日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。 現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

1,180,500

16%

目標金額は7,000,000円

支援者数

35

募集終了まで残り

50

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

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目標金額7,000,000

支援者数35

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。 現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

1817年、日本へ妻ティティアと幼い息子ヨハネスを伴ってやって来たヤン・コック・ブロムホフ。しかし幕府は西洋人女性と子どもの滞在を認めず、ティティアたちはわずか数か月で帰国を余儀なくされます。 その後、ティティアは1821年、35歳の若さで夫と再会することなく亡くなりました。 ブロムホフが日本から帰国したのは1824年。愛する妻を失い、幼いヨハネスと再び暮らし始めた彼は、1827年にマリア・アドリアナ・ファン・ブレーゲル(愛称ミミ)と再婚します。 ミミは名門ファン・ブレーゲル家の出身でしたが、二人の間に子どもは生まれませんでした。彼女はヨハネスの継母となり、母を失った少年を温かく育てます。 夫妻はアメルスフォールト郊外のビルクホーフェンという広大な農園で暮らしました。ブロムホフは日本から帰国した後も日本を忘れることはありませんでした。 農園には「ミヤコ(Miaco)」という名の農場を造り、日本庭園を設け、日本の友人から送られてきた種子を育てます。日本で集めた品々に囲まれながら、まるで日本とともに生きるような暮らしを送っていたのです。 その生活を陰で支え続けたのがミミでした。 1853年にブロムホフが亡くなると、彼女はその遺した膨大な日本関係資料や書簡を整理・保存します。そのおかげで、ブロムホフの文書は1907年にオランダ国立公文書館へ収蔵され、現在でも私たちは彼の手紙や記録を読むことができます。 また、日本から持ち帰ったコレクションも一族によって大切に守られ、今日ではライデンのオランダ国立世界文化博物館をはじめ、各地の博物館に伝えられています。 もしミミがそれらを守り伝えなかったなら、私たちは今日、ブロムホフの足跡をこれほど詳しく知ることはできなかったでしょう。 ブロムホフを語るとき、多くの人は最初の妻ティティアに注目します。しかし、帰国後約30年にわたって彼を支え、日本との思い出を未来へ伝えたもう一人の妻・ミミの存在も、決して忘れてはならないのです。※画像はミミと再婚した頃のブロムホフの肖像画、そして晩年のミミの写真


ヨハネス・コック・ブロムホフは、1816年3月6日にオランダ・ハーグで生まれました。父は長崎出島オランダ商館長ヤン・コック・ブロムホフ、母はティティア・ベルフスマです。翌1817年、生後わずか1歳半ほどで両親とともに日本へ渡りました。 しかし、当時の日本は鎖国下にあり、西洋人女性や子どもの滞在は幕府によって認められていませんでした。父ブロムホフは何とか妻子の滞在を願い出ますが、その願いは受け入れられず、ヨハネスは母ティティア、乳母ペトロネラ・ムンスらとともに、わずか数か月で日本を去ることになります。 滞在期間は短かったものの、金髪で青い目をした幼いヨハネスの姿は、日本人に大きな衝撃を与えました。当時の日本人は西洋の子どもを見る機会がほとんどなく、その愛らしい姿は長崎の絵師たちによって盛んに描かれました。川原慶賀や石崎融思(祐旨)らによる「ブロムホフ家族図」には、母ティティアや乳母ペトロネラとともに抱かれたヨハネスの姿が描かれ、日本における異国文化受容の象徴的な存在となりました。現在確認されているブロムホフ家族図の多くに、幼いヨハネスが描かれていることからも、その存在がいかに印象深かったかがうかがえます。 日本を去った後、一家は長い航海を経て帰国します。しかし、その過酷な旅は母ティティアの心身に大きな負担を与えました。ティティアは1821年4月2日、35歳という若さでハーグにおいて亡くなります。ヨハネスはわずか5歳で母を失ったことになります。 一方、父ブロムホフはその後も出島商館長として1824年まで日本に留まりました。つまり、ヨハネスは幼少期の大半を父と離れて過ごしたことになります。1824年に父が帰国すると再び親子は生活を共にし、その後ブロムホフは1827年に再婚します。 成人したヨハネスは法律を学び、「Mr. Johannes Cock Blomhoff(法学士ヨハネス・コック・ブロムホフ)」として知られるようになりました。1852年にはサラ・マリア・ファン・デ・ポルと結婚し、父ヤン・コック・ブロムホフが1853年に没すると、その遺品の中でも最も重要な二枚の「ブロムホフ家族図」を受け継ぎます。 その一枚は、現在オランダ国立世界文化博物館(Wereldmuseum)が所蔵する五人構成の家族図であり、もう一枚は現在アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum)が所蔵する六人構成の家族図です。ヨハネスはこの二つの作品を大切に守り続けました。 1900年1月29日、ヨハネスは83歳でその生涯を閉じます。六人構成の家族図は未亡人サラ・マリア・ファン・デ・ポルに受け継がれ、その後ファン・デ・ポル家に伝来しました。そして最終的にはファン・デ・ポル=ウォルテルス=クイナ財団を経て、2008年にアムステルダム国立美術館の所蔵となっています。一方、五人構成の家族図もブロムホフ家に大切に伝えられ、現在はオランダ国立世界文化博物館に所蔵されています。 彼自身が日本について語った記録はほとんど残されていません。しかし、生後わずか一年半で体験した日本での出来事は、多くの日本絵画や版画の中に今なお生き続けています。幼いヨハネス自身には日本での記憶は残っていなかったでしょう。それでも、日本人にとって彼は「初めて目にした西洋の子ども」の一人であり、その姿は約二百年を経た現在でも、「ブロムホフ家族図」を通して江戸時代の日蘭交流の情景を私たちに静かに語りかけています。 さらに、今日私たちがこれらの作品を目にすることができるのは、ヨハネスとその家族が二枚の家族図を代々大切に守り伝えてきたからにほかなりません。もしヨハネスが父の遺品として受け継ぎ、後世へ伝えることがなければ、「ブロムホフ家族図」は現代まで残ることはなかったかもしれません。その意味でヨハネスは、自らが描かれた作品の最初の継承者であると同時に、日本とオランダを結ぶ貴重な文化遺産を未来へ伝えた重要な継承者でもあったのです。  


