日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

2,852,500

40%

目標金額は7,000,000円

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日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

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支援者数84

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

ブロムホフは、野点など旅先で茶を楽しむための茶籠も持ち帰っています。 残念ながら籠そのものは失われ、現在は仕覆だけが残されていますが、その中には茶碗、茶器、茶筅筒、茶筅、茶杓、帛紗、茶巾など、茶を点てるために必要な道具一式が収められています。 なかでも私が興味深く感じたのが、折畳式の茶杓です。私自身、これは比較的新しい時代に生まれた工夫だとばかり思っていました。しかし、ブロムホフが持ち帰った茶籠に含まれているということは、少なくとも文政年間には、すでに携帯のために茶杓を折り畳むという発想が存在していたことになります。 茶碗も、茶器も、茶筅も、帛紗も、茶巾も必要である。しかし、それらをできるだけ小さな籠の中に収め、どこへでも持ち運べるようにする。そのためには、細長い茶杓さえ折り畳んでしまう。 こうした発想を見ていると、李御寧(イ・オリョン)が『「縮み」志向の日本人』で論じた、日本文化における「縮み」の美意識を思い起こします。 日本人は、単に物を小さくするのではなく、大きな世界を小さな空間の中へ凝縮することを得意としてきました。盆栽や箱庭、弁当、扇子などにも見られるように、機能を失うことなく、小さく畳み込むことによって一つの完結した世界をつくり出す。茶籠や茶箱も、まさにその一つです。 一服の茶を点てるために必要な世界を、小さな籠の中に丸ごと収めて持ち歩く。折畳式の茶杓は、その「縮み」の発想を象徴する道具の一つといえるでしょう。 そして、ブロムホフ・コレクションを調べていて、もう一つ興味深いことに気づきました。 偶然なのかもしれませんが、茶籠の籠そのものをはじめ、道具を収めていた箱、さらに後ほどご紹介する旅箪笥など、「物を入れるための器」が失われている例が少なくありません。 一方で、湊長安の書付けがある茶箱や、これも後ほどご紹介する螺鈿が施された茶箱などは、現在まで残されています。 ここで興味深いのが、当時のオランダにも「茶箱」があったということです。ただし、日本の茶箱とは役割が違います。日本の茶箱が茶碗や茶器、茶筅など、茶を点てるための道具一式を仕込むものであるのに対して、オランダの茶箱は、高価な茶葉を保存するためのものでした。 茶葉そのものが貴重品であったため、その容器にも銀や鼈甲などが用いられ、豪華な装飾が施され、なかには鍵を備えた茶箱もありました。つまり、茶を収める「箱」そのものが、家具や工芸品として鑑賞に値するものであったのです。 そうした文化の中で、日本の何の装飾もない籠や白木の箱は、オランダの人々の目にどのように映ったのでしょうか。 単なる収納や運搬のための容器と受け取られたのか。それとも、日本の茶の湯において、籠や箱もまた道具の一部であり、中に何をどのように仕込むかまで含めて意味をもつことが理解されていたのでしょうか。 もちろん、籠や箱が失われた理由を、今となって断定することはできません。ただ、ブロムホフ自身は、これらの籠や箱も含めて日本で収集し、オランダまで持ち帰っています。少なくともブロムホフの手元にあった時点では、籠や箱もまた、彼が持ち帰るべきものとして選んだ日本の茶道具の一部だったのです。 ところが、ブロムホフの手を離れ、コレクションとして王室に渡り、さらに博物館の収蔵品として整理・保存されていく過程で、装飾や書付けのある茶箱が残る一方、素朴な籠や箱、旅箪笥などの多くが失われていきました。 それが偶然や経年による紛失だったのか、あるいは日本とオランダとで「入れ物」に対する価値の見方に違いがあったためなのか、今となって確かめることはできません。 しかし、二百年後の今日、残されたものと失われたものを見比べてみると、ブロムホフの手からコレクションが離れた後、異なる文化の中で日本の茶道具の何が価値あるものとして認識され、何が残されていったのかという、もう一つの興味深い問題が見えてきます。


