後なわけではありません。引き続き応援の程何卒よろしくお願いいたします。 お読みいただきありがとうございました。ではまた。


【1.設計編】および【2.準備編】を未読の方は、そちらからお読みいただけますと幸いです。 活動報告【1.設計編】では、我々がどのような経緯で特別教室を企画し、進めていったのか、ポーランド・ドイツへ行く前と後に考え、議論したことを中心にご報告いたしました。【2.準備編】では、実際に特別教室をどのような構成にするか、あるいは、何を語るかを巡り、ある種の壁にぶつかりながらも、どうにか準備を整え、本番当日を迎えるに至った経緯をお話ししました。 今回はいよいよ開催当日の我々の活動と、特別教室の内容および様子をご報告いたします。当日の5月25日。朝から始動 朝9時、かえつ有明中・高等学校に集合しました。三塚は既に先に学校に来て、準備を進めていました。初めて訪れた昆は、なるほど、東京の私立の学校というのは立派なものだなあ、など思いながら、視線を四方に彷徨わせて三塚の後をついて学校に入りました。  スケジュールをまとめたスプレットシートや、受付表、特別教室で使用する写真、参加者への配布資料などを印刷し、特別教室で使用する機材や文房具(ポストイット、ペンなど)を用意しました。最後に学校の入り口に看板を設置して、いったんの準備を終えました。   一度近くのカフェに場所を移し、特別教室開始前の最後の打ち合わせをします。今回特別教室をやるにあたり、大学時代の同期や後輩がスタッフとして手伝ってくれました。受付や参加者の誘導から、飲み物の買い出し、画面投影のサポート、その他あらゆる対応を都度お願いしつつ、さらに特別教室のワークにも参加していただきました。あらゆる面で助けてもらいました。この場で改めてお礼を言わせてください。本当に、ありがとう。そんなスタッフを交えて、特別教室の流れと各自役割を確認しました。 12時半、三塚と昆は急ピッチで会場の設営や機材関係の準備を進めました。生徒や大人たちが次第にやってきて、賑やかになりました。13時を迎えました。13時、特別教室スタート。第一部「問いの時間」  13時、特別教室がスタートしました。この会の趣旨と感謝の言葉、我々の自己紹介を行い、プログラムに入ります。    まずは問いかけから。  最初はSlidoを使って、匿名で、自由に書き込んでいきます。参加者は自らのスマホで次々に書き込まれる言葉を眺めます。アウシュヴィッツやホロコーストについて詳しい方も多かったです。 次に会場のあちらこちらに写真をばら撒きます。みんなが会場を歩き回り、写真をひとつずつ見て、ポストイットに気になったことを書いて貼っていきます。  周りの人と小グループをつくって、写真を見たことを踏まえて話し合います。どの写真が印象に残ったか、どんなことを思ったか、話します。グループでした話を代表者が全体に共有します。共有された話を聞いて、参加者が自分の考えを述べたり、応答したりします。 途切れることのないリレーを、三塚が名残惜しそうにストップさせます。第一部はここまで。休憩時間に入りました。この休憩時間で用意した土産の菓子は瞬く間に無くなりました。 第二部へ 解説編スタート 第二部はいわゆる「報告会」のパート。三塚が中心に、時々昆が口を挟んだりしつつ、解説編に入ります。まずはアウシュヴィッツとは何か、の説明から始め、我々がアウシュヴィッツを訪れて見たこと、感じたことを話していきます。 実際にアウシュヴィッツへ行って見てきたことの説明は、第一部でばら撒いた写真を中心に紹介していきました。  アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の話から、ザクセンハウゼン強制収容所の話へ。アウシュヴィッツはポーランドにある収容所、ザクセンハウゼン強制収容所はドイツのベルリン北部にブランデンブルクにある収容所です。