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支援者:42人
お届け予定:2025年01月
5,000円
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支援者:38人
お届け予定:2025年01月
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支援者:8人
お届け予定:2025年01月
この中西太氏銅像建立プロジェクトは、高松一高野球部OB会、桜紫会(高松一高同窓会)、高松讃紫会(高松高校・高松商業・高松一高野球部OB連合会)及び趣旨に賛同する者で構成する実行委員会が推進します。
中西太氏は、甲子園での活躍により怪童と呼ばれ、プロ野球では本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回など、数々のタイトルを獲得した球界屈指の強打者です。
また中西太氏の偉大さは、現役引退後に選手育成に心血を注いだところにあります。WBC優勝監督の栗山英樹氏、阪神監督の岡田彰布氏、元メジャーリーガーのイチロー氏や岩村明憲氏、掛布雅之氏、若松勉氏、金村義明氏、宮本慎也氏など球界を代表する指導者や選手を育成した日本球界のレジェンドです。
中西太氏は、高松一高並びに郷土香川の誇りであり、その偉大な功績を後世に伝えていく責任を強く感じています。
中西太氏銅像建立実行委員会会長を拝命しております、高松第一高等学校同窓会会長の山下幸男と申します。
日本野球界のレジェンドである中西太氏が昨年5月に逝去されて以降、野球王国・高松の礎を築き、多くのプロ野球選手、指導者を育て、多く国民に夢と希望を与えてくれた同氏の功績を顕彰する銅像建立の機運が高まっております。折しも、高松市役所前の高松市中央公園は、かつて名選手を輩出した高松市中央球場だったことから、水原茂氏(高松商業卒・元読売巨人軍監督)と三原脩氏(高松高校卒・元西鉄ライオンズ監督)の銅像がありますが、現在、同公園は高松市において再整備事業が進められており、両氏の雄姿に中西太氏が加わることで、野球王国・香川の名を全国に轟かせた3人が揃うことになる、またとないチャンスです。
このため、中西太氏の母校である高松第一高等学校の野球部OB会や同窓会、また、同氏と親交のあった有識者、野球関係者、さらには地元自治体の首長や財界の方々の参画をいただいて立ち上げた実行委員会において、銅像を制作し、高松市に寄贈する建立プロジェクトを推進します。
つきましては、その財源を、銅像建立の趣旨に賛同をいただける皆様からの寄附金で確保するため、全国の皆様に呼びかけさせていただきます。
皆様のご支援をお願いします。
このプロジェクトの目標は、中西太氏の銅像を高松市中央公園に建立することです。この公園はかつて中西太氏ら幾多の名選手を輩出した高松市中央球場の跡地に整備されています。現在、高松商業高校出身の水原茂氏、高松高校出身の三原脩氏の銅像があり、そこに中西太氏の銅像が加わることで、「野球王国・香川」を築いた偉大な3名が揃います。
これにより、彼らの功績を永遠に語り継ぐことができ、次世代の子どもたちにもその偉大さを伝えることができます。また、高松市中央公園のリニューアルに合わせて銅像を建立することで、「野球王国・香川」の復活の機運を醸成する絶好の機会となります。
[銅像建立のイメージ図]
現在、高松市中央公園は高松市の事業として令和9年初夏のリニューアルオープンを目指した取り組みが進められており、再整備に合わせて中西太氏の銅像を建立する予定です。
私は中西太と戦後すぐの旧制中学時代に一緒に野球をした者です。彼は最下級生として3年間、ボール拾いをしていました。その後の甲子園での活躍は、本当に凄かった。プロ野球でも素晴らしい成績を残し、沢山の選手や指導者を育てた。どんなに忙しくても関東の高松一高野球部OB会には来てくれた。太の銅像を何としてでも、水原さん・三原さんの銅像の横に作ってほしいなあ。みなさま応援、よろしくお願いします。
