注目のリターン
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【5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまへ】
追加特典のお知らせ
このたび、5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまへの感謝の気持ちを込めて、特別な追加特典をご用意いたしました。
オランダ国立世界文化博物館では、日本コレクションのうち展示されているのはわずか約5〜6%。残り約95%は一般公開されることなく、収蔵庫で大切に保管されています。
そこで今回、5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまを対象に、**オランダ国立世界文化博物館「ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー(バックヤード見学)」**へご招待いたします。
通常は立ち入ることのできない収蔵庫や保存・修復エリアを学芸員の案内で見学し、展示室では決して見ることのできない世界屈指の日本コレクションや、文化財を未来へ受け継ぐための保存・修復の現場をご覧いただける貴重な機会です。
本ツアーは、すでに5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまも対象となります。これからご支援くださる方も、同様にご参加いただけます。
ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー概要
- ・実施期間:2027年3月1日〜2028年2月28日
- ・会場:オランダ国立世界文化博物館(ライデン)
- ・現地までの交通費・宿泊費は各自ご負担ください。
- ・見学日時などの詳細は、ご支援者様へメールにてご相談させていただきます。
- 【ご注意】
本リターンはオランダで実施するプログラムです。海外でのリターン履行となるため、国内での実施に比べ、現地の事情や博物館の運営状況、社会情勢、天災、感染症、その他やむを得ない事情により、実施日程や内容が変更となる場合、または延期・中止となる場合があります。
ご支援にあたっては、海外で実施するリターンであることをご理解いただき、このような国内よりも高い不確実性やリスクが伴う可能性があることを、あらかじめご了承くださいますようお願いいたします。
なお、実施内容に変更が生じる場合は、ご支援者の皆様へ速やかにご案内いたします。
皆さまからの温かいご支援への感謝を込めて実現した、今回だけの特別な追加特典です。ぜひこの機会に、普段は決して見ることのできない「博物館の裏側」を体験していただければ幸いです。
はじめに〜このプロジェクトについて〜
はじめまして。私は茶道家として活動し、茶文化の研究・普及活動を行っております、茶の文化フォーラム株式会社の堀内議司男(茶名・壷中庵 宗長)と申します。
本プロジェクトは、江戸時代後期に長崎・出島オランダ商館長を務めたヤン・コック・ブロムホフゆかりの未公開作品――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」を、日本で修復し、本邦初公開へつなげるための文化保存プロジェクトです。
2026年11月13日より、長崎・ハウステンボス美術館にて、
「 OTEMAE ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」展(主催 ハウステンボス株式会社・日本経済新聞社)
が開催されます。
パレス ハウステンボス
ハウステンボス美術館
本展では、ブロムホフが江戸時代に蒐集しヨーロッパへ持ち帰った茶道具約120点を、約200年ぶりに日本へ里帰りさせ、本邦初公開いたします。
そして今回、この展覧会にあわせて、長年公開されることのなかった「ブロムホフ家族図」を修復し、日本で初めて公開したいと考えています。
ブロムホフとは何者だったのか
2009年にライデン国立博物館(現オランダ国立世界文化博物館)のマティー・フォラー先生の講義を拝聴して以来、私はヤン・コック・ブロムホフ(1779~1853)という人物に深い関心を抱いてまいりました。
彼は、江戸時代の出島オランダ商館長であり、日本初の英語辞書を編纂した人物としても知られています。
