
プロローグ 玄関の外側に立つ
2020年12月。僕は食料の入った袋を持ち、ある母子家庭の玄関の外に立っていた。玄関が開く。真冬なのに、部屋には暖房がついていなかった。昼間なのに薄暗く、それでも電気はつかなかった。家の中には、僕をじっと見ている男の子がいた。
「今、何が面白い?」
「別に」
その返事を聞いた瞬間、忘れていたはずの寒さがよみがえった。
ああ、そうだったな。
僕も、こんな部屋にいた。
僕も、大人に何を聞かれても、何も言えなかった。
あのぼろぼろの家にも、ストーブはなかった。
寒い日は布団をかぶっていた。
夜の七時を過ぎるまで電気をつけてはいけないという、変な決まりもあった。
食料の袋を持って玄関の外側に立ちながら、僕は気づいた。
この扉の向こうにいるのは、知らない男の子じゃなかった。
玄関の向こうにいたのは、あの日の僕だった。
第一章 父のいない家
僕は1973年9月26日、普通のサラリーマン家庭に長男として生まれた。家族からかわいがられて育ったと思う。
ただ、出張や転勤の多い父は、ほとんど家にいなかった。暮らしぶりだけを見れば、僕は母に育てられたようなものだった。
父は家に戻ってきても、「付き合いがある」と言って夜になると出かけた。そのたびに、僕の目の前で夫婦喧嘩が始まった。後になって、父には不倫相手がいたと知った。母は分かっていたのだろう。だから、あれほど父と争ったのだと思う。
子どもは、親の事情を詳しく知らない。それでも、家の空気が変わる瞬間は分かる。声の大きさ、戸の閉まる音、食卓に置かれた皿の音。父が帰ると家族がそろうはずなのに、僕にとっては家の中が緊張する時間でもあった。
小学6年生のとき、両親は離婚した。
一学期の終業式が終わると、母は僕と幼い妹を連れて家を出た。僕は当然、母の実家へ行くのだと思っていた。連れて行かれたのは、母の友人が暮らす団地だった。
母の友人はシングルマザーで、僕より一つ年上の息子がいた。夏休みだったこともあり、数日間は楽しく過ごした。
けれど、一週間ほどすると、見知らぬ男が現れた。
僕たちはその男の運転する車に乗せられた。母と妹と僕、そして見知らぬ男。どこへ行くのか、なぜ行くのか、詳しい説明はなかった。
子どもの僕には、質問するという選択肢さえなかった。
第二章 今日からここが新しい家
車が着いたのは広島だった。
古い3DKのアパートに入り、母は言った。
「今日からここが新しい家」
新しい小学校は近い。店もたくさんある。楽しいところだ。母はそんな説明をした。僕は何が起きているのか分からないまま、何となく楽しそうなのかもしれないと、自分に言い聞かせた。
転校には慣れていた。実父の転勤で、小学校はすでに四校目だった。転校生として教室に入り、名前を言い、どこから来たのかを説明する。そういうことには慣れていた。
しかし、転校先では修学旅行がすでに終わっていた。
小学校生活で最も大きな行事に、僕は参加できなかった。旅行先がどこだったのかよりも、みんなが共有している思い出の中に自分だけがいないことが寂しかった。
しばらくして、妹と同じくらいの年頃の男の子が二人やってきた。4歳と5歳くらいだった。あの男の息子たちだという。
正直に言えば、かわいいとは思えなかった。二人はよくおもらしをし、いつもおしっこのにおいがした。
妹は年が近いこともあり、一緒に遊んでいた。あるとき、そのうちの一人が妹のスカートの中をのぞき込んでいるのを見た。僕はとっさにその子を叩いた。
母にはひどく怒られた。
けれど、僕は自分が間違ったとは思わなかった。妹を守ったのだと思っていた。
広島へ引っ越したその年の冬、母方の祖父の体調が急変した。病床の祖父の前で、あの男は言った。
「必ず幸せにします」
親族がみんな聞いていた。僕も聞いていた。
大人が親族の前で口にした約束なのだから、きっと守られるのだと思った。
しかし、気づけば男はいなくなっていた。
母はただ、「別れた」としか言わなかった。
次回
第3章「私にはこの子がいる」
第4章「その他」に丸が付いた日
第5章 茶色い弁当
へ続く。