ブロムホフが単なる茶道具の収集家ではなく、実際に茶を嗜んでいたことを物語る茶道具の一つが、この茶箱です。 蓋裏には、「日本大老臣 青山下野守侍医 江戸 湊長安 平義胤(花押)文政癸未冬十月」と記されています。 さらに箱の底には、「Eidosche docter Minato Tsooan」というオランダ語による署名まで残されています。そして、この茶箱には湊長安自筆の添状も添えられています。そこには、「ブロムホフ商館長閣下へ進呈します。ご帰国の旅路でもご使用いただければ幸いです。今一度、貴殿の幸福と祝福を祈ります。誠意を込めて、貴殿のしもべ、そして友人とお呼びください」という趣旨の言葉が記されています。 箱書にある「文政癸未冬十月」は、文政六年(1823)十月、現在の暦では十一月頃にあたります。この時、ブロムホフはまだ出島商館長として長崎に在任していましたが、その翌月には日本を離れ、オランダへの帰途につきました。 つまり、この茶箱は、日本を去るブロムホフへの餞別として、江戸の医師・湊長安から贈られたものだったのです。 さらに注目したいのが、箱書に記された「青山下野守侍医」という肩書です。 青山下野守とは、丹波篠山藩主で、幕府老中として幕政の中枢を担った青山忠裕のことです。湊長安はその侍医でした。しかも箱書では青山忠裕を「日本大老臣」と記しています。そこには、幕府の重職にあった青山忠裕への敬意と、その侍医として仕える長安自身の自負もうかがうことができます。 この茶箱には、黒楽茶碗、茶入、象牙製茶杓、茶筅、津軽塗と思われる器、紫の帛紗、茶巾など、茶を点てるための道具が一式納められています。添状にも、はっきりと「旅路でもご使用ください」という意味の言葉が記されています。「日本を離れてからも、この茶箱を携え、茶を楽しんでほしい。」そんな友人への思いを込めて、湊長安はこの茶箱をブロムホフに贈ったのではないでしょうか。 日本を離れた船の上で、ブロムホフがこの茶箱を開き、茶碗を取り出し、茶を点てている姿を想像してみてください。そこにいるのは、自ら茶碗を手に取り、茶杓で茶をすくい、茶筅を振って一碗の茶を点てる、一人の「茶人」としてのブロムホフです。 この茶箱は、ブロムホフが茶道具をただ鑑賞し、収集していただけではなく、実際に茶を点て、茶の湯を楽しんでいたことを物語る、極めて重要な資料の一つといえるでしょう。そして、この茶箱こそ、本展覧会のタイトルである「OTEMAE ― ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」を象徴する代表的な茶道具の一つだと考えています。


