Xにて連載中の「怪童中西太フィロソフィー」第71話から第80話です。
第81話
太っさんが2年生の夏、県予選で高松商業に敗れ甲子園に出場できなかった。太っさんはチーム事情によりキャッチャーをしていた。その際に投げ手の右指のけがをしたらしい。「右手に力みがなくなりバッティングが向上した」と太っさんは何事も前向きにとらえる。
第82話
関東OB会に僕も何度か参加した。上春三郎、太っさん、近藤昭仁・・、かつての一高球児が集まる。夏の甲子園準決勝で2度惜敗した湘南高、平安高戦の思い出、桝形監督の情熱的な指導、そして現役の野球部への期待などを、まるで昨日のことのように話す。
第83話
僕たち昭和40年代は太っさんの時代の練習が受け継がれていた。学校から少し離れたところに石清尾(いわせを)八幡神社があり、その階段を駆け上るのだ。歩いて階段を降りるとき、足の震えと酸欠状態で転げ落ちそうになったことを今でも思い出す。
第84話
扇形キャッチボールもよくやった。扇の要の位置に選手一人が立つ、それを何人もの仲間が扇の形のように取り囲む。一人と多数の真剣勝負、至近距離のキャッチボールが始まる。ひるんでいては怪我をする。立ち向かうしかない。グローブの下の人差し指が腫れた。
第85話
基本的な技術の徹底した習得とともに、臨機応変な対応力、野球技術の向上には、外部の優れた指導者に学び、対外試合を重ねることが大切だ。僕たちは久保田實監督の時、強豪社会人野球チームである日本鋼管(現JFEスチール)野球部の練習に参加した。
第86
この上京中に、太っさんたちOBから、新橋のホテルで、初めてのバイキング形式の夕食をごちそうになった。日本鋼管野球部は戦後高松一高に指導に来ていた、早稲田の宮原実が創部し、高松一高出身者が多数在籍していた関係で、このような貴重な経験ができた。
第87話
昭和27年西鉄ライオンズに入団した太っさんの活躍は目覚ましい。新人王、史上最年少のトリプルスリー、本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回を獲得する。これは3冠王を4度逃がしたことになる。高校卒業と同時にプロ野球屈指の大打者になった。
第88話
昭和31、32、33年の日本シリーズに三原脩率いる西鉄ライオンズは、同郷の水原茂率いる読売ジャイアンツを下し3連覇を果たした。33年は3連敗の後の4連勝、稲尾和久投手と太っさん、球史に残る名試合の千両役者だ。
第89話
この西鉄対巨人の日本シリーズは、水原茂(高松商業)、三原脩(高松高)、中西太(高松一高)の高松出身者の揃い踏みのシリーズでもあった。こうした経緯もあり、平成28年には3校の連合OB会、高松讃紫会が発足し、太っさんが名誉会長に就任した。
第90話
高松市中央公園には、同じ台座の上に水原茂と三原脩の銅像が建てられている。これと並んで太っさんの銅像を設置することが僕たちの念願だ。野球王国といわれた香川県、近代野球の基礎を築いた3人の英傑をいつまでも忘れずにいたい。