
全四回を予告としておりました特別教室の活動報告の最終回【4.振り返り編】をお送りします。【1.設計編】【2.準備編】【3.開催当日編】を未読の方は、そちらからお読みいただけますと幸いです。
特別教室、改めての感想
勝手もわからずノウハウもなく、限られた人的、時間的リソースの中で、最後までやりきることができました。参加してくださった方々が、参加する以前と以後で考えや気持ち、態度あるいは行動に、少しでも変容を起こせられたのではないか、と控えめながらも胸を張らせていただきます。至らぬ点も多々あったと思います。他方で、特別教室を開いたことが、参加してくださった方々の人生に少しでも良いきっかけを引き起こすことができたこと、そのことが歴史だったり、社会だったり、あるいは世界だったりを良い方向へ導くだろうこと。そう、信じられるような会にできたことが、ひとつの成果と感じています。
特別教室の振り返りは、一方では特別教室自体の振り返りでありながら、他方ではクラウドファンディングを通じたプロジェクトの全体、僕らがやってきたことすべての振り返りでもあります。ホロコーストとアウシュヴィッツについて学び、その上で特別教室を開催して、結果最終的に我々は何を考え、学び、得たのか。その全体の成果を踏まえて、我々は「この先」、どこへ向かってゆくのか。これまでと、これからの話です。
実は、本プロジェクトをクラウドファンディングとして公開した当初は無かった、あるタイミングに書き加えられた構想「レキシする教室」というものがあります。アウシュヴィッツへ行く数週間前、今回の特別教室の開催を単体で終わらせるのではなく、何かしらの形で持続させていきたいと既に考えていました。そのプロジェクトの構想の名が「レキシする教室」です。
アウシュヴィッツへ行く前に打ち立てられたその構想のコンセプトは、アウシュヴィッツへ行った後、そして特別教室を終えた後で、当然の如く困難を突き付けられました。「レキシする」とは何か。それを当初どのように捉え、どんな困難と直面して、どう乗り越えてゆくのか。
いきなり、まとまりなく書き連ねてしまいました。順にお話いたします。
特別教室を終えて1週間と経たないうちに、我々は振り返りを行いました。基本的にはお互い成功だったという認識でした。アンケートの結果も好評をいただいており、我々もとにかく楽しかった。ぜひまたやりたい。
ただ、振り返りでポジティブなことのみ話しても仕方がありません。改善すべき点や次もっとうまくやりたい点に議論は移りました。我々の振り返りの議論をすべて書くことはできないのですが、そこでひとつ論点となった、発信の場と対話の場という観点を切り口に、振り返り編を進めていきます。
発信の場と対話の場、二軸の問題。および言語化の問題について
特別教室の活動報告【1.設計編】では、構成面の二項対立として「発信の場」と「対話の場」の難しさについてお話しました。【2.準備編】では、内容面の二項対立として「言語化可能」と「言語化不可能」の葛藤をお話しました。それらの問題を改めて図で整理しながら、今回の我々の活動で浮上した「問い」に対し、応答を試みたいと思います。
構成面の二項(発信の場と対話の場)を横軸に、内容面の二項(言語化することと言語化しないこと)を縦軸にとって、四象限に整理したものが下記の図です。構成面の二項の対立はすなわち、登壇者が主体の会か、参加者が主体の会か、と言い換えることが可能です。
それぞれの象限に当てはまると思われる構成の会を入れてみたのが下記です。あくまで主観に基づく整理なので不正確であることご了承ください。
では、我々の特別教室はどのあたりだったと言えるか。
上記の特別教室の位置づけは、あくまで「大体」です。実際にはもっと我々の発信がありましたが、あえてわかりやすく位置付けるなら、と捉えてください。発信の要素もあるし登壇者主体の部分もあったけれど、どちらかといえば参加者主体な傾向ではあったかな、と思います。
発信の場と対話の場。この点は開催前にも論点となり、実際、発信の時間をしっかりとつくり、我々が考えたことについても語りました。しかし、実際に特別教室を終えて果たしてそれが十分だったかというと疑問も残ります。「主催の思いや感じたことももっと聞きたかった」や、「中村さんのお話が素敵だったから、もう少し詳しく聞きたかった」という声ももらいました。
我々の振り返りの時、三塚は「僕は伝えたいことを話す、ということを、むしろすべきでないと思って臨んだ」と言いました。他方で「改めて自分は、歴史の対話の場をつくることに関心がある」とも言いました。自分が何かを語るのではなく、語る場をつくる。
【3.開催当日編】で少しお話した通り、昆は特別教室で自分が語り切れていない感覚を反省点として持っていました。「僕は、これだけは伝えたい、ということを持って特別教室に臨んだ。実際にその話をしたつもり。けれど、正直足りてなかった。最低限しかできていない」と言いました。
ちなみに、内容面における二項対立「言語化しない」「言語化する」と、構成面における二項対立「対話の場」「発信の場」については、一見別々の論点に見えながら、実は互いに影響を与え合っているようにも思います。言語化するということは、我々の考えをメッセージとして明確に発信することになります。言語化しないということは、我々には答えがない。だから、皆さんと一緒に考えていきたい、ということを意味し、「対話の場」を用意する。
「アウシュヴィッツへ行き、言語化できなくなった」
→対話の場 > 発信の場
「それでも、言語化して発信する」
→対話の場 < 発信の場
「レキシする教室」とは何か