上春三郎(高松一高野球部OB会名誉会長・S24卒)
昨年の中西さんのお別れ会の時にご来場された栗山英樹氏が「中西さんの銅像を建立したい」とおっしゃっていた話を耳にした時、いつかそうなったら良いなと思っていましたが、まさか、こんなに早く実現に向けて動き出すとは!令和9年夏、高松市中央公園に水原氏・三原氏の銅像とともにそびえ立つ中西さんの銅像を想像すると、とても楽しみでなりません。
山口富士雄(元阪急ブレーブス・高松讃紫会名誉会長)
かねてより、高松市中央公園に中西太氏の銅像建設を望む声が数多く寄せられていました。昨年5月11日に中西太氏がご逝去され、同年11月3日に高松一高野球部OB会が中心になり、「怪童中西太さんお別れの会」を開催しました。このお別れの会をきっかけに銅像建立の機運が一気に高まりました。
中西太氏は高松一高時代に春夏合わせて3度甲子園に出場し、「怪童・中西太」として全国にその名を轟かせました。高校卒業後は西鉄ライオンズに入団し、本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回など、数多くのタイトルを獲得しました。また、西鉄ライオンズをはじめ、日本ハムファイターズや阪神タイガースで監督を務めたほか、多くの球団でコーチを務め、現阪神タイガースの岡田彰布監督やWBC侍ジャパン前監督の栗山英樹氏、元メジャーリーガーのイチロー氏や岩村明憲氏など、数多くの選手を育てた指導者でもありました。その功績から、平成11年には野球殿堂入り、平成12年には高松市市民栄誉賞第1号が授与されました。
昭和20年7月の高松空襲で、九死に一生を得た中西太氏が野球を始めたきっかけは、小学校の担任の先生から三角ベースボールを教わったことでした。松島小から高松一中に入学、折からの学制改革により引き続き新制高松一高へ進学したので、同じ校庭で6年間も学んだことになります。この間に接した多くの人々と豊かな人間関係を築き、郷土愛を育みました。誰に対しても優しく、細やかな気配りを忘れない性格から、「太っさん」の愛称で呼ばれる素晴らしい人物です。
< 「怪童」中西太の野球人生 >
1.小学校時代
昭和20年7月4日未明の高松空襲、小学生の中西太氏は、自宅近くの防空壕に入らず少し離れた場所に逃れ、九死に一生を得た。終戦を迎え焦土と化した高松で、松島小学校6年生の担任牧野先生に三角ベースボール教わったことが野球との出会いだ。グラブもバットもない中で、夢中で野球に興じた。昨年11月3日に行われた「怪童中西太さんお別れの会」では敏子夫人が「子供の頃の遊びが、生涯の仕事となりました。」と話されていた。
2.中学・高校時代の活躍
昭和21年4月に中西太氏は、高松第一中学校(旧制)に入学する。その頃は、教育制度改革の間で、本格的な練習をしたり、試合に出たりすることができなかった。上級生の練習の手伝いなど下積み生活が3年ほど続き、学制改革により併設中学3年生となり、そして高松一高へと進むことになる。
昭和24年春、選抜高校野球大会に出場、まだ高校に入学していなかったが中西太氏は出場が認められた。この大会では1回戦で関西(岡山)に勝利したが、2回戦で名投手福嶋を擁する小倉(福岡)に敗れる。
同年夏、全国高校野球選手権では、2回戦水戸商(茨木)、3回戦芦屋(兵庫)に勝利、準決勝の湘南(神奈川)に3―2で惜敗する。湘南は全国優勝を飾る。
昭和26年夏、1回戦岡山東(岡山)、2回戦福島商(福島)、3回戦芦屋(兵庫)に勝利したが、またも準決勝で、4-3と平安(京都)に涙を飲む。平安は全国優勝を飾る。
こうした、3度の甲子園での活躍により「怪童」と名付けられ、「高松一高に中西太あり」と全国にその名を轟かせた。
3.プロ野球での活躍
卓越した打撃成績
・新人王(1952年)・最年少20歳でトリプルスリー(打率3割1分4厘、36本塁打、36盗塁)(1953年)
・本塁打王5回(1953年、54年、55年、56年、58年)
・打点王3回(1953年、56年、57年)
・首位打者(1955年、58年)
・通算本塁打244本、通算打点785打点、通算打率3割7厘
