日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

1,690,500

24%

目標金額は7,000,000円

支援者数

58

募集終了まで残り

30

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

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1,690,500

24%達成

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目標金額7,000,000

支援者数58

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

第2ゾーンの茶道具は、日常の茶道を楽しむために集めた道具群であったと思われます。この見所をお話する前に、長崎での茶道事情を少しご説明いたします。 鈴木康子氏の「一七世紀長崎における茶の湯―『日葡辞書』と『茶湯秘書』を中心として―」を読むと、長崎での茶道事情の一端を知ることが出来ます。長崎は、16世紀末から17世紀初頭にかけて、日本におけるキリスト教布教の最前線でした。イエズス会は長崎にコレジオ(高等教育機関)や印刷所を設け、1603・1604年には『日葡辞書』を刊行しています。この辞書には、「茶の湯」「茶の湯者」「茶の湯数寄」「茶筅」「茶入」「数寄屋」など百項目を超える茶の湯関係語が収録されており、当時すでに茶の湯が宣教師にとって理解すべき日本文化であったことがわかります。その背景には、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、日本文化への適応を重視し、各地のカザ(修院)に茶室を設け、茶の湯を心得た者を常住させ、来訪者を茶でもてなすよう命じた布教方針がありました。『日葡辞書』に多くの茶の湯関係語が収録された背景にも、このような日本文化への深い関心があったことがうかがえます。さらに鈴木康子氏は、『日葡辞書』に収録された豊富な茶の湯関係語から、1600年前後には長崎を中心とする九州で、支配階級や外国貿易商人を中心に茶の湯がかなり行われていたと考察しています。その後、17世紀末には堺の茶人・隠岐宗沕が長崎滞在中に『茶湯秘書』を著し、その写本が長崎に伝えられました。鈴木氏は、この史料を長崎における千家茶道受容の重要な一段階と評価しています。 さて、1817年、ヤン・コック・ブロムホフが滞在した長崎は、人口約5万人を擁する日本最大級の国際都市でした。しかし、その市街地は約80か町に過ぎず、現在の公立小学校の校区一つほどの範囲に人々が密集して暮らしていました。日本でも有数の人口密度をもつ都市であったと考えられています。 長崎は江戸や大坂とは異なる特徴をもつ町でした。幕府の直轄都市でありながら、その社会を支えていたのは町人たちでした。商人や職人だけでなく、オランダ通詞、唐通事、町乙名、会所役人など、貿易と行政を担う地役人も身分上は町人であり、長崎の経済・文化の中核を形成していました。 さらに長崎は、日本唯一の海外貿易港として、オランダ人、中国人、国内各地から集まる商人や職人、学者、医師、僧侶が絶えず往来する情報と文化の交差点でもありました。海外から西洋や中国の文化が流入するだけでなく、京都・大坂・堺など上方文化もこの地へ運ばれ、新たな文化が育まれていきました。 茶の湯もその一つです。このような文化的土壌の中で、ブロムホフは茶の接待を受け、日本の茶の湯に魅了されました。そして彼が持ち帰った茶道具一式は、単なる美術工芸品ではなく、十九世紀初頭の長崎で実践されていた茶の湯の姿を、そのまま伝える貴重な歴史資料となったのです。※写真は1603年刊『日葡辞書』


