日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。 現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

1,315,500

18%

目標金額は7,000,000円

支援者数

40

募集終了まで残り

47

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

1,315,500

18%達成

あと 47

目標金額7,000,000

支援者数40

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。 現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

はじめに〜このプロジェクトについて〜 

はじめまして。私は茶道家として活動し、茶文化の研究・普及活動を行っております、茶の文化フォーラム株式会社の堀内議司男(茶名・壷中庵 宗長)と申します。

 本プロジェクトは、江戸時代後期に長崎・出島オランダ商館長を務めたヤン・コック・ブロムホフゆかりの未公開作品――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」を、日本で修復し、本邦初公開へつなげるための文化保存プロジェクトです。

 2026年11月13日より、長崎・ハウステンボス美術館にて、

「 OTEMAE ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」展(主催 ハウステンボス株式会社・日本経済新聞社)

が開催されます。

パレス ハウステンボス

ハウステンボス美術館

 本展では、ブロムホフが江戸時代に蒐集しヨーロッパへ持ち帰った茶道具約120点を、約200年ぶりに日本へ里帰りさせ、本邦初公開いたします。

 そして今回、この展覧会にあわせて、長年公開されることのなかった「ブロムホフ家族図」を修復し、日本で初めて公開したいと考えています。


ブロムホフとは何者だったのか

2009年にライデン国立博物館(現オランダ国立世界文化博物館)のマティー・フォラー先生の講義を拝聴して以来、私はヤン・コック・ブロムホフ(1779~1853)という人物に深い関心を抱いてまいりました。

彼は、江戸時代の出島オランダ商館長であり、日本初の英語辞書を編纂した人物としても知られています。

オランダ・アムステルダムで生まれ、フランス革命戦争やナポレオン戦争を経て、1805年にバタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)でオランダ東インド会社に勤務しました。

1809年に出島の荷倉役(倉庫番)として来日し、商館長ヘンドリック・ドゥーフの推薦で長崎の通詞たちに英語を教え、英語辞書の編纂を始めました。1813年、イギリス軍の捕虜となり、一時オランダへ帰国しましたが、1817年に商館長として再び来日します。


オランダ国立世界文化博物館鎖国下、日本とヨーロッパを結ぶ唯一の窓口であった出島。当時、ヨーロッパではナポレオン戦争の影響によりオランダがフランスに併合されましたが、その間も出島には唯一オランダ国旗が翻り続け、日本と西洋を結ぶ窓口としての役割を果たしていました。

オランダ再独立後、出島オランダ商館長として赴任したブロムホフは、途絶えかけていた日蘭貿易の回復に尽力するとともに、日本の文化や動植物の調査・研究を積極的に支援しました。

また、後に日本研究の先駆者として名を残す フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの活動の基盤を築いたのもブロムホフでした。

江戸参府では徳川家斉に謁見し、多くの蘭学者たちと交流。その最前線で日本文化に深い関心を寄せたブロムホフは、茶道具、絵画、工芸品、人物模型、出島模型など、多岐にわたる日本文化資料を蒐集しました。

帰国後、それらをオランダ国王へ売却したことで、ヨーロッパ最初の本格的日本コレクションが成立します。19世紀初頭の日本文化を今日に伝える貴重な記録であり、日本とヨーロッパの文化交流の歴史を物語る遺産となっています。

特に興味深いのは、彼が収集した茶道具です。それは単なる「異国趣味の収集品」ではありませんでした。点前が成立するほど体系的に揃えられており、彼が「茶の湯」という文化そのものを理解しようとしていたことが分かります。

 私は長年茶道に携わる中で、ブロムホフは単なる収集家ではなく、ヨーロッパ“最初の茶人”であったのではないかと考えるようになりました。

昨年、オランダで出会った一枚の絵

昨年、展覧会の企画調査のため、オランダ・ライデンのオランダ国立世界文化博物館を訪問しました。そこで出会ったのが、川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。