ユダヤ人など、収容されていた人々に関する展示が中心を占めるアウシュヴィッツに対して、ザクセンハウゼンは当時のナチスの将校のプロフィールなど、ナチス側の視点の展示が比較的多いように思いました。我々がアウシュヴィッツとザクセンハウゼンを訪れたのには、この被害と加害の二つの観点からホロコーストを捉えたいという意図がありました。   下記の写真はナチスの将校の教科書のイラスト。どちらが「良し」とされた将校の姿か、わかりますか? ザクセンハウゼンについての紹介を終えると、まとめとして三塚と昆が考えたことについて話をしました。   我々二人が考えたことを話したあと、ザクセンハウゼン強制収容所のガイドを務める中村さんをご紹介。オンラインでつないで、ご出演いただきました。自己紹介をしていただいた後、我々が中村さんに質問をします。丁寧に語られる中村さんの言葉に、会場の参加者は聞き入ります。参加者からも中村さんへ質問が次々に。生徒さんはもちろんですが、大人の参加者の方々が自らの仕事や経験に紐づけながら、中村さんへ質問をする姿が印象的でした。 当初想定といくらか内容を変え、第三部スタート 第二部の終盤で、中村さんから会場の参加者へ逆質問がありました。「皆さんは今日、どうしてこの特別教室に参加されたのですか」。第三部は当初の想定から変更して、中村さんの質問を受けて、改めて今日なぜ自分は参加し、参加して何を今考えているか、を発表することから第三部がスタートしました。 生徒や大人の参加者の方々から、実に多様な参加理由と、考えが発表されました。「もともとアウシュヴィッツに興味があったから参加した。自分だけでは出てこないような意見に触れることができて考えさせられた」「ホロコーストについてよく知っているわけではなかったが、大事な問題だと思っていたため参加した」といった話から、「知らないことを知れたし、色んな人の考えを知ることも出来た。けれどまだ自分の中でモヤモヤは残っている」といった言葉も。時間はあっという間に過ぎ、終了の時間になりました。 特別教室とは何かについて、考えていたこと。 特別教室に関するこれまでの3回の活動報告は、昆が書かさせていただいておりました。教育に直接携わっているわけではない私が、今回このような経験をし、特別教室を実施に際し思っていたことを、最後に少しだけ書き加えさせてください。  私は教師ではないし、歴史の専門家でもありません。 そういう意味で、特別教室という場に立って、何かを教える資格を持つ人間ではありません。あるいは、仕事柄的に話すことや、聞くことのプロでもありません。何かを伝えようとして話しても、聞き苦しいとこがあるかもしれないし、ぼんやりしたことを言うこともあったかもしれない。実際、そう思っていたから、当日は自分の発言する場面を限られたものにしてしまった気も。これは個人的な反省点です。 そんな私が、特別教室に来てくださった方にお伝えしたいことが有りました。  それは、歴史を学ぶこと、考えること、話し、聞くことは、誰にでも開かれたものだということです。 生徒だから歴史を勉強する、先生だから歴史教育の実践に参加する、ではない。もちろんそういう理由で参加された人もいると思うし、それはそれで良いのですが、そうでなくてもいい。生徒や先生といった自分の「属性」を取り払って、固有の経験をもつ個人として参加する。そのような個人を迎え入れ、集い、対話する場だからこそ、多様な考えが飛び交い、ひとつの歴史に複数の角度から光を当てることができる。そんな風に思うのです。だからこそ、歴史に関する仕事をしているわけじゃないから自分は関係ない、と思ってほしくない。  参加する人々が異なる経験と知識、考えを持ち、そんな多様な人々がひとつの場所に集まって、ひとつのテーマについて考える。あえて土曜日に、学校の通常授業外で開く理由はそこにありました。これは勉強のための歴史ではないし、新しい教育の実践の披露会でもないのだから、誰がどんな目的で参加してもいい、したがって知識のレベルも問わない。