「ブロムホフ家族図」と一口に言っても、実は一枚だけではありません。現在確認されているだけでも複数の作品が存在し、大きく分けると、六人構成、五人構成、四人構成の系統があります。 私が最も重要だと考えているのは、今回クラウドファンディングで修復を目指しているオランダ国立世界文化博物館所蔵の家族図です。 この作品は約200年にわたり、ブロムホフ家の子孫によって大切に受け継がれ、昨年になって初めてオランダ国立世界文化博物館へ寄贈されました。 一方、アムステルダム国立美術館所蔵の家族図(写真)は、ブロムホフの死後に息子ヨハネスが相続し、ヨハネスの死後はファン・デ・ポル家へ受け継がれ、その後、財団を経て、2008年にアムステルダム国立美術館が購入して収蔵されたことが分かっています。つまり、この二つの作品は、約200年という歳月の中で、まったく異なる道を歩んできたのです。アムステルダム国立美術館や大英博物館所蔵の作品は、ブロムホフ、ティティア、ヨハネス、乳母ペトロネラ、女性召使マラティ、そして名の分からないジャワ人少年(大英博物館の作品では少年と思われる人物)の六人構成になっています。 私は、この六人構成にはブロムホフ自身の意図があったのではないかと考えています。単に日本人に見せるための絵ではなく、母国オランダへ持ち帰ることを意識した肖像画だったのではないでしょうか。 18〜19世紀のヨーロッパでは、東インドで成功した人物が、異国の召使や奴隷身分の人物を従えて描かれることは、海外での成功や社会的地位を象徴する表現でもありました。 そう考えると、六人目の少年は、ブロムホフの権威や東インドでの成功を視覚的に示すために描かれた存在だった可能性があります。もしそうであるならば、ブロムホフは、家族の記憶を残すための家族図と、東インドで成功した商館長としての姿を示す家族図という、性格の異なる二つの作品を制作させたことになります。 もちろん、これは現時点では一つの仮説です。 しかし、私がさらに興味深く感じるのは、その後の作品の歩みです。約200年もの間、ブロムホフ家が子孫へ大切に伝え続け、決して手放すことなく守り抜いてきたのは、今回修復を目指しているオランダ国立世界文化博物館所蔵の家族図でした。もしブロムホフ自身、あるいはその子孫が、「わが家を代表する一枚」と考えていた作品があったとすれば、それがこの作品だったと考えるのは、ごく自然なことではないでしょうか。 だからこそ、この作品を修復し、約200年ぶりに日本へ里帰りさせることには、単なる修復事業を超えた大きな意味があると私は考えています。