 ブロムホフ・コレクションの中でも、ひときわ注目されるのが茶道人形です。 人形には茶碗・水指・炉・釜などのミニチュア茶道具が添えられ、約二百年前の茶人の姿を立体的に再現しています。当時の記録には「右手に茶杓、腰に紫の帛紗」と記されており、現在は失われた帛紗の存在も確認することができます。 人形は元服前の少年の姿で、袴姿のまま点前を行っています。また、現在一般的な正座ではなく、割座で座っていることも興味深い点です。このことから、江戸時代には割座も点前の座法の一つとして行われていたことがうかがえます。つまり、この人形は、茶の湯の所作そのものを忠実に表現するために制作されたと考えられます。 頭部は胡粉で美しく仕上げられ、耳まで丁寧に造形されています。切れ長の目、小さく結んだ口元、そして穏やかな表情には、静かな品格が漂います。 衣装には絹織物が用いられ、裂には鳳凰と唐花と思われる吉祥文様が織り出されています。柄合わせや裁断も極めて精巧で、袴や帯に至るまで実際の装束と同じ仕立て方が施されています。人形衣装というより、本物の衣装をそのまま縮小したかのような完成度を備えています。 さらに髪には人毛が植え込まれ、一本一本を束ねて結い上げられています。頭頂部を複数に分けて結う独特の結髪は、現在確認している江戸後期の人形や風俗画には類例が見当たらず、この人形を特徴づける大きな特色となっています。 人形には烏帽子も添えられています。烏帽子は武家や公家の男子が礼装の際に着用した被り物であり、この人形も礼装した少年茶人を表現したものと考えられます。袴姿や割座の姿勢とあわせて見ると、茶の湯がたんなる喫茶ではなく、礼法を重んじる武家文化の一端であったことを伝えています。このような茶道人形は、現在確認できる限り他に類例がなく、ブロムホフの特別注文によって制作された可能性が高いと考えています。 また、頭部の造形や衣装の技法には京都系衣裳人形との共通点が多く認められることから、江戸参府の折に京都の人形師へ注文し、帰路に受け取って長崎へ持ち帰った可能性も考えられます。一方、人形に添えられたミニチュア茶道具は、長崎で制作させ、人形と組み合わせた可能性があります。その推測を裏付ける手掛かりが、人形とともに伝来した象牙製茶杓です。この茶杓だけは実寸約十八センチの象牙製で、実際の茶人が用いる茶杓とほぼ同じ大きさです。人形の右手も、この茶杓を握ることを前提として作られていたことがわかります。 このことから、ブロムホフは京都で人形を制作させる際、実物の象牙製茶杓を持たせるよう人形師へ依頼し、その後、長崎でミニチュア茶道具を揃えて完成させた可能性が考えられます。 それでは何故、ブロムホフが人形に持たせたのが、茶碗でも茶入でもなく、象牙製の茶杓だったのでしょうか。 十九世紀初頭のオランダでは、象牙は王侯貴族や富裕層の工芸品に用いられる高級素材であり、美術的価値の高い特別な素材でした。その価値を十分理解していたブロムホフは、日本の茶人を象徴する道具として、茶碗ではなく、あえて象牙製の茶杓を選んだのではないでしょうか。異国の茶道人形に象牙製茶杓を持たせることによって、人形そのものの価値を高めるとともに、日本文化を象徴する作品として位置づけようとした可能性があります。 残念ながら、この象牙製茶杓はワシントン条約(CITES)に基づく国際取引規制の対象となるため、今回の展覧会では日本へ持ち込むことができません。 しかし、この人形は本来、その象牙製茶杓を手にして初めて完成する作品でした。 どうぞ展示をご覧の際には、その「見えない茶杓」を心の中で人形の右手に戻してみてください。約二百年前、ブロムホフがヨーロッパへ伝えようとした「茶人」の姿、そして日本の茶の湯の精神が、より鮮やかに浮かび上がってくることでしょう。※写真はオランダ国立世界文化博物館(NMVW = Nationaal Museum van Wereldculturen / Wereldmuseum)蔵 茶道人形とミニチュア茶道具


名物裂は、織物そのものが貴重であった時代から、茶人たちに珍重され、掛軸や茶入の仕覆などに用いられてきました。その価値は極めて高く、仕覆や表具を仕立てた際に生じた残り裂まで「名物裂帖」として大切に伝えられてきました。オランダとの貿易においても、こうした舶来の織物は重要な輸入品の一つでした。一方、同じ裂でありながら、点前に用いられる帛紗は、茶器を清めるための神聖な道具です。そのため、常に清浄で新しいものが尊ばれ、傷みや汚れのあるものを使い続けることはありませんでした。このような性格から、江戸時代に実際に使用された帛紗は、私の知る限り、ほとんど今日まで伝わっていません。今回の展覧会では、ブロムホフが持ち帰った紫と朱の帛紗を展示します。江戸時代の茶人が実際に用いた帛紗が二百年の時を経て伝わった、極めて貴重な資料です。 ブロムホフが来日する二年前の文化四年(1807)、江戸で千家流茶道を広めた江戸千家の祖・川上不白(1719~1807)が亡くなりました。彼の著した『不白筆記』には、帛紗の色について次のような記述があります。「色ハ紫黄から茶紅也」すなわち、帛紗の色として紫・黄から茶・紅の三色を挙げ、さらに、「紫ハ常躰用ル 黄から茶ハ老人 紅ハ若年嗜老ノ物也」と記しています。これによれば、紫は常用する色、黄から茶は老人が用いる色、紅は若年者が用いる色であり、年長者が好みによって紅を用いることも認められていたことがうかがえます。この記述からは、江戸時代の帛紗には年齢による色の使い分けが存在したことがわかります。現在、多くの流儀では「男子は紫、女子は朱(緋)」という使い分けが一般的ですが、『不白筆記』には現在とは異なる帛紗の色彩観が記されており、その使い分けが時代とともに変化してきたことを物語っています。 今回展示される紫と朱の帛紗は、茶器を清めるためだけ布ではありません。茶人たちが茶席で手に取り、さばき、道具を清めたその所作を、二百年の時を超えて今に伝える貴重な歴史資料でもあります。その色の意味に思いを巡らせながらご覧いただくと、江戸時代の茶の湯がより身近に感じられることでしょう。※写真はオランダ国立世界文化博物館(NMVW = Nationaal Museum van Wereldculturen / Wereldmuseum)蔵 朱 袱紗