・ベストナイン9回
★監督・コーチ歴
監督
・西鉄ライオンズ(選手兼任、1962年~69年)
・日本ハムファイターズ(1974年~75年)
・阪神タイガース(1980年~81年)
コーチ
・ヤクルトアトムズ ヘッドコーチ(1971年~73年)
・阪神タイガース 打撃コーチ(1979年)
・ヤクルトスワローズ ヘッドコーチ(1983年~84年)
・近鉄バファローズ‘打撃コーチ、ヘッドコーチ(1985年~90年)
・読売ジャイアンツ 打撃総合コーチ(1992年)
・ロッテマリーンズ ヘッドコーチ(1994年)
・オリックスブルーウェーブ ヘッドコーチ(1995年~97年)
・ヤクルトスワローズ アドバイザー(1999年~2000年)
※上記のように8球団で監督やコーチを歴任する。この間に、WBC侍ジャパン前監督の栗山英樹氏、現阪神タイガース監督岡田彰布氏、元メジャーリーガーのイチロー氏や岩村明憲氏、掛布雅之氏、若松勉氏、金村義明氏、宮本慎也氏など多数の日本球界のレジェンドたちを育て上げた名伯楽
受賞・顕彰等
・野球殿堂入り(1999年)
・高松市市民栄誉賞第1号(2000年)
・現役時代のユニフォームやトロフィーなどの資料49点を高松市に寄贈(2007年)
・高松市民文化センターで寄贈された上記資料が公開、展示される(2008年)
・高松市がこども未来館「たかまつミライエ」に怪童中西太コーナーを設置(2016年)
・高松讃紫会(高松高校・高松商業・高松一高野球部OB連合会)の名誉会長に就任(2016年)
・2023年5月11日ご逝去。同年11月3日に高松にて「怪童中西太さんお別れの会」を開催
・2024年6月1日中西太氏銅像建立実行委員会を設立
球史に残る名試合と三原ノート
・1956年、57年、58年に三原脩氏率いる西鉄ライオンズは、同郷の水原茂氏率いる読売ジャイアンツを下し、3年連続の日本シリーズ連覇を果たした。奇跡の逆転勝利と言われたのが、58年のシリーズだ。西鉄は3連敗し崖っぷちに追い込まれるも、稲尾投手の4連投、中西太氏のホームランなどにより4連勝し、シリーズを制覇した。中西太氏の義父でもある三原脩氏の采配は、「三原マジック」と呼ばれ、「三原ノート」として書き綴られ中西太氏に受け継がれた。後年、この「三原ノート」は中西太氏のヤクルト時代の教え子であり、当時のWBC侍ジャパンの監督であった栗山英樹氏に伝わり日本のWBC優勝の陰の力となった。
< 「太っさん」の言葉、人柄 >
・高松第一高等学校創立60周年記念誌に中西太氏は以下のように寄稿した。
「私が当時の高松一中に入学したのは、昭和21年でした。小学校6年生で終戦を迎えた私は、兵隊になる夢も消え、焦土と化した高松に唯一焼け残った高松一中に入学し、新制高松一高を第4回生として卒業しました。私の高校時代の思い出は、そのまま野球部の思い出につながるわけですが、私が野球部に入部したのは近所に野球部の先輩がいたという単純な理由からでした。その野球を今、職業としているのですから、人生はわからないものです。軍隊帰りの先輩達は非常に厳しく、殴られることもしばしばで、われわれは、無我夢中で練習をしました。現代の若者は、もっと自由に自己主張できるようになりましたが、まずは諸先輩の意見に耳を傾けることも必要ではないかと、今、思います。学生時代には、とにかく自分のやりたいことに熱中し、辛抱強く努力すれば、何か将来の道が開けるのではないでしょうか。」
・「何苦楚」が座右の銘
中西太氏の義理の父で西鉄、大洋、近鉄、ヤクルト監督を務め、4度の日本一などで名将とうたわれた三原脩氏(高松高校)が座右の銘とした「何苦楚 日々新也(なにくそひびあらたなり)」が源。仏教用語の一つで「何事も苦しむことがやがて一人ひとりの心の礎(いしずえ)になる・・・」の意味で、中西太が生涯のモットーとして受け継いだ。
・「長所を生かす」を大切にした指導
「人を見て法を説く」「花は咲き時咲かせ時」も三原脩氏から引き継いだ言葉。中西太氏の指導した選手は皆、個性的でそれぞれの特性をいかんなく発揮している。個々に応じた指導、タイミングを逃さない指導で才能を開花させた。
