発行人 伊藤玄二郎
この絵本は、原作者の遠山敦子さんの体験から生まれました。「体験」とは、1999年8月17日午前3時ごろトルコ共和国で起きた大きな地震のことです。震源地はトルコ北西の都市イズミットのあたり。マグニチュードは7.4、約2万人がいのちをなくしました。
遠山さんは当時、日本の大使としてトルコに駐在していました。地震が起きたときはトルコの首都アンカラの大使公邸にいました。イズミットから300キロほど離れているアンカラは夜中にゆったりと揺れました。遠くで大きな地震が起こったに違いない。目をさました遠山さんは、とっさにそう思いました。
夜があけると遠山さんは大使館にかけつけました。時間がたつにつれて大きくなる被害状況に、「地震大国の日本は何とかトルコのために役に立ちたいし、トルコに恩がえしをしなくては」という思いがつのります。というのは、1985年、トルコと国境を接するイラクとイランの戦争がつづくなか、イラクによるイランの首都テヘランへの空爆をまえにトルコ政府は危険をおかして飛行機をとばし、テヘランに取りのこされた200人以上の日本人を間一髪、救出するという出来事があったからです。救出劇の背景には、伊藤忠商事の森永堯さんという商社マンのトルコ政府へのはたらきかけがありました。
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軍のヘリコプターに特別に乗せてもらい被災地にとんだ遠山さんは、その被害の大きさに驚きました。家を失った人々が道路に出て呆然と立ち尽くしていました。すぐにでも仮設住宅が必要だと判断しました。トルコでは9月下旬には雨期がはじまります。そして短い秋のあと寒い季節がやってきます。
そんななか、遠山さんは1995年の阪神淡路大震災で使用され、兵庫県や神戸市に保管・管理されているプレハブ住宅があると知りました。でも、どのようにトルコまで運べばいいのか? 脳裏にうかんだのはエルトゥールル号の遭難事件です。
1890年9月、日本からトルコへ帰国途中の軍艦エルトゥールル号は台風のために和歌山県の樫野崎灯台付近で沈没。灯台のある大島村(現在の串本町)は村をあげて救助にあたり69人の乗組員を救助しました。生存者は明治天皇の命により日本の軍艦でトルコへ送りとどけられたのです。
もし自衛隊の船が仮設住宅をトルコへ運んでくれたら、2つの国の間の100年の時をこえた助け合いの物語としてトルコの人たちはよろこんでくれ、両国のきずなは、もっと強くなるはずだ――そう考えた遠山さんは、海上自衛隊から大使館に派遣されていた防衛駐在官を通じて藤田幸生幕僚長にその思いを伝えました。藤田さんは快諾し、ひそかに自衛艦の装備の準備をはじめてくれました。他国の大使たちは、日本大使の働きを驚きの目でみていたそうです。
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自衛隊の任務ではないのではという国会での激しい論戦はありましたが、やっと認められました。願いは実をむすびました。旗艦「ぶんご」はじめ3隻の自衛艦が500戸の仮設住宅を積んで神戸港を出航したのは1999年9月23日のことでした。輸送作戦は、大震災から不フェニックス死鳥のごとくよみがえった神戸市にあやかり「ブルー・フェニックス大作戦」と名づけられました。すでに自衛艦にプレハブを固定させる工夫をしてあったので、プレハブを無事に積みこみ、波高いマラッカ海峡をこえて海賊にもあわずに船は進みました。
隊員の努力の甲斐あって、艦船が無事にイスタンブルのハイダルパシャ港に入ったのは10月19日でした。遠山さんは到着するまえに大使の任期を終えて帰国していましたが、当時をふりかえり、到着を歓迎するトルコの人たちの笑顔が目に見えるようでしたと語っています。
――この絵本もまた、トルコと日本、ふたつの国がこれまで以上に仲よしになるためにお役にたてればうれしいです。
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この絵本をつくっているさなかの2023年2月6日、トルコ南東部でマグニチュード7.7と7.6の大きな地震がつづき、日本はいち早く救援隊や医療チーム、専門家チームを送りました。たくさんの犠牲者がでた悲しい出来事ですが、トルコと日本のきずなは、この災害緊急援助チームの活動をつうじて、さらに強くなったように思います。