ブロムホフコレクションには、利休好と思われる桐木地丸卓が含まれています。 丸卓は、天板・地板ともに円形で、二本柱によって支えられた小棚です。千利休が好んだと伝えられる棚の一つで、炉・風炉のいずれにも用いられます。利休好の丸卓は、桐木地で仕上げられ、二本の柱が天板と地板の内側に付き、地板の裏には三つ足を備えるのが特徴です。桐木地の白木のまま仕上げられた姿には、余分な装飾を排し、素材そのものの美しさを生かす利休の美意識が表れています。また、二本柱という軽快な構成は、台子のような重厚さとは対照的に、簡潔で伸びやかな印象を与えます。 ブロムホフコレクションに伝わる丸卓は、鰭板の一部に破損が見られるほか、天板裏には三本の角材が取り付けられています。これらが製作当初の構造なのか、あるいは後世の補強なのかは今の段階では不明ですが、約二百年にわたって伝えられてきた歴史を物語る痕跡でもあります。 私は遠州流を学んできたため、千家に伝わる棚物については、これまであまり深く接する機会がありませんでした。利休好丸卓も、よく見かける棚の一つという程度の認識でした。しかし今回調査を進めるうちに、江戸時代の利休好丸卓の現存例(表千家・三井記念館等)は決して多くないことに気付きました。 もちろん、これは私の調査の範囲での認識です。もし江戸時代の利休好丸卓の現存例や資料をご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示いただければ幸いです。 さらに、この丸卓の存在は、ブロムホフが収集した茶道具が、当時長崎で行われていた千家系の茶の湯と深く関わっていたことを示す重要な資料でもあります。十九世紀初頭の長崎では、千家系の茶の湯が広く行われていたことがうかがえ、ブロムホフ自身も、そうした茶の湯に接していた可能性は極めて高いと考えられます。 この一基の丸卓は、長崎における茶の湯の広がりと、ブロムホフが触れた日本文化を静かに物語る、貴重な歴史資料といえるでしょう。 日本では使い続けられるうちに失われた実用の丸卓が、海外へ渡ったことで約二百年後の今日まで伝わっています。※写真はオランダ国立世界文化博物館(NMVW = Nationaal Museum van Wereldculturen / Wereldmuseum)蔵 丸卓 「OTEMAE~ブロムホフ・茶道を愛した異邦人~」展プレスリリースhttps://www.huistenbosch.co.jp/.../pdf/260728_pr20.pdf【クラファン公開中!】現在支援を募集しています!リポストなどで拡散もしていただけると嬉しいです!応援よろしくお願いいたします。詳細はこちら↓https://camp-fire.jp/projects/941714/view#ブロムホフ #出島 #茶道具 #茶道 #展覧会 #ハウステンボス #日本経済新聞社 #クラウドファンティング #オランダ #日本 #日蘭交流 #長崎 #ブロムホフ家族図 #川原慶賀 #遠州流茶道 #茶会 #丸卓 #利休好


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