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【鹿児島から世界へ】現代版薩摩スチューデント19名が海外で県産品をPR!

【鹿児島から世界へ】 明治維新150周年企画! 現代版薩摩スチューデント19名を輩出し、鹿児島の県産品を海外数か国でPRします。 鹿児島の若者が海外で挑戦するきっかけを作り、海外での経験を活かし国内外問わず活躍できる人財を発掘したいと思います。

現在の支援総額

620,000

51%

目標金額は1,200,000円

支援者数

47

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2018/05/19に募集を開始し、 47人の支援により 620,000円の資金を集め、 2018/06/24に募集を終了しました

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現在の支援総額

620,000

51%達成

終了

目標金額1,200,000

支援者数47

このプロジェクトは、2018/05/19に募集を開始し、 47人の支援により 620,000円の資金を集め、 2018/06/24に募集を終了しました

【鹿児島から世界へ】 明治維新150周年企画! 現代版薩摩スチューデント19名を輩出し、鹿児島の県産品を海外数か国でPRします。 鹿児島の若者が海外で挑戦するきっかけを作り、海外での経験を活かし国内外問わず活躍できる人財を発掘したいと思います。

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本日は、4人目薩摩スチューデント紹介をさせて頂きます! 【氏名、年齢】 畠山義成  (はたけやま よしなり) 22歳(薩摩藩留学生当時)   【生まれ~薩摩英国留学生になるまで】 鹿児島城下平之馬場(現在の鹿児島市平之町)に生まれる。 留学当時、当番頭。「一所持格」の出身。留学生第一次グループ選抜者から3人が辞退したため、後の候補として選ばれた。当初反対したが、藩主父の島津に説得されて留学生に加わったとされる。   【薩摩藩の留学生として海外へ渡る】   通訳として、イギリスへ渡る。 鹿児島を出発してから、ロンドン到着直後の様子のわかる「畠山義成洋行日記」を遺した人。また、留学して一年ほどたった慶応2年(1866)夏には、朝倉・中村のいるフランス単独旅行に出かけ、見聞を広めている。1868年9月にニュージャージー州のラトガース大学に入学。また、この時留学生管理役、財政管理役となる。 ヨーロッパで学制視察をしながら、帰国を命じられる。 その後「岩倉使節団」に合流し、アメリカへ戻る。書記官として合流。岩倉具視と共に各国を訪問。1873年9月使節団とともに帰国。   【帰国後の活躍について】  帰国後は文部省に出仕し、東京開成学校(東京大学の前身)校長、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)の校長に就任。東京書籍館(国立国会図書館の前身の一つ)・東京博物館(国立科学博物館および小石川植物園の前身)の館長を兼務する。明治9年(1876)10月20日フィラデルフィア万博視察で渡米するが病のため帰国する船中、34歳で死去。   日本の教育を創った人物であった。


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インターネットラジオRadicroに出演させて頂きました!     スマホで聴ける‼️インターネットラジオRadicro。 鹿児島の番組「Satsumaじ〜んRadio」に出演させて頂きました。 第9回目の放送です!   18分20秒頃から、後半コーナーの「ひっとべ!satsuma people!」の出演になります! 鹿児島大学NPO法人GROAD代表理事、鈴木涼良が出演し、 学生の海外留学などを積極的にサポートする活動をご紹介させて頂きました。     下記リンク先より、配信を聞くことができます。   「ひっとべ!satsuma people!」 正に、ひっとべ!現代版薩摩スチューデント‼︎ http://radicro.com/program/satsumajinradio.html(配信先)


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本日、鹿児島経済新聞さんに掲載させていただきました。 下記、リンク先より記事を見ることができます! ぜひ、ご覧ください。   【鹿児島経済新聞】鹿児島大学生による海外派遣プロジェクト 世界で活躍できる人材を育成(鹿児島経済新聞)https://kagoshima.keizai.biz/headline/1413/ 【Yahoo!ニュース】https://news.yahoo.co.jp/hl?c=kyuoki 【Facebook】https://www.facebook.com/kagoshimakeizaishinbun/ 【Twitter】https://twitter.com/kagoshimabiz