この作品は長らくブロムホフ家の子孫によって大切に保管されてきました。しかし、その存在は知られていたものの、一般公開されることはありませんでした。

そして昨年、オランダ国立世界文化博物館へ寄贈され、公的コレクションの一部となったのです。

 作品寸法は、83 × 158.4 cm。額装を含めると 98.9 × 174.3 cm に及びます。

 実際に対面すると、その圧倒的な存在感に言葉を失いました。人物の表情、衣装の描写、細部に宿る空気感――。そこには、単なる異国風俗画ではない、「特別な時間」が描かれていました。

 オランダ国立世界博物館蔵・川原慶賀筆 ブロムホフ家族図

川原慶賀という絵師

川原慶賀筆「出島図」
オランダ国立世界文化博物館
川原慶賀(1786年~1860年頃)は、江戸時代後期の長崎で活躍した絵師です。出島を通じて来日したオランダ人や外国人との交流が盛んであった長崎にあって、彼は西洋人から高く評価され、とりわけシーボルトの依頼を受けて数多くの作品を制作したことで知られています。

慶賀は、日本の風俗、職人の仕事、祭礼、街並み、動植物、そして人々の暮らしを、驚くほど緻密な観察眼によって描き残しました。その作品は単なる絵画ではなく、写真の存在しなかった時代の日本を伝える貴重な視覚資料でもあります。

シーボルトは、日本の自然や文化をヨーロッパへ紹介するために膨大な資料を収集しましたが、その多くを支えたのが慶賀の筆でした。慶賀が描いた植物図譜や風俗画は、後にヨーロッパで刊行されたシーボルトの著作にも活用され、日本研究の発展に大きく貢献しています。

そして、《ブロムホフ家族図》は、慶賀の作品の中でも特に重要な一枚です。

この作品には、出島オランダ商館長ヤン・コック・ブロムホフ、その妻ティティア、息子ヨハネス、乳母のペトロネラ、そしてインドネシア系の召使が描かれています。鎖国下の日本において、西洋人一家が揃って描かれた例は極めて稀であり、当時の国際交流の実像を今に伝える貴重な記録となっています。

また、この作品は単なる家族肖像画ではありません。西洋の肖像画的な構成を取り入れながらも、日本人絵師ならではの細やかな観察によって、衣服の質感や人物の表情、所持品に至るまで克明に描写されています。そこには異国の人々への好奇心と敬意、そして長崎という国際都市ならではの視点を見ることができます。

《ブロムホフ家族図》は、美術作品であると同時に、出島を舞台とした日蘭交流の歴史を映し出す「時代の証言者」なのです。

なぜ、同じ構図の作品が複数存在するのか

ブロムホフの商館長としての来日は、当時の日本人に大きな衝撃を与えました。ブロムホフが家族を伴っていたからです。なかでも、出島に現れた西洋女性の姿は極めて珍しく、人々の強い関心を集めました。

そのため、長崎奉行所は絵師に命じて一家の姿を描かせ、その画像はさまざまな形で模写・再構成されながら広く流布していきます。肉筆画として描き継がれただけでなく、長崎版画として制作され、日本各地へと伝えられました。

現在でも数多くの異版や類似作品が残されており、その中には本来の人物像から離れ、「西洋婦人図」や「阿蘭陀夫婦図」として一般化したものも少なくありません。また、実際にはブロムホフ夫妻とは無関係でありながら、その名を冠して伝えられた作品も見られます。

それほどまでに、ブロムホフ一家の来航、とりわけ西洋女性の存在は、鎖国下の日本人の想像力をかき立てる出来事であったのです。[参考文献:東京大学所蔵の二つの「ブロムホフ家族図」松井洋子・高島晶彦著]

慶賀筆とされる同構図の家族図は世界に数点確認されていますが、本作品はその中でも最大の画面を有し、筆致も最も精緻であることから、現存作品群の中で最初に制作された可能性が高いと考えられます。

オランダ国立世界文化博物館の主任学芸員ダーン・コック氏は、興味深い見解を示しています。江戸時代、慶賀が描いた作品は長崎奉行所の検閲を受ける必要がありました。

一度、ある形式――この場合「背景を持たず、ソファに座るブロムホフ家族」という構図――について許可が下りると、その後は改めて検閲を受けることなく、同構図を繰り返し制作できたのではないかというのです。