その上で、ホロコーストという人類にとって普遍的な問題について考える。  “子どもから大人まで交えた”特別教室を開くというのは、そんな願いのもとに生まれた夢と、私は捉えています。たとえば、ある土曜日に、今日は映画を見ようといった感覚で、今日は歴史について考えよう、となる。特別教室の時間が、そんな一日として経験されたのなら、私は嬉しいです。  歴史を学校の科目として以外の形でも捉えてほしい。教師でも、専門家でもない、何者でもない一人の歴史を考える人間として、私は特別教室を開き、同時に、参加してきました。 (※と言いながら、先述の通り、ほかでもない私が自分自身を属性で捉え、特別教室の当日は少し消極的になってしまっていたのでそこは反省です。また、クラウドファンディングについても、あの長文ページを読んだ人がどういう印象をもつか、あれは「誰に向けた」文章だったのかなど、改めて思うところは多々あります。本当にあれは開かれていた、と言えるのか。今後に活かせれば。。) そして、「レキシする教室」へ ご支援いただいた皆様にお礼申し上げます。皆様に応援いただいたおかげ様で、このような形で特別教室を盛況に終えることができました。 次回は最終回、振り返り編をお送りします。特別教室を終えて我々が話したこと、そしてこれから何をやろうと考えているのか(「レキシする教室」とは?)についてお話しします。  最終回、「5/25に特別教室を開催しました【4.振り返り編】」もぜひお読みいただけますと幸いです!


 前回の【1.設計編】を未読の方は、そちらからお読みいただけますと幸いです。 2024年5月25日(土)、かえつ有明中学校・高等学校にて、アウシュヴィッツとホロコーストについて考える特別教室を開催しました。我々の特別教室の開催をご支援いただいた皆様、誠にありがとうございました。当日お越しいただき、ご参加いただいた皆様もありがとうございました。 前回の活動報告【1.設計編】では、我々がどのような経緯で特別教室を企画し進めていったのか、ポーランド・ドイツへ行く前と後に考え、議論したことを中心にご報告いたしました。今回は特別教室開催の2週間前から直前までの期間についてお話しします。5月12日、打ち合わせ後に話したこと 前回の続きから。ある程度の見通しがついたと感じた二人は、幾分ほっとして、飲み行こうぜ、となりました。月島のバーへ行きました。ウイスキーのソーダ割を頼みました。そんな感じで、カウンター席に二人で並んで座り、今考えていることを話し合いました。  アウシュヴィッツから帰ってきた直後は「無事行って帰ってきた」という想いが強く、実際に観て、感じ、考えたことについて互いに深く話すことを、実はあまりできていませんでした。現地にいるときは、実際に観ながら、夕ごはんを食べながら、電車に乗りながら、あらゆる時間、あらゆる場所で、ある意味我々はずっと語り合っていたとも言えます。それは即時的に、反射のような形で発露された言葉でした。今この瞬間に観て、感じたことを永遠に無かったことにしないように。 少し時間を経て、改めて自らに問うこと。我々がアウシュヴィッツへ行って考えたこととは何か。問いと対話の場をつくることが特別教室の構成的側面、もしくは教育の実践としての側面だとすれば、もうひとつ考えなければならないのは、特別教室の内容的な側面、すなわち我々は何の歴史を伝えるか(=何を語るか)というものでした。 特別教室当日使用スライドより   二人は共に似た困難にぶつかっていました。アウシュヴィッツへ行く前に我々が考えていたことに対して応答することの困難さ、果たして我々にアウシュヴィッツを語ることは可能なのか、というものでした。二人の実力不足で解にたどり着けていない、という側面も正直なところあるかもしれません。この点については今なお、解に迫ろうと試みています。二人が書くレポートと紀行文には、その痕跡が多少なりとも刻まれるものになるはずです。