展覧会のみどころを少しだけご紹介したいと思います。ブロムホフ・コレクションの中でも、まずご覧いただきたいのが、コレクションの頂点を飾る真台子道具一式です。 真台子を中心に、風炉釜、天目茶碗、天目台、皆具(水指・杓立・建水)、茶入、茶臼、茶筅、茶巾、柄杓、袱紗、炭、火箸、香合、灰匙、羽箒、さらには碾茶まで、真台子の点前に必要な道具が、一つのまとまりとして収集されています。皆具のうち水指だけは残念ながら現在所在がわかっていませんが、それでもなお、このコレクションが計画的に収集されたことは明らかです。 注目すべきは、それらが名品を寄せ集めた美術コレクションではないという点です。茶碗だけでなく、茶筅や茶巾、柄杓、袱紗、炭、さらには碾茶を抹茶に挽く石臼に至るまで、実際に点前を行うために必要な道具と消耗品が揃えられています。つまりブロムホフが持ち帰ろうとしたのは、個々の茶道具ではなく、それらを用いて点てられる一碗の茶、「茶の湯そのもの」だったのです。とりわけ貴重なのが、文政三年(1820)に詰められた碾茶「初昔」です。現在残るのは未開封の一袋だけですが、十九世紀初頭のオランダで茶が上流社会の社交文化として広く親しまれていたことを考えると、ブロムホフは実際には相当量の碾茶を持ち帰っていた可能性があります。 また、一部が茶色く変色した茶巾も残されています。これは二百年という歳月による変色だけではなく、実際に茶碗を清めた際の残り茶によって染まった痕跡である可能性もあります。もしそうであれば、この茶巾は約二百年前に実際の茶席で使われたことを今に伝える、きわめて貴重な歴史の証人といえるでしょう。 真台子は、今も昔も茶の湯において最も格式の高い点前の一つです。その一式を最優先で収集したことは、ブロムホフが珍しい日本美術を集めようとしたのではなく、日本の正式な茶道をヨーロッパへ紹介しようと考えていたことを示しているように思われます。 ブロムホフは帰国後、自ら収集した日本コレクションを国王ウィレム一世に披露しました。その頃のオランダ王宮には、王妃ヴィルヘルミーネの私室に「ティーサロン」と呼ばれる部屋があり、国王が宮殿で執務する日は、毎日午後四時になると、国王は王妃や侍女たちとともにそこで茶を楽しんでいたことが記録されています。 また、王妃ヴィルヘルミーネは、自ら絵画を学び、展覧会に足を運び、美術館を保護し、芸術家を支援した、当時を代表する芸術の後援者でした。一方、国王ウィレム一世は、1816年に王立絵画館を創設し、その後、現在のマウリッツハイス美術館へと発展する美術館事業を推進するなど、オランダの文化政策の礎を築いた人物でもあります。このような芸術と文化を重んじる王室に、ブロムホフは日本から持ち帰った茶道具を紹介したのです。 残念ながら、日本の茶道が王宮で実際に披露されたことを示す直接の史料は、現在のところ確認されていません。しかし、毎日午後四時になると茶を楽しむティーサロンを備えた宮廷で、格式高い真台子飾り一式が披露され、日本の茶の湯が紹介された可能性は十分に考えられます。 約二百年前、オランダ王宮のティーサロンで、日本の石臼で碾茶が挽かれ、風炉に湯が沸き、天目茶碗に抹茶が点てられる――。 その情景を想像しながら展示をご覧いただくと、一つひとつの道具がたんなる美術品ではなく、日本とヨーロッパを結んだ文化交流の証人として、より鮮やかに語りかけてくることでしょう。 本展の「OTEMAE」というタイトルには、まさにその思いが込められています。ブロムホフがヨーロッパへ持ち帰ったのは、美しい茶道具だけではありません。その道具を用いて人をもてなし、心を通わせる「茶の湯そのもの」だったのです。※写真はオランダ国立世界文化博物館(NMVW = Nationaal Museum van Wereldculturen / Wereldmuseum)蔵 杓立 建水 蓋置 柄杓 火箸 (水指は所在不明)