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五代友厚と関係性が深かった「堀孝之(ほりたかゆき)」のご紹介になります! 【氏名、年齢】 堀 孝之 (ほり たかゆき) 19歳(薩摩藩留学生当時)   【生まれ~薩摩英国留学生になるまで】 長崎のオランダ通詞(通訳)堀家の生まれ。長崎出身。 日本で初めて印刷出版された英和辞典「英和対訳袖珍辞書」を作り、ペリー来航時に通訳を務めた堀達之助の次男にあたる。 堀家と薩摩藩とは前後非常に強い絆で結ばれており、堀家は薩摩藩にとって大事な家だった。堀家は、古い長崎のオランダ通詞の家柄で、四代五代に渡って通詞の最高位大通詞を務めたが、五代目はこれを寛政元年(1789)に辞職し、同9年江戸に出て、薩摩藩に仕えた。 島津重豪が『成形図説』の編纂のために、招き入れている。 孝之を直接薩摩に結びつけた人物は、若き五代友厚である。   【薩摩藩の留学生として海外へ渡る】 五代の秘書として薩摩スチューデント事業の実務交渉を代理し、通訳としてイギリスにわたる。 薩摩藩英国留学生として渡欧中は、ヨーロッパ各国を回り、その間、ベルギー商社設立問題や紡績機械の買い付け、或いはパリ万博参加問題等を取り仕切りした。 慶応2年3月帰国。   【帰国後の活躍について】 薩摩藩がパリ万国博覧会(1867年4月1日)に参加した際に、通訳士として同行。 語学や西欧情勢に長けた堀は、薩摩藩の対外政策に対して密接な関係にあった。 五代友厚が実業界に転進してからは五代の事業を助け、五代友厚の死後は遺族の世話をしていたそう。 明治44年(1911)67歳で死去。   【その他】 堀の3回忌にあたる大正2年9月、五代が眠る大阪の阿倍野墓地内に堀の功績を称える「堀孝之君之碑」が建てられた。   薩摩スチューデントが誕生するのになくてはならない存在であった。          


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昨日から始まった、薩摩スチューデント19名のご紹介コーナー。   本日は、「鮫島 尚信」をご紹介させていただきます。     【氏名、年齢】 鮫島 尚信 (さめしま なおのぶ) 20歳(薩摩藩留学生当時)   【生まれ~薩摩英国留学生になるまで】 鹿児島城下山之口馬場町(現:鹿児島市山之口馬場町)にて生まれる。 15歳で蘭学を学んだあと、藩命により研究生として、長崎に学び、医学のほか、英語を学んだ。 1864年に設立された藩立洋学校「開成所」で訓導を務める。   【薩摩藩の留学生として海外へ渡る】 ロンドン大学法文学部に約1年間学ぶ。 その後、渡米し、宗教家のハリスが結社した「新生社」に入り、ブドウ園で働きつつ学んだ。 アメリカニュージャージー州のラトガース大学へ移る。 ハリスは、王政復古後の日本政府で働くことを進めたので帰国することにした。 明治元年に帰国。   【帰国後の活躍について】 明治政府で働き、外交官としてイギリス、フランス、プロシャとの外交官を務めた。 5年後には帰国して外務卿の寺島宗則のもとで外務大輔(次官)となった。 3年後の明治11年(1878)には駐仏特命全権公使として再びフランスへ渡る。 その2年後にはベルギー・ポルトガル・スペイン・スイスの公使も兼ねるといった多忙きわまる生活を送っていた。 在仏公使在任中にパリで持病の肺病に倒れ、35歳で病没した。   【その他】 「気高き働き人」だったと友人の森有礼(薩摩英国留学生)は語った。   まさに、日本と海外を繋ぐことに尽力された人物でした!!!!