延岡で「助けて」と言えない子ども家庭を地域で支え続けたい。

宮崎県延岡市で5年以上続けてきた「子ども宅食」。食支援・見守り・相談支援を通じて、「助けて」と言えない子どもと家庭への継続的なつながりを届け続けたいです。

現在の支援総額

1,293,500

51%

目標金額は2,500,000円

支援者数

201

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2026/06/15に募集を開始し、 201人の支援により 1,293,500円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

延岡で「助けて」と言えない子ども家庭を地域で支え続けたい。

現在の支援総額

1,293,500

51%達成

終了

目標金額2,500,000

支援者数201

このプロジェクトは、2026/06/15に募集を開始し、 201人の支援により 1,293,500円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

宮崎県延岡市で5年以上続けてきた「子ども宅食」。食支援・見守り・相談支援を通じて、「助けて」と言えない子どもと家庭への継続的なつながりを届け続けたいです。

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ご支援くださった皆さまへクラウドファンディング終了まで、いよいよ残り1日となりました。ここまでご支援くださった皆さま、本当にありがとうございます。また、ご支援以外でも投稿をシェアし応援の輪を広げてくださり、心より感謝申し上げます。今回の挑戦を通して、私たちの活動は多くの方に支えられていることを、改めて強く感じています。最後に、この活動に関わる私たちのメンバーの思いをお伝えいたします。----------------------------------------------------------------------------------------------【内田理佐】私は、「子どもネットワークのべおか」の理事として、子ども宅食をはじめ、困難を抱える子どもや子育て家庭を支える活動に携わっています。子ども宅食の活動に参加させていただき、実態確認させていただいています。日本の子どもの貧困率は11.5%で、約9人に1人が貧困状態にあります。宮崎県が中学2年生とその保護者を対象に実施した調査でも、いわゆる貧困層は全体の12.0%を占めています。貧困は、食事だけの問題ではありません。学習や部活動、地域活動への参加、進学の機会まで奪い、子どもたちの将来の選択肢を狭めます。3年前に示された県内の調査では、生活保護受給世帯の子どもの高校進学率は87.4%で、前年度から3.9ポイント低下し、目標値の94%を大きく下回りました。高校中退率も6.2%と、前年度から4.1ポイント上昇しています。また、県内の子ども食堂は7年間で約10倍に増えました。地域の支援が広がる一方、それだけ食事や居場所、つながりを必要とする子どもや家庭があるということが分かります。ひとり親家庭では、子どもの急病で仕事を休めば収入が減るので、休めない…という現実もあります。さらに、日本では、生まれたばかりの赤ちゃんが約2週間に1人、遺棄や虐待によって命を落としているとされ、その背景には経済的困窮や社会的孤立、予期せぬ妊娠があります。また、宮崎県は、人工妊娠中絶率(15 歳以上 50 歳未満の女子人口千対)が平成30年度から令和3年度まで連続して全国ワースト 1 位という深刻な課題を抱えています。以上のことからも、「子ども宅食」は、食料を届けるだけの活動ではない!と私は伝えたいです。家庭とつながり、困りごとに気づき、必要な支援へつなぐ大切な取り組みです。子どもたちは、生まれる家庭や育つ環境を選ぶことはできません。しかし、私たち大人には、その子どもたちの未来を支えることができます。延岡で生まれてきてくれて、ありがとう!と私は言いたいです。喜ばれて育って欲しい。安心して育てて欲しい。皆さまのご支援が、お父さん、お母さんの笑顔となり、子どもたちの食事、学び、安心、そして希望につながります。