 これは長崎湾や出島風景を描いた慶賀作品にも共通して見られる特徴です。つまり本作品は、単なる肖像画ではなく、鎖国時代における文化交流と検閲制度の痕跡をも伝える歴史資料でもあるのです。

この絵が描いた「最後の時間」

 この家族図は、ブロムホフが家族とともに長崎・出島で過ごした、かけがえのない時間を描いた肖像画です。当時、日本は鎖国体制下にあり、外国人の滞在には厳しい制限がありました。特に女性や子どもの渡航は許されていませんでした。しかしブロムホフは、その禁を越え、妻ティティアと幼い子どもを伴って来日します。けれど、その滞在は長く続きませんでした。家族はわずか三ヶ月ほどで日本を離れることになります。

 そして――

 それは、家族にとって永遠の別れでもありました。

この絵は、その別れを前にした、家族がともに過ごした最後の時間を描いた肖像です。他の同構図作品と⽐べても、⼈物の表情にはどこか厳しさと切迫感がにじみ出ており、当時の彼らが置かれていた状況が静かに迫ってきます。

異国の地で暮らす不安 
家族が引き離される予感

その時間が、この一枚には刻まれているのです。

ティティア ― 日本人を魅了した最初の西洋女性

わずかな滞在であったにも関わらず、妻ティティアは、西洋女性として初めて来日した存在として長崎の人々に強い印象を残しました。その姿は日本三大土人形の一つでもある地元長崎の「古賀人形」にも表され、「西洋婦人」として現在に至るまで記憶され続けています。

また、ティティアは、日本を訪れた最初の西洋女性として知られるだけではありません。彼女はスクエア・ピアノを出島へ持ち込み、日本で初めて西洋ピアノを演奏した人物としても知られています。

さらに、ティティアが残した書簡には、日本人から抹茶でもてなしを受けた様子が記されています。現存する史料から確認できる限りでは、ティティアは抹茶を飲んだ最初の西洋女性の一人と考えられます。

ブロムホフが茶道具を蒐集し、日本文化への理解を深めていた一方で、ティティア自身もまた日本の風俗や文化に強い関心を寄せていました。出島で供された一碗の抹茶は、単なる飲み物ではなく、日本人のもてなしの心に触れる体験だったことでしょう。

日本で初めてピアノを奏でた西洋女性。そして、日本人から抹茶でもてなしを受けた最初の西洋女性。その存在は、ブロムホフ一家が日蘭交流の歴史において特別な位置を占めていることを物語っています。

なぜ今修復は必要なのか

企画調査のためライデンを訪れた際、私はダーンさんから、この《ブロムホフ家族図》の保存状態について詳しくお話を伺いました。

作品は約200年という長い歳月を経ており、画面や額装には経年による劣化が見られます。しかし現在、オランダ国立世界文化博物館には、この作品を本格的に修復するための十分な体制が整っていないとのことでした。

その一方で、日本には江戸時代の絵画や表装に関する高度な修復技術が継承されており、本作品についても日本で修復を行うことが現実的かつ最善の選択肢であることを知りました。

私は長年にわたりブロムホフとそのコレクションを追い続けてきましたが、この貴重な作品を未来へ伝えるためには、今まさに修復が必要な時期に来ていることを強く実感しました。

「この展覧会という歴史的な機会に、この作品を修復し、日本で公開したい」と。

この作品は単なる西洋人肖像画ではありません。江戸時代、日本とオランダが唯一交流を続けていた時代の記憶であり、異国で生きた家族の記録であり、そして日本人絵師・川原慶賀が見つめた“世界”そのものなのです。 

 修復を担う人々

 本作品の修復は、京都の修復工房「宇佐美修徳堂」に依頼いたします。


修復を担当するのは、長年文化財修復に携わってきた宇佐美直治さん、そして次世代を担う宇佐美直希さんです。

文化財修復は、単に傷みを直す作業ではありません。作品が持つ時間や歴史を尊重しながら、未来へ受け渡していく極めて繊細な仕事です。

 今回の修復では、作品本来の姿を損なうことなく、完全公開と次世代への継承を可能にする修復を目指します。これは一枚の絵画を守るだけでなく、日本の修復技術そのものを未来へ繋ぐ取り組みでもあります。