昨日、「OTEMAE~ブロムホフ・茶道を愛した異邦人~」展が正式にプレスリリースされました。約20年にわたり温めてきた構想が、ようやく大きな一歩を踏み出しました。この展覧会が開催できますのも、これまで支えてくださった多くの皆様のお力添えのおかげです。心より御礼申し上げます。また、川原慶賀筆《ブロムホフ家族図》修復プロジェクトのクラウドファンディングを開始してから、早くも1か月が経ちました。これまでにご支援くださった皆様、投稿をシェア・リポストしてくださった皆様、そして陰ながら応援してくださっている皆様に、改めて深く感謝申し上げます。おかげさまで多くの方にこのプロジェクトを知っていただくことができました。しかし、目標金額の達成には、まだ皆様のお力添えが必要です。今回のクラウドファンディングは、単に一枚の絵を修復するためのものではありません。世界初公開となる《ブロムホフ家族図》を修復し、日本へ里帰りさせるとともに、川原慶賀という画家の歴史的評価を見直し、新たな美術史を切り拓く挑戦でもあります。これまで川原慶賀は、「出島絵師」「シーボルトの絵師」として語られることが少なくありませんでした。しかし、ブロムホフ・コレクションの研究を進めるなかで、私は慶賀が単なる注文絵師ではなく、日本文化を世界へ伝えた国際的な画家であったことが、次第に見えてきました。もし、この展覧会、そしてクラウドファンディングを契機に、川原慶賀の美術史上の位置づけが、「長崎派の代表画家」という評価から一歩進み、十九世紀初頭の日欧文化交流を担った国際的画家として再評価され、さらには日本美術史に新たな一頁を刻むことになることを願っています。皆様からいただくご支援は、作品の修復だけではありません。川原慶賀という画家の新しい美術史を築く研究を支え、その歴史を未来へ伝える力になります。ぜひ、この歴史的な挑戦にご参加ください。川原慶賀再評価の一員として、この新たな挑戦にご参加いただければ幸いです。なお、ご支援は【お一人で何度でも】していただくことができます。また、「CAMPFIREの利用方法がわからない」「サイトにうまく入れない」というお声もいただいております。そのような場合は、どうぞお気軽に私までご連絡ください。メッセンジャー、またはメールにて、ご案内・お手伝いさせていただきます。E-mail:[ kochuan@me.com ]一人でも多くの皆様と、この歴史的なプロジェクトを成功させたいと願っております。引き続き、ご支援、ご協力、そして情報の拡散を、どうぞよろしくお願い申し上げます。【開催概要】展覧会タイトル:OTEMAE~ブロムホフ 茶道を愛した異邦人~会期:2026年11月13日(金)~2027年2月21日(日) (97日間)※2027年1月12日(火)~1月15日(金)はハウステンボス休園に伴い休館会場:ハウステンボス美術館(パレス ハウステンボス内)時間:10時~18時(最終入館は30分前)※ハウステンボスの営業時間やイベント開催により変動あり主催:ハウステンボス株式会社、日本経済新聞社特別協賛:ヤマト運輸株式会社協賛:FWD生命保険株式会社、西日本新聞社、株式会社文明堂総本店、株式会社ジャパネットホールディングス、コカ・コーラボトラーズジャパン株式会社、日本航空株式会社後援:オランダ王国大使館、長崎県、長崎県教育委員会、佐賀県、佐賀県教育委員会、佐世保市、佐世保市教育委員会、遠州茶道宗家、(公財)小堀遠州顕彰会、遠州流茶道連盟九州地区企画協力:茶の文化フォーラム株式会社、株式会社GSTYLE特別協力:オランダ世界文化博物館詳細は https://www.huistenbosch.co.jp/aboutus/company/pdf/260728_pr20.pdf


19世紀初頭のオランダの喫茶文化 ブロムホフが日本へ赴任した19世紀初頭のオランダでは、茶はすでに単なる嗜好品ではなく、生活文化の一部として深く定着していました。その実態をオランダ民俗学者J.J.フォスカイル(J.J. Voskuil)の『オランダにおけるコーヒーと茶の普及(De verspreiding van koffie en thee in Nederland)』で語られています フォスカイルは、17世紀から20世紀にかけての茶とコーヒーの普及を、遺産目録、食生活の記録、地方史料、生活誌など多様な史料をもとに分析し、その普及を四つの段階に整理しています。 第一段階は17世紀。この時期、茶は「茶会(theevisite)」という社交文化の中で広まり、人々が集い語り合う「親しさ(*gezelligheid*)」を象徴する飲み物となった。 第二段階は18世紀。この社交文化は家庭へと取り込まれ、茶は家族が共に過ごす時間を演出する「家庭の親密さ(huiselijke intimiteit)」の文化へと発展しました。一方、コーヒーはより早く庶民へ浸透し、「民衆の飲み物」として全国に広まっていきます。 第三段階は、食生活そのものが変化です。朝食のビールはコーヒーへ置き換えられ、やがてコーヒーは朝食の定番となります。しかしフリースラントなど一部の地域では、古くからの茶会文化の影響により、朝食でも茶が飲まれていました。 第四段階では、茶は大衆化した後もなお「社会的威信(status)」を保持し続けたため、19世紀になると、茶は朝食や午後の喫茶へさらに広がり、地域によってはコーヒーに代わる飲み物として受け入れられていきます。フォスカイルは、茶が朝食へ広まった最大の理由を、その高い社会的威信・ステイタスに求めています。 彼によれば、茶は単なる飲料ではなく、社交や家庭生活、教養を象徴する文化として受け止められていました。フォスカイルが繰り返し強調するのは、茶が大衆化した後もなお「社会的威信(status)」を保持し続けたという点です。このことは、日本の茶道と重なる部分があります。日本の茶道もまた、一碗の茶を飲む行為そのものではなく、道具、礼法、もてなしを通して、精神性や教養、美意識を表現する文化として発展してきました。もちろん、オランダの茶会と日本の茶道は起源も目的も異なります。しかし、茶に社会的価値や文化的威信を見いだしていたという点では、両者には共通する側面が認められます。 ブロムホフが長崎へ赴任した1817年は、まさにフォスカイルがいう第三段階から第四段階への移行期にあたります。つまりブロムホフは、茶を単なる飲料ではなく、社交、家庭生活、教養、さらには社会的威信を象徴する文化として受け止める社会の中で育った人物でした。そのような文化的背景に育ったブロムホフが、日本で出会った茶の湯に深い関心を抱いたのは、決して偶然ではなかったのでしょう。彼はそれを単なる異国の喫茶法ではなく、一つの高度な生活文化として受け止めたと考えられます。 さらに注目すべきは、ブロムホフが持ち帰ったのが、茶碗、茶釜、茶入、水指、茶杓、炭、茶、さらには真台子までを含む点前を構成する茶道具一式であったことです。そこからは、彼の関心が工芸品の蒐集にとどまらず、「茶の湯」という総合的な文化そのものに向けられていたことがうかがえます。彼がヨーロッパへ伝えようとしたのは、個々の美術品ではなく、茶の湯の全体像だったのでしょう。※写真はニコラース・アールトマン(Nicolaes Aartman)作「《室内で茶を飲む人々》(Interieur met theedrinkend gezelschap)」:1723年~1760年