オランダ・アムステルダムで生まれ、フランス革命戦争やナポレオン戦争を経て、1805年にバタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)でオランダ東インド会社に勤務しました。
1809年に出島の荷倉役(倉庫番)として来日し、商館長ヘンドリック・ドゥーフの推薦で長崎の通詞たちに英語を教え、英語辞書の編纂を始めました。1813年、イギリス軍の捕虜となり、一時オランダへ帰国しましたが、1817年に商館長として再び来日します。
オランダ国立世界文化博物館鎖国下、日本とヨーロッパを結ぶ唯一の窓口であった出島。当時、ヨーロッパではナポレオン戦争の影響によりオランダがフランスに併合されましたが、その間も出島には唯一オランダ国旗が翻り続け、日本と西洋を結ぶ窓口としての役割を果たしていました。
オランダ再独立後、出島オランダ商館長として赴任したブロムホフは、途絶えかけていた日蘭貿易の回復に尽力するとともに、日本の文化や動植物の調査・研究を積極的に支援しました。
また、後に日本研究の先駆者として名を残す フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの活動の基盤を築いたのもブロムホフでした。
江戸参府では徳川家斉に謁見し、多くの蘭学者たちと交流。その最前線で日本文化に深い関心を寄せたブロムホフは、茶道具、絵画、工芸品、人物模型、出島模型など、多岐にわたる日本文化資料を蒐集しました。
帰国後、それらをオランダ国王へ売却したことで、ヨーロッパ最初の本格的日本コレクションが成立します。19世紀初頭の日本文化を今日に伝える貴重な記録であり、日本とヨーロッパの文化交流の歴史を物語る遺産となっています。
特に興味深いのは、彼が収集した茶道具です。それは単なる「異国趣味の収集品」ではありませんでした。点前が成立するほど体系的に揃えられており、彼が「茶の湯」という文化そのものを理解しようとしていたことが分かります。
私は長年茶道に携わる中で、ブロムホフは単なる収集家ではなく、ヨーロッパ“最初の茶人”であったのではないかと考えるようになりました。
昨年、オランダで出会った一枚の絵
昨年、展覧会の企画調査のため、オランダ・ライデンのオランダ国立世界文化博物館を訪問しました。そこで出会ったのが、川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。
この作品は長らくブロムホフ家の子孫によって大切に保管されてきました。しかし、その存在は知られていたものの、一般公開されることはありませんでした。
そして昨年、オランダ国立世界文化博物館へ寄贈され、公的コレクションの一部となったのです。
作品寸法は、83 × 158.4 cm。額装を含めると 98.9 × 174.3 cm に及びます。
実際に対面すると、その圧倒的な存在感に言葉を失いました。人物の表情、衣装の描写、細部に宿る空気感――。そこには、単なる異国風俗画ではない、「特別な時間」が描かれていました。
オランダ国立世界博物館蔵・川原慶賀筆 ブロムホフ家族図
川原慶賀という絵師
川原慶賀筆「出島図」
オランダ国立世界文化博物館 川原慶賀(1786年~1860年頃)は、江戸時代後期の長崎で活躍した絵師です。出島を通じて来日したオランダ人や外国人との交流が盛んであった長崎にあって、彼は西洋人から高く評価され、とりわけシーボルトの依頼を受けて数多くの作品を制作したことで知られています。
慶賀は、日本の風俗、職人の仕事、祭礼、街並み、動植物、そして人々の暮らしを、驚くほど緻密な観察眼によって描き残しました。その作品は単なる絵画ではなく、写真の存在しなかった時代の日本を伝える貴重な視覚資料でもあります。
シーボルトは、日本の自然や文化をヨーロッパへ紹介するために膨大な資料を収集しましたが、その多くを支えたのが慶賀の筆でした。慶賀が描いた植物図譜や風俗画は、後にヨーロッパで刊行されたシーボルトの著作にも活用され、日本研究の発展に大きく貢献しています。
そして、《ブロムホフ家族図》は、慶賀の作品の中でも特に重要な一枚です。
この作品には、出島オランダ商館長ヤン・コック・ブロムホフ、その妻ティティア、息子ヨハネス、乳母のペトロネラ、そしてインドネシア系の召使が描かれています。鎖国下の日本において、西洋人一家が揃って描かれた例は極めて稀であり、当時の国際交流の実像を今に伝える貴重な記録となっています。