----------------------------------------------------------------------------------------------【磯田昌宏】コロナ禍まっただ中から、私がこども宅食に関わって、5年を超えました。こども宅食は、単に物資を届けているだけではありません。食料品や日用品に加え、虎彦さんから提供いただいたお菓子もお渡ししています。おいしそうなお菓子に、子どもだけでなく、大人も笑顔になります。お菓子を含め物資をお届けすることが、人や心をつないでくれます。訪問時には、お子さんを含む家庭の状況や悩みなどをお聞きしています。物価高で生活が大変だとか、お子さんの不登校の話や進路の悩み、時には命に関わるような深刻な話を聴くこともあります。微力な私ですが、毎回楽しみにしています!いつも助かります!などの言葉にうれしく感じるとともに、私でも何かお役に立てることがあるのではないかと思って活動を続けています。----------------------------------------------------------------------------------------------【木戸恵子】前職は生活保護世帯を担当するケースワーカーをしておりました。生活に困窮しながらも、一生懸命子育てをしている保護者さん達をみてきました。しかしながら、その反面でお金がないからと子どもが大事にしているものを売りお金に換えようとする親や、子どもの奨学金を生活費に充て、せっかく進学しても学費滞納で退学させられてしまう子どももいました。保護者への関わりの中で、何らかの支援の手があれば防ぐことができたのではないかと悔やまれます。だからこそ、私はネットワークのべおかでの宅食の活動を応援し、1人でも多くの子ども達の心に人生を諦めない希望を届けたいと思っています。---------------------------------------------------------------------------------------------【日野亮司】子ども食堂の運営を、特定のグループやボランティアだけに任せるのではなく、**「地域全体で支える仕組み」へと進化させる時が来ています。延岡には、お互いを思いやる温かい地域性、いわば「結(ゆい)の精神」が息づいています。農家の方が作ったお野菜。企業が持つスキルやスペース。住民一人ひとりの「何か手伝いたい」という少しずつの想い。これらを結びつけ、地域全体が一つの大きな「家族」のように子どもたちを包み込む。子どもたちの笑顔を真ん中に置いたコミュニティを、私たち延岡市民の手で、共に育んでいきましょう。---------------------------------------------------------------------------------------------【堀之内タミ】先日、私より年上の方から、こんなお話を聞きました。「自分が歯を食いしばって苦しい時、お父さんがよく『〇〇くんはいつも頑張っているね』と声をかけてくれた。その言葉が本当にうれしくて、今でも忘れられない。だから今度は、自分も頑張っている人を応援したいと思っているんです」誰かが自分を見てくれている。気にかけてくれている。応援してくれている。そんな存在がいることは、人の力になり、その後の人生を支える大きな支えになるのだと私は信じています。のべおか子ども宅食は、「食」を届けることだけが目的ではありません。食を通してご家庭を訪問し、安心と笑顔を届ける。困った時に「頼っていいんだ」と思えるつながりを育む。それが、私たちの活動です。親御さん一人を支えることは、その先にいる一人の子どもを支えることにつながります。皆さまの応援が、子どもたちとご家庭の未来につながります。---------------------------------------------------------------------------------------------【平野ひろみ】2016年、延岡で初めての子ども食堂ができました。その子ども食堂の企画や運営に関わる中で、当時まだあまり知られていなかった子どもの貧困についてもっと啓蒙啓発することが必要なのではないか?という思いが芽生え、同様の考えを持つ堀之内さんと共に「子どもネットワークのべおか」を立ち上げました。