延岡で「助けて」と言えない子ども家庭を地域で支え続けたい。

宮崎県延岡市で5年以上続けてきた「子ども宅食」。食支援・見守り・相談支援を通じて、「助けて」と言えない子どもと家庭への継続的なつながりを届け続けたいです。

もうすぐ
終了

現在の支援総額

935,500

37%

目標金額は2,500,000円

支援者数

144

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4

延岡で「助けて」と言えない子ども家庭を地域で支え続けたい。

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支援者数144

宮崎県延岡市で5年以上続けてきた「子ども宅食」。食支援・見守り・相談支援を通じて、「助けて」と言えない子どもと家庭への継続的なつながりを届け続けたいです。

あとがきに代えてこの原稿を書き始めると、子どもの頃の出来事が次々によみがえってきた。過去をきれいにまとめるつもりはない。僕は母を守ろうとしたこともあれば、その母を叩いたこともある。人に助けられたこともあれば、自分から助けを求められずに逃げたこともある。善意だけで支援を始めたわけでもない。目の前の子どもや家庭に、かつての自分が重なった。子ども宅食は、食料を持って家庭の玄関まで行く。けれど、本当に届けたいのは、食料だけではない。何も話せない日にも来る人がいること。困ったときに思い出せる人がいること。あなたを気にかけている大人が、家庭の外にもいること。それを、繰り返し訪ねることで伝えたい。これを読んだ誰かが、身近な子どもの「別に」という言葉の奥を少しだけ想像し、ときにはこちらから玄関をノックしてくれたなら、これ以上のことはない。


第十八章 「別に」の向こう側最初の訪問で、意外なほど喜ばれたものがあった。お菓子だった。米やレトルト食品は生活に必要なものだ。けれど、家計が苦しくなると、お菓子は真っ先に節約の対象になる。「お菓子を買ってあげられなかったので、うれしいです」そんな声が、想像していた以上に多かった。一方で、部屋がたばこ臭く、酎ハイの空き缶が転がっている家庭もあった。大人の嗜好品は買われても、子どもの嗜好品は制限される。正直、複雑だった。けれど、その場で親を裁くことが、僕たちの仕事ではなかった。次に何を持っていけば子どもが喜ぶかを考えた。家庭の側から「これが欲しい」と言われることは、ほとんどなかった。こちらから「これはどうですか」と提案すると、「助かります」「うれしいです」と返ってきた。何か特別な出来事をきっかけに、急に深い相談をされるわけでもなかった。毎月、同じように訪ねる。食料を渡す。少し話す。また来る。その繰り返しの中で、ぽつりぽつりと話してくれるようになった。支援は、困りごとを聞き出すことではない。話せる関係になるまで、通い続けることなのだと思う。ある訪問先には、男の子がいた。僕が話しかけても、「別に」としか答えなかった。「将来、何になりたい?」「別に」「今、何が面白い?」「別に」その子は、僕のことをじっと見ていた。僕には、その感じが分かった。子どもの頃の僕も、大人の男性と関わりたかった。何かを相談したいわけではなかった。家庭の事情を説明したいわけでもない。母親を目当てに近づいてくる男ではなく、何も奪わず、何も求めず、自分に関心を向けてくれる大人の男に興味があった。少し話してみたかった。自分を見てもらいたかった。だから、「別に」と言われても、無理に話を引き出そうとは思わなかった。その日、話さなくてもいい。次の月も、その次の月も、食料を持って会いに行けばいい。第十九章 延岡にも本当のサンタはいるぞある家庭で、母親に聞いた。「クリスマスはどうするの?」母親は少し言いにくそうに答えた。「うち、仏教だから……」あ、この言葉を知っている。僕も子どもの頃に言われた。「うちは仏教だから、クリスマスとか関係ない」「誕生日は家族まとめてやろうね」本当に宗教の問題だったのかもしれない。けれど、僕には、用意できない事情を、子どもが納得できる言葉に置き換えていたように思えた。子どもは従うしかない。だから翌年から、「クリスマス宅食」と「バースデーケーキプレゼント企画」を始めた。クリスマスには、ケーキとお菓子、文具、おもちゃなどを家庭ごとに準備した。プレゼントには、子ども一人ひとりの名前を書いた。普段の子ども宅食では、必ず顔を見て手渡す。家庭の様子を見て、何気ない会話をすることが大切だからだ。しかし、この日だけは違う。サンタクロースは、そっと現れて、そっとプレゼントを置いて、次のお家に行くものだ。スタッフも僕もサンタクロースの格好をした。大きな袋を担ぎ、玄関前にプレゼントを置く。ピンポンを鳴らし、見つからないうちに走った。周りからは、じろじろ見られた。それでも楽しかった。延岡にも、本当のサンタはいるぞー。そんな気持ちだった。届けた後、家庭から次々にメッセージが届いた。「子どもたちのクリスマスプレゼントもなかったので、すごく助かりました。明日は子どもたちの喜ぶ顔が見れそうです」「仕事だったから、まさかサンタさんが来ると思わずにびっくりしました。私にまでありがとうございます」「部活動の大会から戻った娘が、玄関前のプレゼントとケーキを見て、『え? サンタさんって今日?』とびっくりしていました」「毎年楽しみにしています」子どもたちが喜ぶのはもちろんだった。意外だったのは、保護者の分まで用意したことを、母親たちがとても喜んだことだった。家庭の中では、親はいつも自分を後回しにする。子どものものを優先し、自分の分は諦める。「私にまで」その一言には、普段、自分がいかに贈り物を受け取る側にいないかが表れていた。クリスマス宅食は、困窮家庭への物資配付ではない。その日だけは、「支援を受ける家庭」でも「利用家庭」でもない。サンタクロースが来る家になる。子ども一人ひとりに、あなたの名前が書かれたプレゼントが届く。あなたは大切な存在だよ。そのことを、言葉ではなく、玄関前の贈り物で伝える。終章 僕は今日も玄関をノックする子どもの頃の僕は、閉ざされた玄関の内側にいた。ぼろぼろの家を友達に見られたくなかった。生活保護であることを知られたくなかった。茶色い弁当を見られたくなかった。困っていることを知られるくらいなら、何も必要としていない顔をした。家庭の事情を、誰かに説明することもできなかった。大人の都合で家が変わり、名字が変わり、家族が増えたり消えたりした。それでも、理由を尋ねることさえできなかった。何を聞かれても、「別に」と答えていたかもしれない。それでも、僕の人生には、玄関の外から来てくれた大人がいた。泣きながら訪ねた僕に、「風呂入れ」「これ食え」と言い、翌朝、何も聞かずに「ダンディ健吾いるか~?」と普通に出席を取った先生。殴り合いを体当たりで止め、「お前の心は、もっと美しいはずだ」と言った先生。カビの生えたまんじゅうを食べようとした僕を止め、夕飯をおごってくれた先輩。大きな制度ではなく、一食の飯、一晩の寝床、一本の缶コーヒー、一つの言葉が、僕を次の日につないだ。今、僕は玄関の外側に立っている。片手には食料の入った袋がある。玄関の向こうにいる家庭が、すぐに困りごとを話してくれるとは限らない。子どもが笑顔で迎えてくれるとも限らない。「別に」としか言わない日もある。それでいい。一度で関係をつくろうとしなくていい。食料を渡し、少し話し、また来る。何も話さない日にも来る。困っていないように見える日にも来る。困ったときに初めて探す支援者ではなく、困る前から顔を知っている大人になる。子ども宅食で届けるのは、食料だけではない。家庭の外にも、あなたのことを気にかける大人がいるという事実を届ける。僕が子ども宅食をやるのは、かわいそうな子どもを助けたいからではない。あの日の自分のような子どもに、会いに行くためだ。かつての僕は、玄関の内側で、誰かが来てくれるのを待っていた。今の僕は、食料を持って玄関の外側に立ち、その扉をノックする。玄関が開く。向こう側にいるのは、目の前の子どもであり、あの日の僕でもある。だから僕は、今日も会いに行く。次回「あとがきに代えて」へ続く。