また、この作品は単なる家族肖像画ではありません。西洋の肖像画的な構成を取り入れながらも、日本人絵師ならではの細やかな観察によって、衣服の質感や人物の表情、所持品に至るまで克明に描写されています。そこには異国の人々への好奇心と敬意、そして長崎という国際都市ならではの視点を見ることができます。
《ブロムホフ家族図》は、美術作品であると同時に、出島を舞台とした日蘭交流の歴史を映し出す「時代の証言者」なのです。
なぜ、同じ構図の作品が複数存在するのか
ブロムホフの商館長としての来日は、当時の日本人に大きな衝撃を与えました。ブロムホフが家族を伴っていたからです。なかでも、出島に現れた西洋女性の姿は極めて珍しく、人々の強い関心を集めました。
そのため、長崎奉行所は絵師に命じて一家の姿を描かせ、その画像はさまざまな形で模写・再構成されながら広く流布していきます。肉筆画として描き継がれただけでなく、長崎版画として制作され、日本各地へと伝えられました。
現在でも数多くの異版や類似作品が残されており、その中には本来の人物像から離れ、「西洋婦人図」や「阿蘭陀夫婦図」として一般化したものも少なくありません。また、実際にはブロムホフ夫妻とは無関係でありながら、その名を冠して伝えられた作品も見られます。
それほどまでに、ブロムホフ一家の来航、とりわけ西洋女性の存在は、鎖国下の日本人の想像力をかき立てる出来事であったのです。[参考文献:東京大学所蔵の二つの「ブロムホフ家族図」松井洋子・高島晶彦著]
慶賀筆とされる同構図の家族図は世界に数点確認されていますが、本作品はその中でも最大の画面を有し、筆致も最も精緻であることから、現存作品群の中で最初に制作された可能性が高いと考えられます。
オランダ国立世界文化博物館の主任学芸員ダーン・コック氏は、興味深い見解を示しています。江戸時代、慶賀が描いた作品は長崎奉行所の検閲を受ける必要がありました。
一度、ある形式――この場合「背景を持たず、ソファに座るブロムホフ家族」という構図――について許可が下りると、その後は改めて検閲を受けることなく、同構図を繰り返し制作できたのではないかというのです。
これは長崎湾や出島風景を描いた慶賀作品にも共通して見られる特徴です。つまり本作品は、単なる肖像画ではなく、鎖国時代における文化交流と検閲制度の痕跡をも伝える歴史資料でもあるのです。
この絵が描いた「最後の時間」
この家族図は、ブロムホフが家族とともに長崎・出島で過ごした、かけがえのない時間を描いた肖像画です。当時、日本は鎖国体制下にあり、外国人の滞在には厳しい制限がありました。特に女性や子どもの渡航は許されていませんでした。しかしブロムホフは、その禁を越え、妻ティティアと幼い子どもを伴って来日します。けれど、その滞在は長く続きませんでした。家族はわずか三ヶ月ほどで日本を離れることになります。
そして――
それは、家族にとって永遠の別れでもありました。
この絵は、その別れを前にした、家族がともに過ごした最後の時間を描いた肖像です。他の同構図作品と⽐べても、⼈物の表情にはどこか厳しさと切迫感がにじみ出ており、当時の彼らが置かれていた状況が静かに迫ってきます。
異国の地で暮らす不安
家族が引き離される予感
その時間が、この一枚には刻まれているのです。

ティティア ― 日本人を魅了した最初の西洋女性
わずかな滞在であったにも関わらず、妻ティティアは、西洋女性として初めて来日した存在として長崎の人々に強い印象を残しました。その姿は日本三大土人形の一つでもある地元長崎の「古賀人形」にも表され、「西洋婦人」として現在に至るまで記憶され続けています。
また、ティティアは、日本を訪れた最初の西洋女性として知られるだけではありません。彼女はスクエア・ピアノを出島へ持ち込み、日本で初めて西洋ピアノを演奏した人物としても知られています。
さらに、ティティアが残した書簡には、日本人から抹茶でもてなしを受けた様子が記されています。現存する史料から確認できる限りでは、ティティアは抹茶を飲んだ最初の西洋女性の一人と考えられます。
ブロムホフが茶道具を蒐集し、日本文化への理解を深めていた一方で、ティティア自身もまた日本の風俗や文化に強い関心を寄せていました。出島で供された一碗の抹茶は、単なる飲み物ではなく、日本人のもてなしの心に触れる体験だったことでしょう。
日本で初めてピアノを奏でた西洋女性。そして、日本人から抹茶でもてなしを受けた最初の西洋女性。その存在は、ブロムホフ一家が日蘭交流の歴史において特別な位置を占めていることを物語っています。
