この写真は今から37年前のラサ・パルコル(チベット語では「パーコー」)の光景です。1987年夏、山東大学での1年間の語学留学を終え、初めてチベットを訪れたときに撮った写真です。改革開放政策が始まってからすでに9年たっていましたが、チベットの経済発展は中国沿海地域に比べれば大きく立ち遅れており、当時のラサ最大の繁華街であるパルコルも昔ながらの雑多な露店が立ち並ぶバザールといった雰囲気でした。ジョカン寺(大昭寺)を取り巻く門前町のようなところですから、どこにいても灯明のバターや香木をたくにおいが漂ってきます。民族服を着た各地のチベット人たちが時計回りにパルコルを巡礼(コルラ)して歩き、いわゆる「内地」とは言語も文化も風俗習慣もまったく異なる別世界であることを実感しました。
外国人の入境が厳しく制限されている現在と比べれば、当時のチベットはまだ「自由」でした。ラサへ入るのに特別な許可証の申請などは必要なく、四川省成都からの航空便はもちろん、青海省から一泊二日の長距離バスで入境することも可能でした。何よりも、今なら数え切れないほどある街頭の監視カメラはなく、建物の屋上で銃器を携えて「暴動」に備える兵士も見当たりませんでした。土産物屋ではダライ・ラマ14世の写真も堂々と売られていました。
しかし、そのような改革開放初期のラサの解放感とひなびた空気は、結果的に見れば、つかの間の平穏だったようです。1987年9月のチベット独立要求デモ、1988年12月の反中国騒乱、1989年3月の戒厳令布告という一連の緊迫した流れの中でチベット情勢は一気に暗転していきます。
オーセルさんは『殺劫』の中で現在のパルコルの管制と俗化の状況をこう嘆いています。
<今日、ここはチベット人が巡礼し、仏を拝む場所になっているものの、警察の派出所、監視カメラ、狙撃手、制服姿の軍人・警官や私服警官、様々な内通者によって厳しく監視されている。ちなみに、ここは中国の観光客たちが野蛮人(彼らがイメージしているチベット人)の格好をして仏具を道具扱いし、「チベット族情緒」溢れる写真を撮る撮影スポットにもなっている>