そうでなければならない。 他方で、それは単に「よくわかりませんでした」ではないということもお伝えしたい。我々が躓いた、ある種の解答不可能性とでも呼ぶべきものとは次のようなものでした。少し長くなります。 アウシュヴィッツへ行く前、我々は本を読み、映画を観て、アウシュヴィッツについて一定の知識を身に着けた。歴史学や哲学の思考法を取り入れながら、ある種の仮説として、「なぜ我々がアウシュヴィッツへ行くのか」「その上で、特別教室としてどうアウトプットするのか」を立てた。しかし、アウシュヴィッツの見学を経て、日本に戻り1カ月間、目の前の仕事をこなす日々の日常に回帰し、その中で僅かな時間ずつ繋ぎ合わせ、少しずつ思考してゆきながら辿り着いたのは、「僕はアウシュヴィッツの歴史について語り切れない」という根本的な無力感でした。それは、アウシュヴィッツへ行く前には語れると思っていた、あるいは実際に何かしら語ることができていたものが、アウシュヴィッツへ行ったことで却って語ることができなくなってしまった、という事態でした。 そう思わせるくらいに、アウシュヴィッツがひどく巨大な施設だったこと、その巨大さは「想像を絶するような」暴力の規模を表していたこと。何かを語ろうとする時、語ることを選択し、同時に別の何かは語らないこととして選択される、その時に零れ落ちてゆくものを見つめ、真っ直ぐに見つめ返される。アウシュヴィッツの大地を踏みしめ、青い空を見上げ、何十年と昔のその場その瞬間を「想像して」きたからこそ、本で読んだ借り物の理論や言葉を使いながら(まったくのゼロから言葉を紡がない限り、否、それが言葉である以上、初めからそれは借り物でしかありえない)、現地で観てきたことをあたかも自分たちの思想のように語ることに、抵抗を覚えたのです。それは本当に、ひどく無力感を覚えるものでした。焦りも感じました。歴史とは何であったか。  我々が行く前に考えていたこと、実際に行った上で応答しようと試みたお題は宙づり状態となり、代わりに我々は、この「言葉にできない」「語ることができない」ことについて、アウシュヴィッツへ実際に訪れたからこそ得た感覚として伝えることにしました。 その是非は、特別教室の開催当日を迎えるまで幾度も我々のもとに到来し、論点となりました。一方では、我々が実際にアウシュヴィッツへ行ったからこそ考え至ったことなのだから、それが特別教室における僕らの「考えたこと」だと捉えました。他方では、そう思いながらも、我々が行く前に考えたことに対し、あまりに正対しきれていない答えをありのまま提示してしまってよいのだろうか、と思いました。しかし、何か解答しようとして無理やり言語化を試みたその瞬間に、僕らが帰国後に突き付けられた「言語化することの困難さ」自体の感触を否定してしまう。  言葉にできないことは、言葉にしないことが誠実なのか。それでもなお、言葉にすべきなのか。 5月18日、中村さんと打ち合わせ 内容面ではそのような困難を抱えながら、特別教室当日のスライドを作成していきました。同時に来場者用の受付リストを作ったり、配布用の文献リストを作成したり、並行してロジ周りも進めていきました。文献リストの一部のキャプチャ ザクセンハウゼン強制収容所でガイドを務める中村さんが、オンラインで特別教室に参加してくださることになりました。それはとても嬉しいお話でした。ザクセンハウゼンで中村さんのガイドでお聞きした話は、我々にとって本当に貴重な体験でした。特別教室に参加される方に、ぜひ中村さんの素晴らしいお話を聞いてもらいたいと思い、こうして実現することができました。 特別教室開催の1週間前、我々はオンラインでミーティングをしました。特別教室の内容をプレゼンし、中村さんにお話ししていただきたいことをお伝えしました。素敵なアイデアや、ありがたいアドバイスをたくさんいただきました。我々が内容をお伝えし、最初に指摘いただいたのが、「参加者の知識にバラつきのある会で、参加者自らが問いを立てるところから始める。