【ペトロネラ・ムンス ― ティティアとともに日本を訪れたもう一人の西洋女性】ティティア・ベルフスマは「日本を訪れた最初の西洋女性」としてよく知られています。しかし、実は1817年、ティティアとともに出島へ上陸した西洋女性がもう一人いました。それが、ブロムホフ夫妻の長男ヨハネスの乳母であったペトロネラ・ムンスです。 私はこれまでペトロネラについて詳しく調べる機会がありませんでしたが、今回、オランダ王立芸術科学アカデミー(KNAW)傘下の Huygens ING が公開している『Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland(オランダ女性人物辞典)』を読むことで、その波瀾万丈の人生を知ることができました。 ペトロネラは1794年、ハーグで庭師の家に十人兄弟姉妹の五番目として生まれました。22歳のときに婚外子となる長男ピーテルを出産します。この出産によって彼女は授乳中となり、ヨハネスの乳母(wet nurse)としてブロムホフ家に雇われました。乳母とは、主人の子どもを自分の母乳で育てる女性です。 1817年、ブロムホフが長崎出島のオランダ商館長に任命されると、ティティア、幼いヨハネス、そしてペトロネラは「アガタ号」に乗って日本へ向かいます。その際、自分の幼い息子ピーテルはオランダに残し、おそらく祖父母に預けたと考えられています。しかし、西洋女性の滞在は幕府に認められず、出島到着からわずか五週間余りで退去を命じられます。一家は1817年12月、日本を離れることになりました。 帰国の航海中、ペトロネラは第二子となる娘アントイネッタ・ヤコバを出産します。この娘の父親については現在も判明していません。オランダの研究者の中にはブロムホフ説を唱える人もいますが、アガタ号の航海士であった可能性も指摘されており、決定的な証拠は見つかっていません。 帰国後、ペトロネラは故郷ハーグへ戻り、1823年には第三子カタリナ・ウィルヘルミナを出産します。この子も婚外子でした。その後1835年、鍛冶職人アドリアヌス・ファン・ウィルヘンブルフと結婚しますが、結婚直前に二人の間に生まれた第四子は出生後まもなく亡くなっています。結婚の際、夫はカタリナを正式に認知しました。 人物辞典には、夫婦は「無資産(onvermogend)」、つまり財産を持たない状態で結婚したことも記されています。裕福とはいえない生活の中で、ペトロネラは四人の子どもを産み育て、1842年、48歳でその生涯を閉じました。 興味深いのは、日本人画家たちがペトロネラを繰り返し描いていることです。作品の中では、彼女は必ず青い縁取りの帽子をかぶって描かれ、ティティアと区別されています。また、ブロムホフとの親密な関係を想像させる図像も存在すると、この人物辞典は紹介しています。ティティアばかりに注目が集まりがちですが、ペトロネラもまた、日本を訪れた最初の西洋女性の一人であり、日本人画家たちの関心を集めた人物でした。 日本への渡航、鎖国下での退去命令、帰国航路での出産、そして四人の子どもを育てながら生きたその人生は、決してティティアに劣ることのない波瀾万丈の生涯だったと言えるでしょう。 ペトロネラにも光を当てることで、1817年の出島で生きた人々の物語は、さらに豊かで人間味あふれるものとして見えてくるように思います。


ティティアには三つの「はじめて」があります。 一つは、日本を訪れた最初の西洋女性二つ目は、ピアノを日本へ持ち込み、演奏した最初期の西洋女性そして三つ目は、抹茶をいただいた最初の西洋女性 日本で現存する最古のピアノは、シーボルトが持ち込んだものとされています。しかし、シーボルトよりも前に、日本へピアノを持ち込んだ女性がいました。それがティティア・ベルフスマです。 下関の大年寄で阿蘭陀宿をつとめた伊藤家のコレクションの中に、スクエア・ピアノを弾く女性を描いた細密な白描画(写真)が現存しています。そこに描かれているのが、ピアノを弾くティティアと思われる女性です。 ティティアの来日は1817年。シーボルトの来日は1823年です。 つまり、ティティアはシーボルトよりも先に、西洋の音を日本へ運んできた女性であった可能性があります。 さらに興味深いのは、彼女の書簡に見られる一節です。 彼女の書簡より—— 年配の紳士が正装で現れ、藺草の敷物に跪き、緑の飲み物が入った小さな黒い椀を差し出した。三度回し、頭を下げ、両手で。通訳が言った。「これは敬意です。ゆっくり受け取ってください。」その所作は、音のない舞のようだった。静けさは深く、ペトロネラさえ息を止めていた。苦いが、温かい。彼は語らなかったが、私は招かれていると感じた。耳ではなく、心で。—— この「緑の飲み物」は何だったのでしょうか。これは抹茶であった可能性が高いと考えています。もちろん、書簡に「抹茶」と明記されているわけではありません。しかし、小さな黒い椀、緑の飲み物、三度回して両手で受ける所作、そして静寂の中でいただく様子。そこには、茶道の一服を受けた情景が重なります。日本を訪れた最初の西洋女性。日本にピアノをもたらした女性抹茶をいただいた最初の西洋女性。 ティティア・ベルフスマという存在は、日蘭交流史の中で、まだまだ語られるべき余白を持っているように思います。


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