2年後には堀之内さんの妻タミさんも加わり、3人で子ども食堂「土曜給食」をはじめました。子ども食堂を運営する人が必ずと言っていいほど直面する疑問に「この活動は子どもの貧困に対して、真の意味で有効なのだろうか?」「本当に必要な子どもには届いていないのではないか?」というのがあります。わたし達もそうでした。そしてやって来たコロナ禍。わたし達は2020年に、福祉の専門家でもある堀之内さんの指南の下、食のアウトリーチ支援である子ども宅食をはじめたのです。子ども宅食は、当事者の自己申告が入口となります。申込みがあると、堀之内さんと、その地区担当者が一緒にご自宅を訪れ、インテーク面接を行い、宅食利用の可否を決めます。利用が決まったご家庭には、月に一度、お米をはじめとした食品や日用品をお届けしています。ただ、わたし達は、これらの物資を届けるだけでは終わりません。この1ヶ月の子ども達やご家庭の様子をお聴きします。他愛のない話をしながら、そこから深刻な悩みの吐露に発展することも少なくありません。わたし達は、いつも真剣に、そして丁寧にお話をお聴きし、一緒に考えます。何故なら、わたし達の真の目的はそこにあるからです。わたし達は、子ども達の笑顔のために、そして、利用家庭を孤立させないために、これからも繋がり続けたい。この活動は、市民の皆様からの様々なご寄付と行政からの補助金に支えられて続けて来ました。補助金が打ち切られた今、次の助成先が見つかるまでは皆様からのご厚意だけが頼りです。いつもお願いすることしかできないわたし達ですが、皆様からのご厚意は、決して無駄には致しません。---------------------------------------------------------------------------------------------【堀之内健吾】僕の半生記ともいえる『玄関の向こうにいた、あの日の僕』これを公開するには、勇気がいりました。今の家族も、幼かった妹でさえ知らなかった真実です。住む場所が変わり、生活の苦しさや、誰にも相談できない孤独を抱えていたこと。それを人に話せるようになるまで、40年以上かかりました。子どもは、友だちを家に呼べないこと。家に帰りたくないこと。将来を諦めそうになっていること。そんな苦しさを、なかなか誰にも話せません。それでも、学校の先生や周囲の大人、先輩が声をかけてくれた。それだけで、僕は何とか前を向くことができました。行政の補助が打ち切られた時、担当課長から、「子ども宅食は『たわいのない会話』をしてる」と、まるでそれが悪いことのように言われました。しかし僕は、その「たわいのない会話」に、どれだけ救われたでしょう。あの日、先生が言ってくれた。「メシ、うまいだろ」「味噌にこだわってんだ」あの日、先輩が言ってくれた。「しょうがねぇなぁ、おごってやるわ」「またテイスティかよ」あの日、あの時に交わした「たわいのない会話」が、今の僕の血肉になっています。だから僕は、子ども宅食で食料品を届けながら、家庭の皆さんと「たわいのない会話」をします。食をきっかけに家庭を訪ね、子どもの表情を見て、保護者の声を聴き、困りごとに気づく。そして必要な支援につなぎながら、「一人ではない」と伝え続ける。貧困や孤立は、子どもの努力だけでは解決できません。保護者一人の責任にしても解決しません。地域に暮らす私たち大人が、それぞれの立場でつながり、家庭を支えていく必要があります。子どもたちに、生まれ育った環境を理由に、夢や進学、将来を諦めてほしくありません。「延岡で育ってよかった」「困った時に助けてくれる人がいた」「自分のことを気にかけてくれる大人がいた」そう思える子どもを、一人でも多く増やしたい。子どもの未来を、家庭だけに背負わせない地域をつくるために。僕は今日も、玄関をノックします。-----------------------------------------------------------------------------------------------終了まで、あと1日。最後まで見守り、応援していただけましたら幸いです。皆さまからいただいたご支援を、子どもたちと家庭へ食と安心を届け続ける力に変えてまいります。改めまして、温かいご支援に心より感謝申し上げます。


