父は大学卒業後、トヨタで働いていました。田舎には帰りたくなかったのでしょう。母和子は神戸の地主の娘で、ねえやに育てらたわがまま娘でしたが、遊び半分で東京で働いていたところ父と出会い、二人は家庭を持ちました。好景気に支えられ、二人の生活はそれなりに楽しかったと聞きます。
しかし、二人は1960年ごろ父繁登に呼び戻されます。繁登の開いた蔵田呉服店が忙しくなったのかもしれません。お嬢様育ちだったため、母は料理も家事もできません。髪も自分で洗えない。定期的に鍋島美容院に通っていました。
しかし、ここで母は商売人として目覚めるのです。放漫経営だった呉服店の売掛金の回収に奔走し、ぐんぐんと売り上げを伸ばしていきます。義理の妹や弟がいた家庭で、おんば日傘で育った母はどんな思いで過ごしたのでしょう。
かすみがその頃生まれるのですが、母はやっぱり料理は作れません。気がつくとお手伝いさんが家に入り、母はいつも自宅兼お店でお客様対応していました。だから、私のおふくろの味はお手伝いさんと酒飲みの父の酒の肴でした。