【ブロムホフが育ったオランダの喫茶文化】その1『De theezieke juffers(ティーにいかれた婦人たち)』 ブロムホフが茶道具を持ち帰った十九世紀初頭、オランダでは茶はどのように飲まれ、どのような文化として受け入れられていたのでしょうか。 私が最初にオランダの喫茶文化を学んだのは、角山栄氏の名著『茶の世界史』でした。同書では、1701年にアムステルダムで初演された喜劇『De theezieke juffers(ティーにいかれた婦人たち)』が、「茶に熱中したオランダ女性を風刺した作品」として紹介されています。 1701年の初版本を通読したところ、この作品は角山氏が紹介された以上に、豊かな内容を持つ社会喜劇であることがわかりました。 物語は、主人公レオノールが、恋人ヤーコプがいながら両親によって裕福な老人ヨーストとの結婚を決められてしまうところから始まります。そこでヤーコプは召使ウェールハーンとともに、「東インドから帰国した親族」に変装して家へ入り込みます。 二人は東インドから大量の茶を持ち帰った人物として迎えられ、家族や近所の婦人たちは、その珍しい茶や中国磁器に夢中になります。その隙にヤーコプはレオノールとの駆け落ちを図りますが計画は発覚します。しかし、彼の誠実な愛情と叔父の遺産相続が明らかになると、父親は二人の結婚を認め、最後は二組の恋人が結ばれ、「さあ、もう一杯お茶を飲もう」という言葉で幕を閉じます。 この作品には、恋愛結婚と親が決める結婚、東インド会社がもたらした新しい消費文化、女性たちの社交空間、茶・磁器・菓子を楽しむ都市生活、そして東インドへの憧れなど、1700年前後のアムステルダム市民社会そのものが生き生きと描かれています。 つまり、この作品は「茶」を主役としながら、都市文化全体を描いた社会喜劇だったのです。 また、角山氏は、オランダ人が「茶を受け皿に移して飲む」「音を立てて飲む」といった飲み方を紹介し、それを「茶道の真似事」と指摘されています。しかし、私が確認した1701年初版本には、そのような具体的な作法の描写は見当たりませんでした。 劇中で描かれているのは、「茶葉を持ち寄る」「茶の香りを嗅ぐ」「茶の色を論評する」「茶葉の銘柄を比べる」「客には必ず茶を勧める」といった、茶会での会話や振る舞いです。 全文を通読して最も印象的だったのは、1701年という極めて早い時期に、すでに茶がオランダ都市文化の中心的存在として描かれていることでした。 茶は単なる飲み物ではありません。社交を生み、流行を生み、異国への憧れをかき立てる文化の象徴として、人々の暮らしに深く根付いていたのです。 この劇が描く社会は、ブロムホフが日本へ赴任する約百年前のオランダです。この作品は、ブロムホフ来日の一世紀も前から、オランダ人が茶を「社交」と「文化」の象徴として受け入れていたことを具体的に示しています。 そのような成熟した喫茶文化の中で育ったブロムホフが、日本で茶の湯や茶道具に深い関心を抱いたことは、決して偶然ではなかったでしょう。 そして、私は、この成熟した喫茶文化という土壌があったからこそ、ブロムホフはたんに茶道具を蒐集したのではなく、日本の茶の湯そのものに魅せられ、その精神や作法までもオランダへ伝えようとしたのではないかと考えています。 


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