
カルマの始まり、の、はじまり1980年〜中野時代(連載3回目)
さて保育園のお仕事は、やりがいはあるし熱心に働いていたけど、も〜どーにも約束した時間に始動できない。
上の人に「実はこんな感じで…」と打ち明け、相談の末に、やっぱり退職させてもらう事になった。
今あの時お世話させて貰った小さな子達は、もう40歳過ぎの立派な大人に、きっとなってるはず…
(ビックリ(@_@;)時の流れ)
その後、だいぶ経ったある日、中央線に乗ってたら新宿で「あの、失礼ですが◯◯保育園の丸山先生でしょうか…!?」って1回だけ声を掛けて貰った。
園児のお母様だった。
その途端、ゴワッと当時の事を思い出して何だか小汗をかいてしまいました。懐かしいあのギリギリだった日々…みんなどーしてるのかな〜。
そーいえば、保育園退職してすぐ「ウヒョ〜自由な時間がたぁくさんあるゥ〜!そーだ今しかナイ!行っちゃうぞお」とかってアホと化して(若かったのよ…)ジャマイカ行って音楽フェス参加したりしたな〜。
「日本人が大挙してやってきた」って、現地では新聞ネタになったらしい。(ボブ・マーリーが亡くなった直後くらいだった)
さてお店に戻って…
最初に揃える道具によって、お店のその後の歩みも決まる!と、道具や設備はしっかり揃えることにしたのでした。
それで厨房にはドカンとでっかいオーブンのついた三口ガスレンジを入れてもらった。
そしてこの決断、その後すんごい大吉と出たのでした。
あのバカでかいオーブンは、カルマが「喫茶店」の枠からビョ〜ンと飛び出て、様々な料理を生み出す言わば「料理の実験工房」となる為の大切な礎となった。それはカルマで働いた人の、その後の人生すらちょっこり変えたのではないだろうか。
オーブンの活躍、ホントに凄かった。でも夏は暑かったな…
モ〜アッヅ(;´Д`)アヅウ
さあ、お店がオープンして3ヶ月も経った頃。
ランチと夜飲みが中心になったけど、まだ隙間時間は手持ち無沙汰…。
「お茶の時間位とかにも、もっとお客さんに来て欲しいね」ということになって、ヨシそれではというので自宅でケーキを焼いていた枝元さんが「お店でケーキ焼こう!」と言い出した。
それがね、最初はケーキ型が無かったんです。ので、枝元さんは「タルトタタン」りんごのケーキを本から見つけ出して一人黙々と挑戦してくれた。それならフライパンでできるから!って。
一生懸命ごそごそと素敵な作業が行われ…そのうちに、おおなんと!
素晴らしく甘酸っぱい香ばしい香りが店内いっぱいに立ち込め始めたのです。「さ、そろそろいけそうですよお〜」おおお。なんとワクワク。
大皿を一度フライパンにかぶせ、ひっくり返して軽く底を焼いて出来上がり!だと言う。もうたまらない、りんごの甘酸っぱい香り!
わたしも脇で固唾を飲んで、焼き立てを試食させてもらおうとフォークを握り締め(今更ですがとても食いしん坊なのです…)お茶の用意をして待つ。
「もういいかな〜」と枝元さんがオーブンからケーキを取り出す…そして、そっと持ち上げて底をみると…
焦げ…(TдT)しっかり黒焦げだった。ボエ(TдT)ボエエエ〜ン
固唾を飲んで待っていたスタッフ(私も)と枝元さんは全員でガックリとしょげ返ったのでした。
でもよく見ると、焦げてないりんごのトコはすごい美味しそう…!
という事で、ファーストケーキのタルトタタンは時間をかけて丁寧に焦げを削り取り、お茶と一緒にみんなで美味しく戴いたのでした。焦げてもホントに美味しかった!
まだ、大型の業務用ガスオーブンの扱いに慣れていなかった極初期の頃。失敗も多かったけどそれにめげずにどんどん試して試して、みんなで色々楽しく挑戦した時期でした。
そして、この初期の頃に色々何でも試してみた事が、後々、大きく実を結ぶ事になったのです。
今回の写真は、初期によく枝元さんが見ていたケーキの本
「マドモアゼルいくこ︰秘密のケーキづくり」です。手描きのイラストだけで写真は無かった。面白い名前のお菓子が並んでます。
この続きはまた明日(*^^*)
※この記事をご覧になった方の中でこの頃のカルマの様子がわかる写真、どなたかお持ちですか?
是非ご連絡ください〜!
(1980〜2000年のもの)
本日までに、200名様からご支援とたくさんの応援メッセージを戴いております。
引き続き頑張らせてください!
みなさんからも少しでも多くの方に鳥取の魅力を伝えていただけたらと思います。
何卒、拡散よろしくお願いします。
#残り41日
#達成率58パーセント
#300万円まであと124万円
#ケーキづくり