あとがきに代えてこの原稿を書き始めると、子どもの頃の出来事が次々によみがえってきた。過去をきれいにまとめるつもりはない。僕は母を守ろうとしたこともあれば、その母を叩いたこともある。人に助けられたこともあれば、自分から助けを求められずに逃げたこともある。善意だけで支援を始めたわけでもない。目の前の子どもや家庭に、かつての自分が重なった。子ども宅食は、食料を持って家庭の玄関まで行く。けれど、本当に届けたいのは、食料だけではない。何も話せない日にも来る人がいること。困ったときに思い出せる人がいること。あなたを気にかけている大人が、家庭の外にもいること。それを、繰り返し訪ねることで伝えたい。これを読んだ誰かが、身近な子どもの「別に」という言葉の奥を少しだけ想像し、ときにはこちらから玄関をノックしてくれたなら、これ以上のことはない。


第十八章 「別に」の向こう側最初の訪問で、意外なほど喜ばれたものがあった。お菓子だった。米やレトルト食品は生活に必要なものだ。けれど、家計が苦しくなると、お菓子は真っ先に節約の対象になる。「お菓子を買ってあげられなかったので、うれしいです」そんな声が、想像していた以上に多かった。一方で、部屋がたばこ臭く、酎ハイの空き缶が転がっている家庭もあった。大人の嗜好品は買われても、子どもの嗜好品は制限される。正直、複雑だった。けれど、その場で親を裁くことが、僕たちの仕事ではなかった。次に何を持っていけば子どもが喜ぶかを考えた。家庭の側から「これが欲しい」と言われることは、ほとんどなかった。こちらから「これはどうですか」と提案すると、「助かります」「うれしいです」と返ってきた。何か特別な出来事をきっかけに、急に深い相談をされるわけでもなかった。毎月、同じように訪ねる。食料を渡す。少し話す。また来る。その繰り返しの中で、ぽつりぽつりと話してくれるようになった。支援は、困りごとを聞き出すことではない。話せる関係になるまで、通い続けることなのだと思う。ある訪問先には、男の子がいた。僕が話しかけても、「別に」としか答えなかった。「将来、何になりたい?」「別に」「今、何が面白い?」「別に」その子は、僕のことをじっと見ていた。僕には、その感じが分かった。子どもの頃の僕も、大人の男性と関わりたかった。何かを相談したいわけではなかった。家庭の事情を説明したいわけでもない。母親を目当てに近づいてくる男ではなく、何も奪わず、何も求めず、自分に関心を向けてくれる大人の男に興味があった。少し話してみたかった。自分を見てもらいたかった。だから、「別に」と言われても、無理に話を引き出そうとは思わなかった。その日、話さなくてもいい。次の月も、その次の月も、食料を持って会いに行けばいい。第十九章 延岡にも本当のサンタはいるぞある家庭で、母親に聞いた。「クリスマスはどうするの?」母親は少し言いにくそうに答えた。「うち、仏教だから……」あ、この言葉を知っている。僕も子どもの頃に言われた。「うちは仏教だから、クリスマスとか関係ない」「誕生日は家族まとめてやろうね」本当に宗教の問題だったのかもしれない。けれど、僕には、用意できない事情を、子どもが納得できる言葉に置き換えていたように思えた。子どもは従うしかない。だから翌年から、「クリスマス宅食」と「バースデーケーキプレゼント企画」を始めた。クリスマスには、ケーキとお菓子、文具、おもちゃなどを家庭ごとに準備した。プレゼントには、子ども一人ひとりの名前を書いた。普段の子ども宅食では、必ず顔を見て手渡す。家庭の様子を見て、何気ない会話をすることが大切だからだ。しかし、この日だけは違う。