その場合にホロコーストという歴史の事実はどのように伝えるのか」ということでした。画面越しに相対する中村さんの真剣な眼差しから、歴史を伝えることへの態度を問われているのがわかりました。 問いから始め、対話の場をつくる。その場は、知識の有無や年齢に問わず、互いに尊重し合い、自由に歴史について語り、聞く場を目指す。 他方でそれは、ホロコーストという非常にシビアなテーマを扱うにあたり、嘘や間違いが広まる場になることは、何よりも避けなければならない。 少し前に『ナチスは「良いこと」もしたのか?』という本が歴史界隈で話題になりました。ネットで時々浮かび上がる「ナチスは良いこともした」といった類の言説について、ナチズム研究の蓄積をもとに事実性や文脈を検証、歴史修正主義に陥らず、多角的な視点で歴史を考察することの必要性を主張する本です。この本で言われているように、学問としての歴史は、事実と解釈と意見とにフェーズを分けて整理する必要があります。事実から一足飛びに意見に繋げてしまえば、それは安易な切り取りによる陰謀論になりかねない。歴史が学問である以上、そこには間違いはあるし、正しいとされる言説も存在するのです。 中村さんの指摘を受けて、我々は改めて特別教室の構成を見直しました。問いを立てる時間から始めるというのは残しつつ、その後のパートでアウシュヴィッツやホロコーストに関する歴史の事実の説明パートをしっかりと組み込み、参加者に最初に見せた写真(ばら撒いて、自由に問いを立ててもらった写真)を解説してゆく形で、我々が実際にアウシュヴィッツで観てきたものを話すことにしました。その上で、我々がアウシュヴィッツへ行って考えたことを伝え、中村さんにオンラインでご登場いただく。我々が中村さんに質問をしたり、参加者が中村さんに質問をしたりする。最後の一時間は、改めて三塚と昆の二人を中心に、もしくは中村さんも交えてディスカッション的に語りながら、会場に開いてゆく。 そんな風にブラッシュアップしていきました。直前MTG、高まる期待と不安 こうしていよいよ当日を迎えることに。直前まで準備を進めました。二人でスライド資料を確認し、最後まで調整していきました。本当は盛り込みたいと考え作成したスライドも、時間だったり、構成の問題でなくなくカットしたものも多々ありました。 特別教室の準備期間を振り返り改めて思うことは、当初二軸として据えた「発信の場」と「対話の場」の両立の難しさです。発信の場をメインに想定する場合、その主体は我々となります。他方で「対話の場」をメインとすると主体は参加者となります。発信の場を重視すればありきたりな一方向的な歴史の授業になってしまうし、対話の場を重視しすぎると、場のコントロールが課題になる(歴史の事実をいかに伝えるか、の難易度が上がる)。  上記の構成面の難しさはまた、内容面の難しさと無関係ではありません。我々が内容面で躓いた「言語化することの困難さ」に対し、それでも「言葉にして伝える」ことを選んだ時に「対話の場」の空間に及ぼす影響と、逆に特別教室内での言語化を避け「言語化できない」ことをひとつの結論としたときに「発信の場」(あるいは前者における「発信の場」と後者における「対話の場」)に及ぼす影響について、いかに考えていくべきか。 このあたりは、特別教室活動報告【4.振り返り編】で、再度整理してご報告できればと思います。 今回初めて実践したからこそ、気がつき、考え、悩んだ問題がたくさんありました。活動内容の報告というより、活動を通じてどんなことを考え、何が難しかったのかに文量を割いてお話ししているのは、我々がこの挑戦で得た知見を少しでも共有し、次に挑戦される方への糧としてもらいたいと思ったからです。  と言いつつ、考えたことについては今回多くご報告できた気もするので、次回の当日編では特別教室の具体的な部分をもう少しお伝えできればと思います。続きは【3.当日編】をお読みください! 


