日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

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目標金額は7,000,000円

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長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

今回展示される茶の湯を描いた絵の中に、一枚の浮世絵があります。これもシーボルトコレクションの一部です。描いたのは渓斎英泉(1791―1848)。文政から天保期にかけて活躍した浮世絵師です。

 彼は武士の家に生まれましたが、二十歳の頃に父と継母を相次いで亡くし、さらに讒言によって職を失うという不遇に見舞われます。その後、浮世絵師・菊川英山のもとで絵を学び、版本の挿絵や錦絵を手がけるようになりました。文政元年(1818)頃には独自の美人画の様式を確立し、文政中期には歌川国貞と並ぶ美人画の第一人者となっています。

 英泉の美人画には、独特の妖艶さがあります。切れ長でやや吊り上がった目、通った鼻筋、小さいながらも存在感のある唇。短く太い首に、やや猫背で身体を「く」の字に曲げた姿。単に整った美人を描くというより、どこか生々しく、女性のしたたかな生命力まで感じさせます。

 なかでも英泉が好んで描いたのが、吉原に生きる花魁たちでした。吉原は華やかな場所である一方、「苦界」と呼ばれた世界でもあります。英泉の描く花魁を見ると、単に美しい女性を理想化して描こうとしたのではなく、そうした世界を生き抜く女性たちの強さや情念まで描こうとしていたように感じられます。

 この浮世絵に描かれているのも、その吉原の花魁です。画面には姿海老屋内 葛城」とあります。

 葛城は架空の女性ではありません。『吉原細見』を調べた研究によれば、姿海老屋の葛城は文政元年(1818)秋、前任者から「葛城」の名を襲名し、一人前の遊女として新たに披露されました。これを吉原では「突き出し」といいます。文政10年(1827)春には筆頭となり、それを最後に退楼しています。

 つまり、シーボルトが日本に滞在していたのとほぼ同じ時代に、実際に吉原で生きていた花魁なのです。描かれている葛城は左手に黒い茶器を持ち、右手には茶杓を取っています。。

画面右上には、箱のようなものがいくつも積み上げられています。よく見ると「新吉原 竹村伊勢」とあります。竹村伊勢は吉原の有名な菓子商です。そして熨斗紙には「葛城」の名が書かれています。これは単なる菓子箱ではなく、新造出しの際などに贔屓筋が吉原の菓子商・竹村伊勢に誂えた、葛城の新造出しを祝う菓子の積物と考えられています。

 背後の屏風には秋草が描かれています。葛城が文政元年の秋に突き出されたことを考えると、この季節の表現にも何らかの意味が込められているのかもしれません。

 さらに着物の裾と簪には「抱茗荷」の紋が見えます。同じ葛城を描いた英泉の別の作品にもこの抱茗荷が確認されることから、葛城を示す定紋であった可能性が指摘されています。

 こうして見ていくと、この一枚は単なる「茶をする美人」の絵ではありません。

 豪華な衣裳をまとい、贔屓から積物を贈られ、そして茶の湯を嗜む花魁として葛城が描かれています。当時の高位遊女に求められたものは、美貌だけではありません。さまざまな芸事や教養を身につけていることも、その女性の価値を高める大切な要素でした。

その「嗜み」の一つとして、英泉は茶の湯を描いているのです。

 もう一つ、画面下部に摺られた、小さな印に注目して下さい。富士山を思わせる山形の下に蔦の葉を配した図柄で、これは江戸の版元・蔦屋重三郎の耕書堂が使用した「富士山形に蔦の葉」の版元印とみられます。「蔦屋重三郎」と聞けば、大河ドラマの主人公となったことから、記憶に新しい方も多いかもしれません。喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出した、江戸を代表する版元です。

 ただし、この絵を出版したのは、あの初代蔦屋重三郎ではありません。初代蔦屋重三郎は寛政9年(1797)に亡くなっています。一方、葛城が姿海老屋にいたのは文政元年から文政10年。初代の死後、耕書堂を継いだのが、番頭を務め、のちに養子となった勇助です。勇助は二代目蔦屋重三郎を名乗り、店だけでなく、初代が使用していた「富士山形に蔦の葉」の商標も受け継ぎました。したがって、この印が耕書堂の版元印であるならば、《姿海老屋内葛城》を出版したのは、二代目蔦屋重三郎・勇助の時代の耕書堂ということになります。

 一枚の浮世絵を細かく見ていくと、実にさまざまなことが見えてきます。実在した花魁・葛城。その名を書いた竹村伊勢の積物。秋草の屏風。着物と簪に描かれた抱茗荷。茶器と茶杓を手にして茶を点てようとする葛城。そして、画面の隅に小さく摺られた蔦屋重三郎の版元印。

 それぞれが、この女性がいつ、どこで、どのような存在として描かれたのかを語っています。

そして、吉原の花魁を描いた錦絵のなかで、その女性の「嗜み」を示すものとして茶の湯が選ばれていることに興味を惹かれます。これは、文政期には茶の湯が茶人や武家だけの世界に閉じたものではなく、女性の教養や洗練を表す文化として広く認識されていたことを考えるうえでも、興味深い資料ではないでしょうか。

 一枚の浮世絵から、花魁・葛城の姿が見え、吉原の文化が見え、江戸の出版文化が見え、そして茶の湯の姿が見えてきます。

 参考文献:日比谷 孟俊著「吉原研究のツールとしての遊女絵版画―メタデータとしての紋から考察した遊女絵開板年の特定と遊女の襲名―」

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