・「一日一善」など、選手を引き付ける言葉
ベースボールマガジンの2023年8月号は中西太特集号。その中に、中西太氏の素敵な言葉が散見される。
ヤクルトスワローズ時代のことだ。
「誰が始めたかが大事じゃない。若松君も指導者になってからやっていたし、みんなが選手のことを考え、工夫してきたもの、それが伝統や」「教えているようで、教えられているんだ」という言葉も残している。教え子たちがどんなに立派な成績を修めても決して自慢をすることもなく「自分が優れている点は、人と一緒に汗を流すことが得意だということ」と語った。
元近鉄バファローズの金村義明氏にはこんな言葉掛けをし、彼を飛躍させた。
「中西や長嶋でも全打席でヒットが打てるか」と問われ「いいえ、打てません」と答えると、「そう、一日一善でいいんや」、つまり一本のヒットでも四球一つでもいいよ、という意味で、とても気が楽になったとのことだ。背中に、打てるようにとおまじないを書いてくれたこともあった。中西太氏の人柄をよく表しているエピソードだ。
「太っさん」と呼ばれ誰からも敬愛される中西太氏。彼は自分のためではなく、人のために生きた。家族のため、チームのため、仲間のため、野球界のため、90年の人生を捧げた。高松市中央公園には大先輩である水原茂氏と三原脩氏の像が立ち、彼の像が建立されることを待っているようだ。怪童と呼ばれ、球界きっての強打者でありながら名伯楽、中西太氏の心と雄姿を後世に伝えたい。皆様方のご寄附、ご支援を心よりお願い申し上げます。
○領収証・お礼状を特製クリアファルに挟み込み、当実行委員会の封筒に入れて郵送いたします。
○希望される方に、銅像制作状況の経過報告ならびに除幕式(開催詳細未定)等のご案内をさせていただきます。
本プロジェクトの寄附金は、税制優遇措置(個人:所得控除、法人:全額損金算入)の対象となります。
送付する領収証は確定申告等で使用できます。
・大切な寄附金に対する領収証を送付する特製クリアファイルと当実行委員会の封筒は下図のようなイメージです。(※デザイン等変更になる可能性があります。)
本プロジェクトへのご寄附は『中西太氏銅像建立実行委員会』への寄附となり、弊団体が寄附金の受付及び領収証発行を行います。
このプロジェクトの寄附は寄附金控除の対象になります。
「寄附金控除」をお受けいただくためには、確定申告の際に、『中西太氏銅像建立実行委員会』が発行した領収証をもって確定申告をしていただく必要がございます。(領収証の発送は2025年1月中に送付いたします)
※領収証はCAMPFIREではなく当団体が発行・郵送いたします。
最新の活動報告
もっと見る怪童中西太フィロソフィー第91話から最終話
2024/11/12 12:00Xにて連載中の「怪童中西太フィロソフィー」第71話から第80話です。https://x.com/nakanishi_6第91話 昭和37年、太っさんは29歳でプレーイングマネージャー(選手兼任監督)に就任する。翌38年には大逆転でリーグ優勝を果たす。希望して監督になったのではないだろう。若くしてのプレーイングマネージャー、どんなに苦しかったことか。それが8年間続く。第92話 昭和44年、西鉄監督を辞任、現役も引退。これから太っさん劇場の2幕が始まる。ヤクルトアトムズを皮切りに、西鉄を含めると8球団の監督、コーチを務める。日本ハム、阪神、ヤクルトスワローズ、近鉄、巨人、ロッテ、オリックス。まさに野球遍路だ。第93話指導した選手は数知れない。若松勉、杉村繁、伊勢孝夫、八重樫幸雄、宮本慎也、岩村明憲、青木宣親、デーブ大久保、石井浩郎、大石大二郎、掛布雅之、岡田彰布、真弓明信、イチロー、新井宏昌、田口壮、金村義明、ブライアント、ペタジーニなどと言われている。第94話 皆、個性的なバットマンたちだ。こうした太っさんの門下生から、孫弟子ともいえる村上宗隆、山田哲人など新たな人材が育っている。でも太っさんは「自分が優れている点は、人と一緒に汗を流すことが得意だということ」と、決して自分が指導したことを自慢しない。