 2024年5月25日(土)、かえつ有明中学校・高等学校にて、アウシュヴィッツとホロコーストについて考える特別教室を開催しました。改めまして、我々の特別教室の開催をご支援いただいた皆様、誠にありがとうございました。当日お越しいただき、ご参加いただいた皆様もありがとうございました。 開催から少し時間が経ってしまいました。今更速報的なご報告には意味がありません。改めて振り返りながら、我々の活動のメインとなった「特別教室」について、その前後の経緯を踏まえてご紹介できればと思います。特別教室に関する活動報告は全4回(+αあるかも?)に分けてのご報告を予定します。第1回の今回は「設計編」です。ポーランドとドイツへ行って、帰ってきて、三塚と昆の二人は何を考え、どのように特別教室を設計していったのか。 4月、あるいはアウシュヴィッツへ行く前 4月4日、クラウドファンディングの募集最終日を迎えました。ドイツから帰ってきて一週間と少しが経った頃。僕らは二人で月島の河川敷でビールを飲み、ポテトチップスを摘みながら、stand.fmの配信をしました。アウシュヴィッツへ行って感じ、考えたことを語るというよりは、もっと単純に、行ってよかった、という思いをそのままに発露されていて、気分も発言も感想色の強い時期でした。ポーランドとドイツで目にし、触れ、感じた様々な物事が未だ鮮明で、ついさっき見ていた夢について語り起こすような面もあったかもしれません。「よかったよね」「いやあ、本当によかった」「また行きたいわ」「いやあ、本当にね」みたいな語り口だった気がします。 教員をやっている三塚にしろ、会社員の昆にしろ、4月というのは新学期だったり、業務の引継ぎがあったり、要するにとにかく忙しく、常にばたばたしているタイミングでした。気がつけばゴールデンウィークに差し掛かり、一瞬でゴールデンウィークが終わり、「さて、特別教室だな」と。「うむ」と。少々の焦りとともに、我々の特別教室開催に向けた具体的な準備は始まりました。 とは言いつつ、もちろんまったくのノープランで5月を迎えたわけではありません。クラウドファンディンの募集を開始する、その前の段階から、我々は特別教室の構想を少しずつ練ってきました。練るというより描く、という感じでしょうか。自由に、各方面にいくつもの色のクレヨンで線や図形を広げるように語り合いました。なぜいまアウシュヴィッツへ行くのか、我々が行く意味は何か、我々には何ができてそのためにどのような特別教室を開くのか。その思考の痕跡はある程度収束させて、クラウドファンディングのホームのページに綴った文章に込めたつもりです。少しでも、伝われば。 その上で、具体的な特別教室の方針として、ざっくりと下記のように考えていました。 1.二人が実際にアウシュヴィッツへ行き、現地で観て、考えたことを報告する(=発信の場) 2.単に歴史を知るだけでなく、大人と子どもを交えて、創造的な空間をつくる(=対話の場)  初め、1番の方針を主に考えていました。三塚がせっかく教師なのだから、現役の地歴科教師による歴史の授業、という建付けの報告会をする。そんな想定で始まった企画はしかし、せっかく特別な授業と銘打ってやるなら、重要な歴史の問題について知識の有る無しを問わず、自由に対話ができるような場をつくってみたい、と次第に考えるようになりました。こうして「特別教室」の構想が立ち上がったのです。後に、この二軸は我々の企画のユニークであり、躓きの石でもある、まさに諸刃の剣化していきます。とりあえず、続けます。 ポーランドとドイツへ行く前に我々が立てていた論点、「なぜ日本人がアウシュヴィッツへ行くのか」「歴史を学ぶ意義って何だろう」といった問題提起から始まり、その問いに答える形で、我々が観て、感じ、考えたことを語る。それを受けて、参加者が質問をしたり、意見を述べたりして、展開してゆく。そんなイメージを持ちつつ、これ以降の具体的な内容については、実際にアウシュヴィッツへ行って帰ってきてから設計しなければ意味がないだろうと話し、行く前に二人で立てた構想の具体化は帰国後に持ち越されることになったのでした。