なぜ今修復は必要なのか
企画調査のためライデンを訪れた際、私はダーンさんから、この《ブロムホフ家族図》の保存状態について詳しくお話を伺いました。
作品は約200年という長い歳月を経ており、画面や額装には経年による劣化が見られます。しかし現在、オランダ国立世界文化博物館には、この作品を本格的に修復するための十分な体制が整っていないとのことでした。
その一方で、日本には江戸時代の絵画や表装に関する高度な修復技術が継承されており、本作品についても日本で修復を行うことが現実的かつ最善の選択肢であることを知りました。
私は長年にわたりブロムホフとそのコレクションを追い続けてきましたが、この貴重な作品を未来へ伝えるためには、今まさに修復が必要な時期に来ていることを強く実感しました。
「この展覧会という歴史的な機会に、この作品を修復し、日本で公開したい」と。
この作品は単なる西洋人肖像画ではありません。江戸時代、日本とオランダが唯一交流を続けていた時代の記憶であり、異国で生きた家族の記録であり、そして日本人絵師・川原慶賀が見つめた“世界”そのものなのです。
修復を担う人々
本作品の修復は、京都の修復工房「宇佐美修徳堂」に依頼いたします。
修復を担当するのは、長年文化財修復に携わってきた宇佐美直治さん、そして次世代を担う宇佐美直希さんです。
文化財修復は、単に傷みを直す作業ではありません。作品が持つ時間や歴史を尊重しながら、未来へ受け渡していく極めて繊細な仕事です。
今回の修復では、作品本来の姿を損なうことなく、完全公開と次世代への継承を可能にする修復を目指します。これは一枚の絵画を守るだけでなく、日本の修復技術そのものを未来へ繋ぐ取り組みでもあります。
オランダ国立世界文化博物館
学芸員 ダーン・コックさんからのメッセージ
【ブロムホフ家族図の現在の状況】
修復スケジュール(予定)
本プロジェクトでは、作品の安全性を最優先に、オランダと日本の関係者が連携しながら修復・公開準備を進めてまいります。

200年の時を経て蘇る『ブロムホフ家族図』
修復を経て、いよいよ日本の皆様の前に姿を現します
本プロジェクトでご支援いただきたい内容
本クラウドファンディングでは、「ブロムホフ家族図」の修復および輸送費用へのご支援をお願いしております。
具体的には、
・オランダ―日本間の往復輸送費
・日本国内輸送費
・修復費
・保存・展示準備費
・上記プロジェクトに関わる諸費用
などに充てさせていただきます。
文化を未来へつなぐために
このプロジェクトは、一枚の絵画修復にとどまるものではありません。
江戸時代、日本とヨーロッパが交わった記憶
異国で生きた家族の時間
日本人絵師が見つめた世界
それらを、未来へ受け渡すための試みです。もしこの作品が修復されなければ、この絵は静かに時の中へ埋もれていくかもしれません。だからこそ今、この作品をよみがえらせたい。
200年の時を超えて受け継がれてきたこの作品を、次の時代へ手渡したい。
どうか皆さまのお力をお貸しください。
心より、ご支援をお願い申し上げます。
茶道家 堀内議司男(壷中庵・宗長)
最新の活動報告
もっと見る【本日、クラウドファンディング最終日を迎えました】
2026/08/31 08:20川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクトのクラウドファンディングは、本日をもって終了いたします。これまでご支援くださった皆さま、投稿をシェア・リポストしてくださった皆さま、そして折々に温かい言葉を寄せ、応援してくださった皆さまに、心より御礼申し上げます。皆さまお一人おひとりのお力添えがあって、ここまで歩んでくることができました。本当にありがとうございました。そして最終日の今日、もう一つご紹介したいものがあります。先日、オランダのWereldmuseum(世界文化博物館)から、皆さまへの感謝の気持ちとして新たな返礼品をご提供いただくことをお知らせいたしました。その際にはご紹介できなかった「出島ショール」の写真が、昨日、博物館のダーン・コック博士から届きました。クラウドファンディング終了まで残された時間がわずかであるにもかかわらず、わざわざ博物館で撮影して送ってくださったものです。コック博士からは、博物館を代表して、今回の修復のためのクラウドファンディングに取り組んだことへの感謝の言葉もいただきました。 日本で描かれ、およそ200年前にオランダへ渡った一枚の絵を、今度は日本とオランダが力を合わせて修復し、未来へ残していく。