第95話 ベースボールマガジンにこんなエピソードが。近鉄時代、太っさんは金村義明に「中西や長嶋でも全打席ヒットが打てるか」と問いかけた。「打てません」と答えると「一日一善でいいんや」つまり一本のヒットでも四球一つでもいいんだと、彼の気持ちを和らげた。第96話 高松市民栄誉賞受賞時、記念誌の太っさんの言葉の一部。プロ野球に求められているのは「米国が日本選手の器用さ、細やかさを学び、日本は米国の伸び伸びとした選手育成を取り入れる。互いにいいところを取り合う気持ちが大切だ」。現在、それが実現しつつある。第97話 今の選手に必要なこととして、「思い切ったプレーをすることが大切。勝ち負けは二の次。空振りをしても次につながる振りができればいい。踏ん張ってバットをよりシャープに振る、ボールをより遠くに投げる、これが大原則だ。」と。第98話 高校野球界に一言。「勝つことを目的にプロ野球並みの人集めをしているところや設備が整っているチームが勝つのは当然。試合の勝ち負け以前に、まず野球選手としての教育、基礎作りが第一。指導者は、選手の目線に立って自ら手本を示しやってほしい。」第99話 「俺は大学に行き、地元の銀行に入ってお袋を楽にしてやりたかったんだ。」数年前、僕にこう話してくれた。太っさんの生家は八百屋。店売りだけでは生計が立たず、母の小浪は行商に出ていた。遠く県外へ行くこともあった。小浪の後ろ姿から得難いものを学んだ。第100話「人に迷惑をかけるな」など、生きていく原則を小浪は幼い太っさんに教えた。一日一善、人の悪口を言うななど、太っさんは僕たちに人としての在り方を、身をもって示してくれた。太さんのような野球選手にはなれないが、その生き方は、少しは真似できそうだ。最終話 太っさんは郷土出身の浅野翔吾に期待し、大谷翔平や山本由伸の活躍するワールドシリーズ、熱戦のDeNAとソフトバンクの日本シリーズを喜んでいるだろう。西鉄対巨人のシリーズが蘇る。中央公園に太っさんの銅像が建ち、水原、三原の3人が並ぶ日を待ち望む。 もっと見る
怪童中西太フィロソフィー第81話から第90話
2024/11/11 12:00Xにて連載中の「怪童中西太フィロソフィー」第71話から第80話です。https://x.com/nakanishi_6第81話 太っさんが2年生の夏、県予選で高松商業に敗れ甲子園に出場できなかった。太っさんはチーム事情によりキャッチャーをしていた。その際に投げ手の右指のけがをしたらしい。「右手に力みがなくなりバッティングが向上した」と太っさんは何事も前向きにとらえる。 第82話 関東OB会に僕も何度か参加した。上春三郎、太っさん、近藤昭仁・・、かつての一高球児が集まる。夏の甲子園準決勝で2度惜敗した湘南高、平安高戦の思い出、桝形監督の情熱的な指導、そして現役の野球部への期待などを、まるで昨日のことのように話す。第83話 僕たち昭和40年代は太っさんの時代の練習が受け継がれていた。学校から少し離れたところに石清尾(いわせを)八幡神社があり、その階段を駆け上るのだ。歩いて階段を降りるとき、足の震えと酸欠状態で転げ落ちそうになったことを今でも思い出す。第84話 扇形キャッチボールもよくやった。扇の要の位置に選手一人が立つ、それを何人もの仲間が扇の形のように取り囲む。一人と多数の真剣勝負、至近距離のキャッチボールが始まる。ひるんでいては怪我をする。立ち向かうしかない。グローブの下の人差し指が腫れた。第85話 基本的な技術の徹底した習得とともに、臨機応変な対応力、野球技術の向上には、外部の優れた指導者に学び、対外試合を重ねることが大切だ。僕たちは久保田實監督の時、強豪社会人野球チームである日本鋼管(現JFEスチール)野球部の練習に参加した。第86 この上京中に、太っさんたちOBから、新橋のホテルで、初めてのバイキング形式の夕食をごちそうになった。日本鋼管野球部は戦後高松一高に指導に来ていた、早稲田の宮原実が創部し、高松一高出身者が多数在籍していた関係で、このような貴重な経験ができた。第87話 昭和27年西鉄ライオンズに入団した太っさんの活躍は目覚ましい。