 オランダ国立世界文化博物館
学芸員 ダーン・コックさんからのメッセージ


【ブロムホフ家族図の現在の状況】



修復スケジュール(予定)

 本プロジェクトでは、作品の安全性を最優先に、オランダと日本の関係者が連携しながら修復・公開準備を進めてまいります。


200年の時を経て蘇る『ブロムホフ家族図』
修復を経て、いよいよ日本の皆様の前に姿を現します

本プロジェクトでご支援いただきたい内容

 本クラウドファンディングでは、「ブロムホフ家族図」の修復および輸送費用へのご支援をお願いしております。

 具体的には、

・オランダ―日本間の往復輸送費
・日本国内輸送費
・修復費
・保存・展示準備費
・上記プロジェクトに関わる諸費用 

 などに充てさせていただきます。

 文化を未来へつなぐために
このプロジェクトは、一枚の絵画修復にとどまるものではありません。

江戸時代、日本とヨーロッパが交わった記憶
異国で生きた家族の時間
日本人絵師が見つめた世界

 それらを、未来へ受け渡すための試みです。もしこの作品が修復されなければ、この絵は静かに時の中へ埋もれていくかもしれません。だからこそ今、この作品をよみがえらせたい。

200年の時を超えて受け継がれてきたこの作品を、次の時代へ手渡したい。

 どうか皆さまのお力をお貸しください。

 心より、ご支援をお願い申し上げます。

茶道家 堀内議司男(壷中庵・宗長)