「せっかくだから教育や授業として挑戦的な実践にしよう」「学校の授業とは少し毛色を変えて、せっかく休日に大人も参加する会なのだから、よりイベントっぽい催しにしよう」「支援してくださった方々も来てくれる、何か持ち帰ってもらえるものも用意しよう」「現地で買ったお菓子とかあれば、そういうのも喜ばれるんじゃないか」「ブックリストつくって配ろう」。二人でいろんなアイデアを出し合いました。 そうして我々は、アウシュヴィッツへ行き、帰ってきた。帰ってきてから1カ月以上が経った頃、我々は改めて集まりました。昆は特別教室の全体設計や用意すべきもの、TODO、スケジュール等をスプレットシートにざっくりまとめ、三塚は授業内容について、とある提案をもって現れました。5月、迫る特別教室。想定外の思い「まず、問いの時間から始めたい。会場に、僕らが撮った写真をばら撒くんだ。僕らはその写真が何の写真なのか、それがどういう写真なのかを、初めに解説しない。参加者に写真を見てもらって、思ったこと、感じたこと、疑問に思ったことを考えてもらう。考えたことを他の参加者と共有してもらう。それから、問いを立てる。出てきた問いを、またみんなで共有する。そんな風にして最初の一時間ちょっと、ワークしたい」 三塚はキリッとした表情で、言いました。昆はまず一言「なるほど」と言いました。心の中で昆は、村上春樹もびっくりの「やれやれ」を漏らしていました。やれやれ、こいつはいったい何を言い出したんだ?と。 しかし他方で、昆は「面白そうだな」とすぐに思いました。せっかくやるのだから、チャレンジングなことをしたい。まずは三塚の言うことを聞いてみようじゃないか。改めて三塚は、この特別教室を「対話」の場にしたいと言いました。何か「答え」を提供する場ではなく、かといって「みんな違う意見で、みんな正解です」みたいな形にもしたくはない。それでも、様々な年齢や立場の方が、ホロコーストとアウシュヴィッツという、人類の歴史的なひとつの問題について考え、話す。知識の有無にかかわらず、互いが尊重されて対話できるような、そんな空間。 もうひとつ、三塚がこのような構成にしたいと考えるきっかけに、あるひとつのイベントに参加したことがあげられます。 我々はドイツのベルリン郊外にあるザクセンハウゼン収容所に行きました。そこでは日本人の中村美耶さんにガイドをしてもらいました。中村さんが開いたイベントに帰国後三塚は参加し、その内容に驚いたのです。 アウシュヴィッツから送られた手紙を読む、というワークショップでした。手紙を読み、感じたことをグループで話し合う。三塚が驚いたのは、その手紙は誰によって書かれたのか、どのような手紙なのか、そのような解説が一切ないまま、ただ手紙を読み、感じたことを共有し、最終的に解答が与えられることもなく終わる。ああ、こんなワークショップもあるのか、とひどく驚いたと昆に言いました。 特別教室を、まず参加者自信の「問い」から始める。アイスブレイク的な要素ももちろん含んでいますが、他方で一時間以上をこの問いの作業に費やす想定で考えていました。単なるアイスブレイクには長すぎます。それはひとつの主題といっても過言ではない。挑戦的な内容に対し、昆は肯定を示しつつ、二つの懸念を三塚に伝えました。ひとつは、この特別教室の参加する人は「ホロコーストについて考えたい」と思って来てくれるのだろうか、それとも、現地に行ってきた我々が観てきたこと、現地だからこそ観て、知ることができたことの話を聞きたい、と思って来てくれるのだろうか、という点。すなわち、報告会的なものを想定していったら、ワークショップだった、という落差にがっかりされないだろうか。もうひとつは、ホロコーストという、歴史的に極めてシビアなテーマを扱う以上、「なんでもあり」な対話をしてはいけないよね、という点でした。そこは三塚も完全に同意する項目でした。 その日、ある程度まじめな打ち合わせを終え、特別教室の開催に向けたおおよその見通しが立ちました。ひとまずほっとして、二人はバーへ行きました。特別教室はいかにして「設計」されたのか 4回に分けてお送りする予定の特別教室活動報告の初回、しかも設計編という本筋でないにもかかわらず、そこそこの文量に困惑された方も多いかもしれません。