「モハメド・アリと渡辺澄晴氏」の中でご紹介させていただきました、渡辺氏が指揮を取って5台のカメラをリングの真上に設置したのは、1963年のケネディ大統領暗殺事件をスクープした事でも有名なアメリカの通信社「UPI」の依頼によるものでした。 しかし、当時のフィルムカメラでは、1本のフィルムで撮影出来る枚数(24枚 or 36枚)に制限があります。そこで渡辺氏は、33フィート(約10メートル)の長さのフィルムを入れることが出来る専用マガジンと、モータードライブ(連続シャッターが可能)を取り付けた、250枚もの連写が出来るカメラを5台準備したのです。 それをUPI通信社のカメラマンが、リングサイドから操作します。勝負は、たったの1ラウンドでついてしまった訳ですが、翌日、フロイド・パターソンがマットに沈む瞬間や、チャールズ・ソニー・リストンの勝ち誇る姿を捉えた大胆なアングルの写真が新聞紙面を飾ったのです。 この素晴らしい撮影を可能にしたのは、まさしく渡辺氏の功績であり、UPI通信社から感謝状が届いたそうです。 これは、1962年にニューヨークに渡った渡辺氏の最初の大きな仕事でした。
数人の方から支援についてのご質問がありましたので、こちらに記します。 このようなクラウドファンディングには、「All-or-Nothing」と「All-In」の2つのやり方があり、今回私は、「All-or-Nothing」を選択しています。 これは、皆さまからのご支援が、期間内に目標額に届いた場合にのみ、支援が成立する仕組みです。 一方で、目標額に届かなかった場合は、クレジットカードからの引落としはありません。振込みの場合にも支払金は指定口座に返金され、支援は不成立となり、プロジェクトは決行できません。(下記「よくある質問」参照) 目標額に届くご支援を受けることが出来ましたら、私が責任をもってこのプロジェクトを実行いたします。
ご支援いただく方々の名前が記載された写真集(リターン、Special thanks/ご支援者枠にお名前を掲載 )を、アメリカ/ニューヨークとカナダの美術館に所蔵したいただけるようにコンタクトを取っています。日本の写真家が撮影した「1960年代のニューヨーク」を、多くのアメリカ人に見てもらいたいと考えています。 みなさま、ご支援のほどどうぞよろしくお願い致します。
渡辺澄晴氏に1960年代のお話を伺っていたところ、モハメド・アリのニュースが飛び込んできました。すると、渡辺氏が大変興味深いことを語ってくれました。ご紹介します。 「アリが亡くなった」、とのニュースを聞いて、プロレスファンの方ならば、アントニオ・猪木がリングの中央に寝転んだままの状態からキックを放ち続け、アリがそれから逃れるように動き回った、あの名シーンを思い浮かべることでしょう。 そのアリに、渡辺澄晴氏は会ったことがあるというのです。1962年9月15日、当時、日本光学工業株式会社(現、株式会社ニコン)に勤めていた渡辺氏は、ニューヨークに赴任します。間もなく、シカゴで世界ヘビー級チャンピオンのフロイド・パターソンとチャールズ・ソニー・リストンとのタイトルマッチが行われることになり、渡辺氏は特設リングの真上に5台のカメラを設置するという仕事の指揮を取ったのです。試合は、あっという間で、挑戦者のリストンがチャンピオンのパターソンを1ラウンドでリングに沈めました。 2年後の1964年、そのリストンはモハメド・アリに王座を奪われたのです。そして、アリは、アントニオ・猪木との「格闘技世界一決定戦」の為に、1976年に来日します。 この時、渡辺氏の周辺から、「アリを会社に招待して、ニコンのカメラをプレセントしよう!」という話が持ち上がりました。「3億円のファイトマネーのアリが、来るとは思えない」という異論もあったのですが、それに反してアリ側があっさり快諾。アリがニコンのファンだった、との話もありますが、当時のアメリカでニコンがどれだけの評価を受けていたのかを伺い知れる出来事です。そして、ニコンの最高級機であった「NikonF3」の組み立て工場へアリを招待することが決まると、社員たちはパニック状態になったそうです。 ※ 写真は、アリに「NikonF3」をプレゼントした際に撮影されたもの。 右側に座っているのが、モハメド・アリ。左はニコンの副社長。 その間でちょっと気取っている? ^^ のが、若き日の渡辺澄晴氏。
こんにちは。 渡辺澄晴氏に、リターンの「オリジナルプリント」全てに直筆でサインを入れていただけることになりました!