支援金の使い道

集まった支援金は以下に使用する予定です。

  • 人件費

  • リターン仕入れ費

  • ・オランダ―日本間の往復輸送費 ・日本国内輸送費 ・修復費 ・その他上記プロジェクトにかかる費用

※目標金額を超えた場合はプロジェクトの運営費に充てさせていただきます。

支援に関するよくある質問

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  • (1)川原慶賀について オランダでは川原慶賀は "Photographer without a Camera(カメラを持たない写真家)" と紹介されています。 彼は江戸時代後期の長崎を代表する絵師です。通称を登与助、号を慶賀、字を種美といい、天明6年(1786)、長崎の今下町、現在の長崎市築町付近に生まれたとされています。 ただし、慶賀自身の日記や書簡など、その生涯を詳しく伝える史料はほとんど残されていません。生年については1786年とする説が広く用いられていますが、没年は確定しておらず、一般には「1860年頃」あるいは「1860年以後」と記されています。したがって、ここでは川原慶賀の生没年を「1786―1860年頃」としておきます。〔注1〕 父は長崎の絵師・川原香山です。慶賀は、まず父から絵師としての基礎を学び、その後、長崎奉行所に仕えた唐絵目利の石崎融思(1768―1846)から画技の指導を受けたと伝えられています。 唐絵目利とは、中国から長崎へもたらされた書画や美術工芸品などを鑑定する役職です。石崎融思は中国絵画に通じていただけではなく、西洋画法を取り入れた人物画や風景画も描いていました。慶賀が融思の正式な門人であったのか、いつ頃、どの程度の指導を受けたのかについては、まだ明らかではありません。 しかし、人物の立体感、陰影表現、遠近法など、両者の作品には共通する要素が認められます。長崎歴史文化博物館では、2017年(平成29年)10月17日から11月12日まで、特集展示「慶賀と融思」が開催されました。この展示では、石崎融思と川原慶賀の作品を比較し、その画風や両者の関係性について検討が行われています。〔注2〕 慶賀は、コンプラドール、すなわち出島のオランダ商館に品物や役務を提供する「諸職売込人」の一人として、出島への出入りを許されていました。日本人の出入りが厳しく管理されていた出島へ、絵師として継続的に出入りし、オランダ商館長や商館員たちの依頼を受けて絵を描いたことから、後世「出島出入絵師」あるいは「出島絵師」と呼ばれるようになりました。 ただし、慶賀を、単に出島の景色やオランダ人を描いた異国趣味の絵師と考えるべきではありません。慶賀が描いたものは、出島や長崎港だけではないからです。人々の服装、年中行事、職人の仕事、農耕、道具、建築、植物、動物、魚類、昆虫など、その対象は実に多岐にわたっています。慶賀の作品は絵画であると同時に、十九世紀前半の日本の自然と生活文化を伝える視覚的な記録でもあるのです。〔注1〕川原慶賀の生没年については、天明六年(1786)生まれとする記述が広く用いられています。一方、没年は確定しておらず、「1860年頃」「1860年以後」などの表記があります。オランダの日本博物館シーボルトハウスおよび世界博物館は「1786–circa 1860」としています。〔注2〕特別展「ロシア科学アカデミー図書館所蔵 川原慶賀の植物図譜」[会期:2017年10月7日(土)~11月26日(日)]の会期中に、常設展示室(歴史文化展示ゾーン)で特集展示「慶賀と融思」[会期:2017年10月17日(火)~11月12日(日)]が開催されました。慶賀の生涯には不明な点が多いとしたうえで、石崎融思との作品比較を通して慶賀の特色を明らかにする展覧会を開催しています。(つづく)  もっと見る
  • 【5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまへ】追加特典のお知らせこのたび、5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまへの感謝の気持ちを込めて、特別な追加特典をご用意いたしました。オランダ国立世界文化博物館では、日本コレクションのうち展示されているのはわずか約5〜6%。残り約95%は一般公開されることなく、収蔵庫で大切に保管されています。そこで今回、5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまを対象に、**オランダ国立世界文化博物館「ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー(バックヤード見学)」**へご招待いたします。通常は立ち入ることのできない収蔵庫や保存・修復エリアを学芸員の案内で見学し、展示室では決して見ることのできない世界屈指の日本コレクションや、文化財を未来へ受け継ぐための保存・修復の現場をご覧いただける貴重な機会です。本ツアーは、すでに5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまも対象となります。これからご支援くださる方も、同様にご参加いただけます。ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー概要 ・実施期間:2027年3月1日〜2028年2月28日 ・会場:オランダ国立世界文化博物館(ライデン) ・現地までの交通費・宿泊費は各自ご負担ください。 ・見学日時などの詳細は、ご支援者様とメールにてご相談させていただきます。 皆さまからの温かいご支援への感謝を込めて実現した、今回だけの特別な追加特典です。ぜひこの機会に、普段は決して見ることのできない「博物館の裏側」を体験していただければ幸いです。 もっと見る