申し訳ございません。ご報告が遅くなってしまったというプレッシャーから、せめて文字数で挽回せんとばかりに筆を進めてしまいました。  あるいは、「設計編」と言いながら、本特別教室が何も工学的ないしIT系的なプロセスで立ち上がったわけではまったくないことに落胆された方もいるかもしれません。がっかりさせてしまった方には申し訳ないです。この点については、落胆されること承知で、それでもあえてこの経緯をお話ししたかったということがひとつと、このような一件カジュアルなやり取りで形成されていった特別教室を、あえて「設計」という言葉で言い表したのには、理由があります。 僕らの企画は、クラウドファンディングのスタートから実際の特別教室の開催に至るまで、そのほとんどが二人の会話ないし議論によって生まれ、育まれ、形づくられていったということです。二人だからこそできたのかもしれないし、二人が十年前から会話と議論を重ね続けた間柄だから可能だったという側面もあるかもしれません。むろん、多くの仕事が会議等によって進められていると思います。その上でお伝えしたいのは、僕らの会話と議論にはフォーマットもなければ客観視してジャッジする第三者も存在せず、それどころかたった二人ゆえに議事録もままならず、つまり仕事の会議などに比べはるかにフリーハンド的で、議論は常に拡散し、結論にたどり着かない危機を抱えているものでした。文字通り、おしゃべりの延長線上で企画会議が行われていました。 本企画は、だからこそ自由な発想で、良いアイデアは互いにポジティブに捉え合い、その上でおしゃべりの延長線上とはいえ(延長戦だからこそ)懸念点もしっかりと言い合い、といった感じで出来上がった企画です。 何も僕らの仲良しアピールをしたいわけでも、徹頭徹尾楽しく企画しましたと言いたいわけでもありません。議論が白熱して言い合いになることは多々あったし、本気だからこそ楽しいだけではないこともありました。僕らが言いたいのは、僕らが特別教室で目指した「対話の場」を、何より僕らが実践して今回の企画を立ち上げ、実施したということ。だからこそ、歴史を考える場として、まさに僕らがこれまでやってきたような会話と対話の延長戦として位置付けるあり方をどうにか実現できないか、という狙いがありました。 なぜならそれこそが、僕らにとっての「レキシする」だったからです。 このような会話と議論ベースの取り組みを「設計」と言い表したのは、僕らが目指す「レキシする」を、単なる学問を使った遊びに終わらせず、実際に現実を捉え、動かし、形作るようなものになると考えているからです。 もちろん、簡単な話ではありません。会話と議論で何もかも設計できるわけではないし、会話と議論を主軸にすることの困難さについては、このあとの活動報告でも何度か触れさせていただくことになるでしょう。 蛇足もまた、あまりに長くなりました。活動報告と言いながら、活動以外の話が長くなり恐縮です。設計編はこのあたりで。いずれにせよ、このようにして準備を進めていく我々、しかし特別教室を目前に控え、内容を何度も確認していくうちに、ある重大な欠陥に気が付くことになります。三塚と昆は、いかにしてその欠陥を乗り越えたのか、あるいは乗り越えられなかったのか。そんな感じで準備を進めてゆき、迎えた開催当日の行方は? 続きは「5/25に特別教室を開催しました【2.準備編】」をお読みください!


今回は、皆様へのリターン品の1つ「現地のお土産」についてご報告です。私たちが用意したものは、2つあります。①マグネット(ユダヤ人博物館1種類 or アウシュヴィッツ強制収容所11種類から1つ)どれもデザイン性がありながらメッセージが書かれたものになっています。(※何が書いてあるのかは、ぜひ調べてみてください!)②写真集 『アウシュヴィッツ-ビルケナウ あなたの立っているところ・・・』アウシュビッツ博物館発行の写真集です。現地でしか手に入らない限定品となっています。現地で私たちでじっくり考えて決めたリターン品の1つです。皆様に喜んでもらえたら幸いです。


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