新人王、史上最年少のトリプルスリー、本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回を獲得する。これは3冠王を4度逃がしたことになる。高校卒業と同時にプロ野球屈指の大打者になった。第88話 昭和31、32、33年の日本シリーズに三原脩率いる西鉄ライオンズは、同郷の水原茂率いる読売ジャイアンツを下し3連覇を果たした。33年は3連敗の後の4連勝、稲尾和久投手と太っさん、球史に残る名試合の千両役者だ。第89話 この西鉄対巨人の日本シリーズは、水原茂(高松商業)、三原脩(高松高)、中西太(高松一高)の高松出身者の揃い踏みのシリーズでもあった。こうした経緯もあり、平成28年には3校の連合OB会、高松讃紫会が発足し、太っさんが名誉会長に就任した。第90話 高松市中央公園には、同じ台座の上に水原茂と三原脩の銅像が建てられている。これと並んで太っさんの銅像を設置することが僕たちの念願だ。野球王国といわれた香川県、近代野球の基礎を築いた3人の英傑をいつまでも忘れずにいたい。 もっと見る
怪童中西太フィロソフィー第71話から第80話
2024/11/05 08:00Xにて連載中の「怪童中西太フィロソフィー」第71話から第80話です。https://x.com/nakanishi_6第71話 アメリカ野球の研究、大リーグの招聘、プロ野球の設立などに尽くした鈴木惣太郎の分厚い野球理論書や米国から資料を取り寄せ、勉強し練習にも活用していた。なんと、後に9連覇の際に巨人軍が取り入れたドジャース戦法などについても勉強していた。第72話 昭和23年、高松中学出身の桝形博監督を迎え、その熱心な指導により高松一高野球部は強化される。早稲田からは名捕手の宮原実をはじめ多数選手の指導を受けた。また後に巨人の名遊撃手になった平井三郎から、守備の基本をみっちりと学んだ。第73話 このように当時の高松一高野球部は、貪欲に理論研究を行うとともに、その当時のトップクラスの選手の指導を受けていた。太っさんは、まだ中学生で試合に出ることはできなかったが、その後の野球人生の基礎・基本を身に付けていったのではないだろうか。第74話 昭和23年10月一高グランドでの野球部の整列写真。14人の選手の内、4名がプロ野球に、他の部員も多くが社会人野球、大学野球で活躍した。そんな中、ついに高松一高野球部は全国デビューをする。24年春の選抜大会だ。第75話選抜は3月に開催、太っさんは高松一高への入学は決まっていたが、まだ中学3年生、今日では出場はあり得ない。ところが、新旧の学校制度の狭間にあった当時、特別に認められたようだ。 第76話 昭和24年春の選抜大会、1回戦は関西高(岡山)、太っさんは1年生ながら3番サードで出場し、9-3で快勝。2回戦は、小倉高、名投手福嶋に抑えられ、0-4で完敗した。太っさんも完全に抑え込まれた。第77話 昭和24年夏の選手権大会、1回戦水戸商6-4、2回戦芦屋高5-0で勝利する。準決勝は湘南高に2-3で惜敗をする。降雨の悪コンディションの中、前半先取点を取られた高松一高は後半に追い上げ、2-2の同点にしたが、延長10回サヨナラ負けを喫した。 第78話 昭和26年夏の選手権大会、岡山東商12-3、福島商戦に太っさんは発熱を押して出場2-0、芦屋高6-2で快勝する。準決勝は平安高、8回まで4点リードされ9回に猛反撃するが3-4で惜敗した。太っさんはこの大会2本のランニングホームランを放つ。第79話 敗戦、焦土の高松、学制改革・・、大変革の時代。予科練帰りの猛者、旧制中学出身者、新制高校入学者が集まった、新興のチームが猛練習を重ね快進撃。ついに甲子園出場を果たした。鮮烈に登場した四国の高松一高球児に人々は大きな感動を覚えた。第80話 甲子園での活躍により、太っさんは「怪童」と呼ばれ全国にその名を轟かせた。この時代、甲子園に出場するためには、北四国大会を勝ち抜かなければならなった。香川県と愛媛県の代表が一枚の甲子園切符をかけ死闘を繰り広げていた。 もっと見る
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