四象限について、今度は上下の象限に着目します。自らの考えを言語化しないとは何か。歴史に対して受け身な姿勢、すなわち、定まった知識として歴史を捉える態度だと言えるのではないでしょうか。
だとすると自分の考えを言語化するとは、能動的に歴史と関わることだと言えそうです。それは知識として歴史を享受するのと正反対なため、「歴史の実践」と表現することにします。
さらに、発信の場は登壇者が主体の場であり、対話の場は参加者主体の場であるとする先の整理を組み合わせると、以下のようになります。
さて。特別教室の振り返りを、我々はどのように結論づけるべきでしょうか。
どのポジションも、それ自体で「正しい」「間違い」とは言えないでしょう。では、我々が目指したのはそもそも何だったのか。それを踏まえて結論を導きたいと思います。鍵とはなるのは、「レキシする教室」です。
「レキシする教室」とは、我々が今回の特別教室の開催を一度きりにせず、今後も活動をしていきたい、という想いで名付けた構想名です。
「レキシする」とは何か。実は明確な概念を持たぬまま、我々は「レキシする教室」という構想名を採用しました。三塚は「レキシする、とは何か。それも含めて考えていく活動にしたい」と言いました。しかし、そこに込めたいと思ったものがまったくないわけではない。単なる知識として歴史ではなく、歴史について考えることで現実に役立てたり、歴史から未来をつくるための論理を導いたり、そんなことを考えて採用したものです。すなわち「レキシする」とは、歴史を自ら考え、言語化する営みに違いない。歴史の実践です。
我々が考えるべき「教室」とは何か。それは「対話の場」のことです。
歴史について自らの考えを言語化し、対話をする。
そんな場の名が、「レキシする教室」です。
以下結論をまとめます。
①我々は自らの考えを言語化する必要がある。なぜなら我々は歴史を実践したいからだ(レキシする)。我々は知識としての歴史を奨励したいわけではなく、知識を広めたいわけでもない。我々が歴史を実践するには、我々自身が歴史と相対した際、例え困難な壁にぶつかったとしても、自ら考え、言語化しなければならない。そうでなければ、実践する歴史は始まらない。
②我々は対話の場をつくりたい。それこそが我々が目指す「教室」であり、同時にこれもまた「レキシする」である。自ら考えたことを、語り、相手が考えたことを聞く。議論する。そこから新しい考えが生まれ、これまでと異なる角度から歴史に光を当てることができる。あるいは、歴史の議論を用いて、現代や未来の課題のその先を照らすトーチとなる。今回のプロジェクトは、我々がアウシュヴィッツへ行こうと決めたとき、自分たちの体験に閉じずに、何か社会に還元できないか、と思ったところから始まった。我々が辿り着いた還元の仕方こそ、歴史の対話の場をつくることである。
歴史について自らの考えを言語化し、対話の場をつくる。右上の象限こそが、我々が考える特別教室の理想と言えるでしょう。
今回の実施を踏まえた今後について
我々は今後何をしていくのか。未だ考え中というのが正直なところです。取り急ぎふたつ、ここでお伝えします。ひとつは音声配信の継続実施、もうひとつは、時期未定ですが、別の歴史テーマでの「特別教室」の第二回開催です。
先の整理で使った四象限に当てはめると以下のようになります。
左上の象限の活動もしていく理由は、我々自身、まだまだ歴史の実践数が足りていない、と考えるからです。前述の通り「対話の場」は「言語化しない」との親和性が高いです。言語化する力が無いと下の象限に引きずられ、再度特別教室を開いても、右下の象限に落ち着く可能性が高い。ゆえに、まず我々自身が「レキシする」。しなければならない。
Stand.FMという音声配信サービスにて、番組名「レキシする教室」として配信をしています。
なかなか定期的な配信ができていないのが現状ですが、こちらの活動を継続的にしていくつもりなので、ぜひお聴きいただけますと幸いです。今回の特別教室やアウシュヴィッツへ行ったことについてもこちらで話しています。
特別教室の第二回の開催については現状未定です。ありがたいことに、第一回の特別教室に参加された多くの方々から第二回もぜひ参加したいです、とお声をいただきました。今回はクラウドファンディングという形をとりましたが、次回以降どのような建付けでやるのかという点も含め、今後検討していきたいと思います。開催決定の際には、こちらで改めてご報告をさせていただきますので、ぜひご参加検討いただけますと嬉しいです。
特別教室の構成についての振り返りとしては、場をつくることと、考えを発信することを役割として分けるのがベターと考えています。
対話の場を維持することに意識を向ければ、自らの考えを発信することにリソースを割けなくなるのはある意味当然でした。そのような反省から、ファシリテーター的な役回りと、コメンテーター的な役回りとに分割してやれればと考えています。先の四象限では右上を「特別教室の理想」として整理しましたが、このように役割を分けることで、特別教室においても発信の場を担保することが可能なはず。
特別教室においても我々が考えを言語化して参加することに変わりはありませんが、その上でふたつの活動の目的を分けて整理するのであれば、Stand.FMは我々自らの発信の場に、特別教室は我々も発信しつつ、メインは参加者が歴史について考え、語る場にしたいと思っています。
結局はあくまで構想にすぎません。今後の我々「レキシする教室」の行く末にご期待いただければと思います。
毎度長文が続いた特別教室の活動報告も、こちらで最後となりました。もちろん、活動報告自体が最後なわけではありません。引き続き応援の程何卒よろしくお願いいたします。
お読みいただきありがとうございました。ではまた。