サンタクロースは、そっと現れて、そっとプレゼントを置いて、次のお家に行くものだ。スタッフも僕もサンタクロースの格好をした。大きな袋を担ぎ、玄関前にプレゼントを置く。ピンポンを鳴らし、見つからないうちに走った。周りからは、じろじろ見られた。それでも楽しかった。延岡にも、本当のサンタはいるぞー。そんな気持ちだった。届けた後、家庭から次々にメッセージが届いた。「子どもたちのクリスマスプレゼントもなかったので、すごく助かりました。明日は子どもたちの喜ぶ顔が見れそうです」「仕事だったから、まさかサンタさんが来ると思わずにびっくりしました。私にまでありがとうございます」「部活動の大会から戻った娘が、玄関前のプレゼントとケーキを見て、『え? サンタさんって今日?』とびっくりしていました」「毎年楽しみにしています」子どもたちが喜ぶのはもちろんだった。意外だったのは、保護者の分まで用意したことを、母親たちがとても喜んだことだった。家庭の中では、親はいつも自分を後回しにする。子どものものを優先し、自分の分は諦める。「私にまで」その一言には、普段、自分がいかに贈り物を受け取る側にいないかが表れていた。クリスマス宅食は、困窮家庭への物資配付ではない。その日だけは、「支援を受ける家庭」でも「利用家庭」でもない。サンタクロースが来る家になる。子ども一人ひとりに、あなたの名前が書かれたプレゼントが届く。あなたは大切な存在だよ。そのことを、言葉ではなく、玄関前の贈り物で伝える。終章 僕は今日も玄関をノックする子どもの頃の僕は、閉ざされた玄関の内側にいた。ぼろぼろの家を友達に見られたくなかった。生活保護であることを知られたくなかった。茶色い弁当を見られたくなかった。困っていることを知られるくらいなら、何も必要としていない顔をした。家庭の事情を、誰かに説明することもできなかった。大人の都合で家が変わり、名字が変わり、家族が増えたり消えたりした。それでも、理由を尋ねることさえできなかった。何を聞かれても、「別に」と答えていたかもしれない。それでも、僕の人生には、玄関の外から来てくれた大人がいた。泣きながら訪ねた僕に、「風呂入れ」「これ食え」と言い、翌朝、何も聞かずに「ダンディ健吾いるか~?」と普通に出席を取った先生。殴り合いを体当たりで止め、「お前の心は、もっと美しいはずだ」と言った先生。カビの生えたまんじゅうを食べようとした僕を止め、夕飯をおごってくれた先輩。大きな制度ではなく、一食の飯、一晩の寝床、一本の缶コーヒー、一つの言葉が、僕を次の日につないだ。今、僕は玄関の外側に立っている。片手には食料の入った袋がある。玄関の向こうにいる家庭が、すぐに困りごとを話してくれるとは限らない。子どもが笑顔で迎えてくれるとも限らない。「別に」としか言わない日もある。それでいい。一度で関係をつくろうとしなくていい。食料を渡し、少し話し、また来る。何も話さない日にも来る。困っていないように見える日にも来る。困ったときに初めて探す支援者ではなく、困る前から顔を知っている大人になる。子ども宅食で届けるのは、食料だけではない。家庭の外にも、あなたのことを気にかける大人がいるという事実を届ける。僕が子ども宅食をやるのは、かわいそうな子どもを助けたいからではない。あの日の自分のような子どもに、会いに行くためだ。かつての僕は、玄関の内側で、誰かが来てくれるのを待っていた。今の僕は、食料を持って玄関の外側に立ち、その扉をノックする。玄関が開く。向こう側にいるのは、目の前の子どもであり、あの日の僕でもある。だから僕は、今日も会いに行く。次回「あとがきに代えて」へ続く。