このプロジェクトが、そのような文化の架け橋の一つになったことを、とても嬉しく思っています。クラウドファンディングは本日で終了いたします。しかし、「ブロムホフ家族図」修復プロジェクトそのものは、ここで終わるわけではありません。むしろ、ここからが本番です。今後も修復にご支援いただける方がいらっしゃいましたら、大歓迎です。ぜひ私までメールでご連絡ください。そして、修復を終えた「ブロムホフ家族図」が日本へ里帰りした折には、ぜひハウステンボス美術館へ実物をご覧にお越しください。皆さまのお力によって甦った作品を、今度は皆さまと同じ場所で鑑賞できる日を、私自身とても楽しみにしております。これから展覧会の見どころや準備の様子、そして作品がどのように修復されていくのかについても、SNSなどを通じて随時ご報告してまいります。 クラウドファンディングは今日で一区切りです。 けれども、文化財を未来へつなぐ歩みは、これからも続きます。これまでお力を貸してくださったすべての皆さまに、改めまして心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。 もっと見る
【修復プロジェクト 残り3日――最後のお願い】
2026/08/29 07:40川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクトも、今日を含めて残すところ3日となりました。これまでご支援くださった皆さま、投稿をシェア・リポストしてくださった皆さま、そしてさまざまな形で応援してくださった皆さまに、改めまして心より御礼申し上げます。さて、このたび嬉しいお知らせが届きました。オランダ国立世界文化博物館(Wereldmuseum)より、皆さまからの温かいご支援への感謝として、新たな返礼品をご提供いただけることになりました。ご提供いただくのは、・出島ショール(高級モデル) 2点・博物館所蔵の日本版画をもとにデザインした小型ショール 5点・Wereldmuseum オリジナル・コットントートバッグ 20点・Wereldmuseum オリジナル・ノート 10冊・博物館所蔵の日本版画を使用したポストカード 50枚です。いずれもオランダの博物館から、このプロジェクトのために特別にご提供いただく品々です。数に限りがございますので、これまでにご支援いただいた方、そしてこれからご支援くださる方を含め、1万円以上ご支援いただいた皆さまを対象として、ご支援額に応じて、これらの品々を追加の返礼品としてお届けいたします。そして、プロジェクトはいよいよ最後の3日間です。およそ200年前、日本からオランダへ渡った川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」。長い年月を経て傷んだこの作品を修復し、日本へ里帰りさせ、皆さまにご覧いただきたい。そして、この貴重な文化財を次の世代へと手渡していきたい。その思いから始めたプロジェクトです。文化財は、ただそこにあるだけでは残りません。守ろうとする人、伝えようとする人、そしてそれを支えてくださる人がいて、初めて次の時代へ受け継がれていきます。あと3日。目標達成に向けて、最後まで力を尽くしたいと思います。すでにご支援くださった皆さまには、重ねて心より御礼申し上げます。そして、まだご支援を迷われている皆さまには、どうかこの文化財を未来へつなぐ一人になっていただけましたら幸いです。最後のお願いとなります。どうぞ皆さまのお力をお貸しください。何卒よろしくお願い申し上げます。 もっと見る
【展覧会のみどころ ⑫花魁、茶を点てる】
2026/08/27 09:49今回展示される茶の湯を描いた絵の中に、一枚の浮世絵があります。これもシーボルトコレクションの一部です。描いたのは渓斎英泉(1791―1848)。文政から天保期にかけて活躍した浮世絵師です。 彼は武士の家に生まれましたが、二十歳の頃に父と継母を相次いで亡くし、さらに讒言によって職を失うという不遇に見舞われます。その後、浮世絵師・菊川英山のもとで絵を学び、版本の挿絵や錦絵を手がけるようになりました。文政元年(1818)頃には独自の美人画の様式を確立し、文政中期には歌川国貞と並ぶ美人画の第一人者となっています。 英泉の美人画には、独特の妖艶さがあります。切れ長でやや吊り上がった目、通った鼻筋、小さいながらも存在感のある唇。短く太い首に、やや猫背で身体を「く」の字に曲げた姿。