こんにちは、故郷喪失アンソロジー主催の藤井佯(ふじい・よう)です。
クラウドファンディング終了まで残すところあと5日となりました!
故郷喪失アンソロジーって何?という方はまずはこちらをご覧くださいね。
今回は「あとがきの一部公開」を行います。故郷喪失アンソロジーではあとがきに代えて、13編を貫く論考を巻末に添えています。日本において「故郷喪失」という言葉はどのように使われてきたのか、この本を位置づけるとしたらどのようになるのか、なぜいま「故郷喪失」なのか、など論じています。それでは早速下記に転載いたします。
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あらゆる故郷に根を伸ばす——なぜ故郷喪失を語るのか
はずかしくもあり なつかしくもあり もどかしくもあり それがふるさと
(ロバート秋山によるポケモンセンターのBGMの替え歌。二〇一三年八月四日放送回『ポケモンスマッシュ!「イーブイ秋山ハウスでお泊まり会!?」』より。
ポケモンセンターのBGMを、知っている人は脳内で鳴らしてみてほしい。もちろん、実際に聞いてみるのでもいい。冒頭に引いた替え歌を乗せてみる。ポケモンセンターBGMの寂しくて明るい響き、そのメロディにはどこか郷愁がある。ポケモンのゲームでは、どの街に行っても必ずポケモンセンターがある。ポケモンセンターに感じる一種の落ち着かなさは、そこがポケモン世界において「ここは故郷ではない」と示す記号として機能しているからなのかもしれない。故郷(最初の街)で見たポケモンセンターと、いまいる街のポケモンセンターは別物だ。出迎えてくれるジョーイさんも、取り扱っている道具も、できることも全く同じなのに、確かにそこには差異が存在する(はずだ)。そして、そもそも最初の街は、私たちプレイヤー自身の故郷ではない。類似は差異を引き立てる。ポケモンセンターは、旅人たちに、「街に着いた」という安堵感と「ここは故郷ではない」という一抹の不安の両方を喚起する。そんな、ポケモンセンターを象徴するものとしてあの、底抜けに明るいはずなのに、どことなく安定しないBGMが存在する。そんなメロディにこの替え歌を乗せたロバート秋山は天才だ。ふるさとは、はずかしい。ふるさとは、なつかしい。ふるさとは、もどかしい。私たちが、屈託なく「ふるさと」について語ることは、とても難しい。
故郷とは一体何なのだろうか。本論では、日本において語られてきた故郷喪失の歴史をおおまかに概観し、故郷喪失アンソロジーをそのなかでどのように位置づけられるか検討したい。本アンソロジーのなかで語られた故郷喪失やハイデガーの故郷喪失に触れ、故郷喪失という言葉の拡張を目指す。最後に、これまで見てきた故郷喪失を貫くものについて考察したい。だれしもが故郷喪失者であることを念頭に置き、なぜ故郷喪失が語られるべきかを明らかとする。
まずは具体的な話をしよう。つまり一般的には「生まれたところ」と定義されるであろう「故郷」の話である。この故郷は地球上に実在する場所である。人は地球上のどこかで産声を上げ、そこで育っていく。その場所について、まずは故郷と呼ぶことができるだろう。しかし故郷という言葉に付随するものはそれだけにとどまらない。たとえば、幼少期に別の土地へ移住してそこで育った場合、生誕した土地と育った土地、どちらが(あるいはどちらも)故郷となるだろうか。あるいは住居を転々としていて「故郷」といわれても、これといった場所が思い浮かばないこともあるかもしれない。故郷のイメージはつくられもする。全国高校野球大会では高校生たちが故郷の代表として闘うのだし、一九七〇年に開始された、国鉄実施の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンでは、都会生まれの人々が「私の故郷」を探すために日本各地に旅行する現象が起きた。縁もゆかりも無い場所を「ふるさと」として納税する「ふるさと納税」も「つくられた故郷」の一例として挙げられるだろう。このように、故郷というものは場所と結びついて存在し、あとから意味を多層的に付与されることもある。
成田龍一は、故郷について三つの事柄を指摘す。一つ目は、故郷の概念は歴史的に変化をしてきたという点。二つ目は、人間にとって故郷はアイデンティティと結びついた問題である点。そして三つ目は、故郷は都市空間と密接な関係を持っているという点である。大部分が受け売りとなってしまうが、ここでひとまず日本における故郷の歴史について簡単に確認しておきたい。……
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いかがでしょうか。まだ冒頭の部分ですので本論にはさしかかっておりませんが、なんとなくこんな雰囲気なんだなと感じていただければと思います。
今回は以上になります。故郷喪失アンソロジークラウドファンディングは4月30日まで!引き続きご検討・ご支援のほどよろしくお願いいたします……!