十五章 「行きづらい」実際に子ども食堂を始めると、想像していたのとは少し違った。子ども以外の人も多く来た。困ってなさそうな家庭も来ていた。それでもよかった。子ども食堂は、貧困家庭だけを選別する場所ではない。地域の誰もが一緒に食べられる場所であることにも意味がある。ただ、本当に来てほしい家庭が来ていなかった。ある母親に、「子ども食堂においで」と声をかけた。母親は言った。「行きづらい」別の子ども食堂へ行ったことがあるという。「予約制で断られた」「遅い時間に行ったら、公民館の靴箱に弁当がぽつんと置かれていて、惨めだった」「何を話すわけでもなく、タダで食べさせてもらっている気がした」「子ども食堂って、貧困家庭が行くところでしょって、周りが言ってた」食事を必要としていなかったわけではない。必要だからこそ、行ってみた。それでも、支援を受けるために、自分たちが困窮家庭だと示さなければならないような感覚が、母親を傷つけていた。場所を用意して「来てください」と言うだけでは、届かない人がいる。支援を必要としている人ほど、支援の場所へ来られないことがある。第十六章 待ってちゃダメだほどなくして、新型コロナウイルスが広がった。災害時の地域拠点としても期待されていた子ども食堂は、軒並み開催を中止した。僕たちの子ども食堂は、それでも活動を続けた。ただし、会食は禁止された。できることは弁当の配付だけだった。通常の子ども食堂よりも、多くの人が弁当を取りに来た。「お弁当どうぞ」「ありがとうございます」たった、それだけだった。弁当は渡せた。けれど、家庭が何に困っているのかは分からない。子どもの相談に乗れるわけもなかった。弁当を手渡しても、関係まではつくれない。来てもらうのを待っていてはだめだと思った。「待ってちゃダメだ。こちらから行こう」2020年12月。コロナ禍の真っただ中で、のべおか子ども宅食を始めた。最初は十世帯だった。スタッフは二人一組になり、四台の車に分かれた。フードドライブで寄せられた米、レトルト食品、お菓子、日用品。集まった品を家庭ごとに仕分けし、袋に詰め、車に積み込んだ。届けるための食料がそろったとき、活動が始まったのではない。その食料を持って、家庭の玄関まで行くと決めたときに、子ども宅食は始まった。第十七章 こっちが、すみません最初に訪問した十世帯のうち、九世帯が似たような環境だった。真冬なのに暖房がついていない。昼間でも部屋が暗い。それでも電気をつけない。一軒だけの特別な出来事ではなかった。玄関が開くたびに、昔の自分の家が現れるようだった。一緒に訪問した民生委員が、母親の前で言った。「ここは寒いわね。暗いわね。階段が多くて大変ね」母親は暗い表情で言った。「すみません」自分の暮らしを見られ、評価されたと思ったのかもしれない。僕は慌てて取り繕った。「そんなことないですよ。今日は割と暖かいし、お天気もいいし」母親はもう一度、「すみません」と言った。こっちが、すみませんと思った。言った本人に悪気はなかったのだと思う。ただ、見たままを口にしただけだった。けれど、僕には、中学時代の自分の家を馬鹿にされたように聞こえた。「そんなことを言ってはダメです。寒くても暖房がつけられない。暗くても昼間は電気をつけられない。だから貧困なんですよ」その人は、「なぜだめなのか」という顔をしていた。善意で玄関まで行っても、言葉一つで人の尊厳を傷つける。あの家が寒いことも、暗いことも、母親が謝ることではない。僕はそれを知っていた。布団をかぶって寒さをしのぎ、夜の七時まで電気をつけてはいけなかった子どもだったからだ。訪問を終えて車に戻ると、スタッフ同士で話した。「どこの家庭も厳しい感じだったね」「意外なものを喜んでくれたね」「今度は、こんなものを持っていこう」最初から、次にまた行く話をしていた。一度食料を渡して終わる活動ではなかった。次回第18章「別に」の向こう側第19章 延岡にも本当のサンタはいるぞ終章 僕は今日も玄関をノックするへ続く。