単に整った美人を描くというより、どこか生々しく、女性のしたたかな生命力まで感じさせます。 なかでも英泉が好んで描いたのが、吉原に生きる花魁たちでした。吉原は華やかな場所である一方、「苦界」と呼ばれた世界でもあります。英泉の描く花魁を見ると、単に美しい女性を理想化して描こうとしたのではなく、そうした世界を生き抜く女性たちの強さや情念まで描こうとしていたように感じられます。 この浮世絵に描かれているのも、その吉原の花魁です。画面には姿海老屋内 葛城」とあります。 葛城は架空の女性ではありません。『吉原細見』を調べた研究によれば、姿海老屋の葛城は文政元年(1818)秋、前任者から「葛城」の名を襲名し、一人前の遊女として新たに披露されました。これを吉原では「突き出し」といいます。文政10年(1827)春には筆頭となり、それを最後に退楼しています。 つまり、シーボルトが日本に滞在していたのとほぼ同じ時代に、実際に吉原で生きていた花魁なのです。描かれている葛城は左手に黒い茶器を持ち、右手には茶杓を取っています。。画面右上には、箱のようなものがいくつも積み上げられています。よく見ると「新吉原 竹村伊勢」とあります。竹村伊勢は吉原の有名な菓子商です。そして熨斗紙には「葛城」の名が書かれています。これは単なる菓子箱ではなく、新造出しの際などに贔屓筋が吉原の菓子商・竹村伊勢に誂えた、葛城の新造出しを祝う菓子の積物と考えられています。 背後の屏風には秋草が描かれています。葛城が文政元年の秋に突き出されたことを考えると、この季節の表現にも何らかの意味が込められているのかもしれません。 さらに着物の裾と簪には「抱茗荷」の紋が見えます。同じ葛城を描いた英泉の別の作品にもこの抱茗荷が確認されることから、葛城を示す定紋であった可能性が指摘されています。 こうして見ていくと、この一枚は単なる「茶をする美人」の絵ではありません。 豪華な衣裳をまとい、贔屓から積物を贈られ、そして茶の湯を嗜む花魁として葛城が描かれています。当時の高位遊女に求められたものは、美貌だけではありません。さまざまな芸事や教養を身につけていることも、その女性の価値を高める大切な要素でした。その「嗜み」の一つとして、英泉は茶の湯を描いているのです。 もう一つ、画面下部に摺られた、小さな印に注目して下さい。富士山を思わせる山形の下に蔦の葉を配した図柄で、これは江戸の版元・蔦屋重三郎の耕書堂が使用した「富士山形に蔦の葉」の版元印とみられます。「蔦屋重三郎」と聞けば、大河ドラマの主人公となったことから、記憶に新しい方も多いかもしれません。喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出した、江戸を代表する版元です。 ただし、この絵を出版したのは、あの初代蔦屋重三郎ではありません。初代蔦屋重三郎は寛政9年(1797)に亡くなっています。一方、葛城が姿海老屋にいたのは文政元年から文政10年。初代の死後、耕書堂を継いだのが、番頭を務め、のちに養子となった勇助です。勇助は二代目蔦屋重三郎を名乗り、店だけでなく、初代が使用していた「富士山形に蔦の葉」の商標も受け継ぎました。したがって、この印が耕書堂の版元印であるならば、《姿海老屋内葛城》を出版したのは、二代目蔦屋重三郎・勇助の時代の耕書堂ということになります。 一枚の浮世絵を細かく見ていくと、実にさまざまなことが見えてきます。実在した花魁・葛城。その名を書いた竹村伊勢の積物。秋草の屏風。着物と簪に描かれた抱茗荷。茶器と茶杓を手にして茶を点てようとする葛城。そして、画面の隅に小さく摺られた蔦屋重三郎の版元印。 それぞれが、この女性がいつ、どこで、どのような存在として描かれたのかを語っています。そして、吉原の花魁を描いた錦絵のなかで、その女性の「嗜み」を示すものとして茶の湯が選ばれていることに興味を惹かれます。これは、文政期には茶の湯が茶人や武家だけの世界に閉じたものではなく、女性の教養や洗練を表す文化として広く認識されていたことを考えるうえでも、興味深い資料ではないでしょうか。 一枚の浮世絵から、花魁・葛城の姿が見え、吉原の文化が見え、江戸の出版文化が見え、そして茶の湯の姿が見えてきます。 参考文献:日比谷 孟俊著「吉原研究のツールとしての遊女絵版画―メタデータとしての紋から考察した遊女絵開板年の特定と遊女の襲名―」 もっと見る





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