本書『殺劫 チベットの文化大革命』の中で衝撃的な現場写真とともに詳述されていることですが、文化大革命期のチベットでは、チベット仏教寺院の建物や仏像、仏具、経典などは「四旧(古い思想、古い文化、古い風俗、古い習慣)」に属するものとして歴史的、文化的、宗教的な価値を全面否定され、手当たり次第に破壊されたり、焼却されたりしました。また、宗教活動そのものが封建的で迷信的なものと決めつけられ、僧侶たちは紅衛兵らからつるし上げ、引き回しなどの暴行を受け、筆舌に尽くし難いほどの屈辱をなめさせられました。チベットはまさしく「破壊と暴力」の坩堝の中に投げ込まれたわけです。
中国共産党は1976年に毛沢東が死去した後、鄧小平の主導下で徐々に脱文革、改革開放へと路線を転換し、文革については「革命ではなく、内乱であった」との結論を下します。文革期にチベットで吹き荒れた「破壊と暴力」の嵐も「誤った行為」として否定されたわけですが、共産党がチベット文革から学んだ教訓とはいったい何だったのでしょうか。
それは、一言で言えば、「破壊と暴力」ではチベット民族の宗教も文化も価値観も変えることはできない、ということです。唯物論、無神論に立つ共産党のイデオロギーからすれば、宗教は現実的存在を認めざるをえないとしても、永久に保護し、発展させるべき対象とは位置付けられていません。可能であるかどうかはともかくとして、イデオロギー的にはいつかは衰退させ、消滅させるべき対象です。こうした根幹的な考え方は現在も本質的に変化していません。「破壊と暴力」によって宗教を排除することに一度失敗した共産党が改革開放後に推進した政策は、共産党の強力な政治指導の下で、制度と法律、思想教育によって宗教活動を全面的かつ徹底的に管理するというものです。文革期のような宗教弾圧を「単純な直接的暴力」とすれば、今日のそれは制度設計に基づく「巧妙な間接的暴力」とでも呼ぶべきやり方です。
一例を挙げれば、前回の記事で取り上げたダライ・ラマの転生問題があります。共産党はダライ・ラマの転生は伝統的な手法と儀式にのっとって執り行い、中国政府が転生者を最終承認することによって完結すると主張しています。共産主義イデオロギーからすれば、転生も伝統も本来は「封建的」「迷信的」なものであるはずで、共産党がそれを踏襲するというのは大きな矛盾であるように見えます。しかし、そのことが何らかの問題や障害になるということはありません。なぜなら、共産党は「チベット仏教の伝統を重んじる」という形式を装うことによって、一貫してチベット亡命政府側の関与を排除し、次期ダライ・ラマ選定の主導権を掌握することができると考えているからです。
ダライ・ラマ、パンチェン・ラマなど高位の転生僧の生まれ変わりを選定する方式として「金瓶掣籤(きんぺいせいせん)」という制度があります。あらかじめ金瓶(黄金製の壷)の中に別々の候補者の名前、誕生日などをそれぞれ記した複数の象牙の札を入れておき、抽選で決定するというやり方で、18世紀に清朝の乾隆帝が導入しました。金瓶はラサのジョカン寺と北京のチベット仏教寺院、雍和宮に一つずつ保管されていますが、共産党はこの制度を継承すると公言しています。法的根拠を明確にするために「蔵伝仏教活仏転世管理弁法(チベット仏教活仏転生管理規則)」という法律も制定しています。次期ダライ・ラマの選定に際して、共産党が承認する子供こそが正統のダライ・ラマ転生者であると主張するための布石と見ることができます。
共産党が選定し、育成したパンチェン・ラマ11世は現在、中国仏教協会副会長、同チベット分会会長、全国政治協商会議常務委員として活動していますが、先ごろ、講話の中で「チベット仏教の中国化を積極的に推進しなければならない」「チベット仏教の活仏転生における党中央の決定権を断固として擁護しなければならない」と表明しました。共産党の期待に応えて、その政策の代弁者としての役割を果たしていることがわかります。
「チベット仏教の中国化」とは、ダライ・ラマを精神的指導者とするチベット仏教を排除し、共産党の指導に従順なチベット仏教へと構造転換することを意味します。共産党の将来構想は、すでに共産党式の帝王学を授けたパンチェン・ラマ11世が、チベット仏教界の先輩として、共産党の監督下で選定される幼少のダライ・ラマ15世を「善導」していく、というものであろうと想定されます。ここに至って、「チベット仏教の中国化」は一応の基盤整備を完了することになるでしょう。しかし、それが大多数のチベット人の主体的な意思と願望を反映したものとはならないことは言うまでもありません。