第十二章 逃げるように都会を去った結局、教員養成所は中退した。友達も、あまり相手にしてくれなくなった。夜中までアルバイトをし、仕事が終わると二十四時間営業のファミリーレストランへ行った。おかわり自由のコーヒーを飲み、女性の店員と話すのが楽しかった。街へ繰り出し、見知らぬ女性に声をかけて回ることもあった。それに、何の意味もなかった。完全に負け犬だった。一人で生きていくことに限界を感じていた。そんなとき、母から手紙が届いた。僕が家を出てから、継父が母に暴力を振るうようになったと書かれていた。腹が立った。稼ぎもない甲斐性なしが、女性に手を上げる。そう思った。けれど、それは自分の生活を変えるための口実でもあった。周りの友達は学校を卒業し、地元へ帰って就職すると話していた。僕はそれにかこつけて、「俺も地元で就職先が決まった」とうそぶいた。実際には、何も決まっていなかった。逃げるように都会を去った。実家へ帰ると、かわいがっていたJ.Jがいなかった。僕が家を出てしばらくして、亡くなったという。当時は携帯電話もない時代だった。それでも、そのことを教えてくれる方法はあったはずだ。誰も知らせてくれなかった。寂しかった。J.Jは、少年時代の唯一の友達だった。僕がいなくなった後、寂しさから命を落としたのではないかと思った。寂しさで死ぬこともあるのかと知った。ハローワークへ通い、就職活動を始めた。就職氷河期の真っただ中だったが、福祉業界は活気づき始めていた。特に医療機関の介護需要は増えていた。新規開設予定の老人保健施設から内定をもらった。新しい施設で働けることを楽しみにしていた。しかし、また母に反対された。「明日からでも働いてもらわないと困る」それは、そうだった。新規開設の施設だったため、実際に働き始めるまでにはまだ時間があった。けれど、実家には僕を無収入のまま置いておく余裕はなかった。帰ってきた以上、すぐに家へ金を入れることを求められた。「家に置いてもらえるだけ、ありがたいと思って」母にそう言われた。僕は内定していた老人保健施設を断り、車で片道四十分かかる医療機関の介護職として働き始めた。基本給は少なかった。それでも夜勤があり、毎月決まった給料が入った。正社員という立場と、衣食住がそろう生活。それだけで、僕は貧困から抜け出すことができた。母は結局、継父と離婚した。しかし、二人の関係はその後も続いていた。そのこともあって、妹は地元の大学へ通うことができた。僕のような貧乏生活を経験しなくてよかった。心から、そう思った。第十三章 父になる地元へ戻り、職場で今の妻と出会った。結婚し、子どもが生まれた。生まれた子どもには、ダウン症があった。親として、それなりに苦労した。制度の分かりにくさ、相談先の少なさ、家族だけで抱えることの限界。支援する側を目指していた僕が、支援を必要とする側に立った。その経験から、「レスパイトサービスあるたす」を始めた。子どもや家族が、すべてを家庭だけで背負わなくてよい仕組みをつくりたかった。困ったときに少し休める場所。相談できる人。家族以外にも、その子を気にかける大人がいる環境。あるたすを設立した物語だけでも、一冊になるほどの出来事があるが、ここでは詳しく書かない。ここで書きたいのは、あるたすを運営する中で、僕が「子どもの貧困」と出会い直したことだからだ。ある日、新聞記者になった高校の先輩から電話がかかってきた。「あるたすに、貧困の子どもっている?」「何を言っているんですか」僕は最初、笑った。先輩は宮崎日日新聞で、「誰も知らないみやざき子どもの貧困」という特集記事を任され、取材先を探していた。当時の僕にとって、貧困とはもっと分かりやすく、特別な状態だった。家がなく、食べるものもなく、誰が見ても困っていると分かる家庭。そういうものを想像していた。自分の子ども時代が「貧困」だったとは、まだ考えていなかった。第十四章 菓子パン一つの兄妹当時のあるたすでは、利用する子どもたちに弁当を持参してもらっていた。ちょうどキャラ弁が流行していた。料理が得意な保護者の中には、毎日、驚くほど豪華な弁当を持たせる人もいた。預かっていた子どもの中に、母親が離婚したばかりの兄妹がいた。昼食の時間、その兄妹は豪華なキャラ弁の隣で、菓子パンを一つずつ食べていた。その光景を見たとき、僕は初めて「子どもの貧困」に気づいた。菓子パンを食べる兄妹と、茶色い弁当を食べていた中学生の僕が重なった。これは、自分のことだ。子どもの頃の、自分のことだった。僕は、あるたすに給食の仕組みを導入することにした。弁当屋を回り、「幼児用の弁当を作ってください」と頼んだ。子どもたち全員に給食を出し、給食費は保護者から取らなかった。誰が困っているのかを周囲に分からせる必要はない。みんなが同じ弁当を食べればよい。今思い返せば、この取り組みは子ども食堂のはしりだったのかもしれない。その後、全国で子ども食堂が注目され始めた。子どもの貧困対策として紹介される内容は、自分があるたすで始めたことと重なっていた。延岡でも子ども食堂をやろう。そう考えていると、同じような思いを持つ人たちと出会った。次回第15章「行きづらい」第16章 待ってちゃダメだ第17章 こっちが、すみませんへ続く。


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