  • 今回、「ブロムホフ家族図」を調べるにあたって、川原慶賀に関するさまざまな資料を探しました。しかし、慶賀の残した作品の膨大さに比べると、参考にできる研究書や論文が意外なほど少ないことに気づきました。 もちろん、これまでにも長崎の研究者や、オランダの博物館関係者によって、慶賀の画業や作品についての研究は行われています。しかし、慶賀の生涯から作品、工房、注文主、海外での評価までを総合的に知ることのできる文献は、決して多くありません。 その理由の一つは、慶賀自身についての記録が、ほとんど残されていないことです。慶賀の日記や書簡、家族や弟子による記録はほとんど確認されておらず、生年や没年さえ確定していません。どこで誰から絵を学び、いつ頃から出島に出入りし、どのような注文を受けていたのかについても、不明な点が数多く残されています。 そのため、慶賀の生涯を調べようとしても、本人の言葉からたどることはできません。残された作品や、ブロムホフ、フィッセル、シーボルトら外国人の記録、博物館の収蔵目録などを、一つずつ照合しながら考えていくほかないのです。 第二の理由は、慶賀の作品の多くが海外に所蔵されていることです。オランダ国立世界文化博物館には、慶賀およびその工房による500点を超える絵画が所蔵されています。さらに、ロシア、ドイツ、イギリスなどにも作品が伝わっています。ところが、日本国内にいると、これらの作品をまとめて見ることは容易ではありません。現在ではインターネット上で画像を見ることのできる作品も増えましたが、解説がオランダ語や英語であったり、作品名や作者の表記が博物館ごとに異なっていたりします。画像だけが公開され、詳しい来歴や制作年代が示されていないものもあります。また、博物館の解説が、後の研究によって改められる可能性もあります。美術館や博物館の解説だからといって、すべてが確定した事実とは限らないのです。 第三の理由は、慶賀の作品数があまりにも多く、しかも慶賀本人の作品と、門人や工房による作品との区別が難しいことです。慶賀は、人物画、風俗画、植物図、動物図、魚類図、職人図、長崎港図など、実に多くの作品を残しています。しかし、そのすべてを慶賀一人が描いたとは考えにくく、実際には門人や工房の絵師が制作に加わっていたと考えられます。 作品に慶賀の署名や落款があるからといって、必ずしも慶賀一人の自筆とは限りません。江戸時代の絵画制作では、師匠の名のもとに、門人や工房が制作を行うことは珍しくありませんでした。 そのため、慶賀研究では、単に落款を見るだけではなく、人物の顔、描線、衣服、構図、彩色、使用された紙や絹などを比較しなければなりません。一点ずつ丁寧に検討していく必要があり、研究には大変な時間がかかります。 また、川原慶賀が、美術史だけでは捉えきれない人物であることも、研究の少なさにつながっていると思います。慶賀の作品には、美術史だけでなく、日蘭交流史、長崎史、博物学、植物学、動物学、民族学、服飾史、工芸史など、さまざまな分野が関係しています。 植物図を研究するには植物学の知識が必要です。出島の風俗図を読むには、当時の長崎の制度や生活を知らなければなりません。オランダ人の注文による作品を考えるには、オランダ側の史料や収集の目的も調べる必要があります。 あまりにも多くの分野にまたがっているため、一人の研究者が慶賀の全体像を捉えることは難しかったのでしょう。 さらに、慶賀は長い間、「シーボルトのために絵を描いた絵師」として語られてきました。もちろん、シーボルトとの関係は慶賀の画業を考えるうえで大変重要です。しかし、慶賀はシーボルトが来日する以前から、ブロムホフやフィッセルらの注文を受けて、出島で絵を描いていました。 慶賀を「シーボルトの絵師」としてだけ見てしまうと、それ以前の仕事や、シーボルト離日後の画業、さらには出島の外国人たちとの幅広い関係が見えにくくなってしまいます。 日本にある作品だけを見ても全体像はわかりません。オランダの作品だけを見ても、長崎の画壇や日本絵画との関係は見えてきません。ブロムホフ、フィッセル、シーボルトのコレクションを比較し、さらに国内に残る作品と結びつけて考える必要があります。 参考文献が少ないことは、調査を進めるうえで大きな困難でした。しかし、それは同時に、まだ明らかにされていないことが数多く残されているということでもあります。幸い、現在はインターネットによって海外の博物館の収蔵品や研究資料にアクセスできる時代になりました。さらにAIを活用することで、これまで点在していたオランダ語や英語の資料、論文、博物館の解説などを横断的に調べ、相互に比較・検証することも可能になっています。デジタル化された博物館資料とAIは、歴史研究の可能性を大きく広げつつあります。 今回、私もそうした新しい手法を活用しながら国内外の資料を読み比べていきました。その結果、従来ほとんど紹介されてこなかった資料や、博物館ごとの見解の違い、さらには作品同士を比較することで初めて見えてくる事実にも数多く出会うことができました。 川原慶賀は、すでに研究し尽くされた画家ではありません。むしろ、デジタルアーカイブとAIという新しい研究環境が整った今だからこそ、国内外に散在する作品や資料を結び付け、新たな視点から再評価することのできる絵師なのです。 今回の「ブロムホフ家族図」の調査からも、従来の博物館解説や作品の人物同定を、そのまま受け入れるのではなく、複数の作品を比較し、画面を自分の目で見直すことの大切さを感じました。 川原慶賀は、すでに十分研究された絵師ではありません。むしろ、これほど多くの作品を残しながら、今なお全体像の見えていない絵師です。だからこそ、作品を一点ずつ見直し、国内外の資料を結びつけながら考えていくことに、大きな意味があるのだと思います。※画像は川原慶賀筆《宇治茶摘み図》(1823〜1829年頃)シーボルトの依頼によって描かれた作品です。 もっと見る

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