十五章 「行きづらい」実際に子ども食堂を始めると、想像していたのとは少し違った。子ども以外の人も多く来た。困ってなさそうな家庭も来ていた。それでもよかった。子ども食堂は、貧困家庭だけを選別する場所ではない。地域の誰もが一緒に食べられる場所であることにも意味がある。ただ、本当に来てほしい家庭が来ていなかった。ある母親に、「子ども食堂においで」と声をかけた。母親は言った。「行きづらい」別の子ども食堂へ行ったことがあるという。「予約制で断られた」「遅い時間に行ったら、公民館の靴箱に弁当がぽつんと置かれていて、惨めだった」「何を話すわけでもなく、タダで食べさせてもらっている気がした」「子ども食堂って、貧困家庭が行くところでしょって、周りが言ってた」食事を必要としていなかったわけではない。必要だからこそ、行ってみた。それでも、支援を受けるために、自分たちが困窮家庭だと示さなければならないような感覚が、母親を傷つけていた。場所を用意して「来てください」と言うだけでは、届かない人がいる。支援を必要としている人ほど、支援の場所へ来られないことがある。第十六章 待ってちゃダメだほどなくして、新型コロナウイルスが広がった。災害時の地域拠点としても期待されていた子ども食堂は、軒並み開催を中止した。僕たちの子ども食堂は、それでも活動を続けた。ただし、会食は禁止された。できることは弁当の配付だけだった。通常の子ども食堂よりも、多くの人が弁当を取りに来た。「お弁当どうぞ」「ありがとうございます」たった、それだけだった。弁当は渡せた。けれど、家庭が何に困っているのかは分からない。子どもの相談に乗れるわけもなかった。弁当を手渡しても、関係まではつくれない。来てもらうのを待っていてはだめだと思った。「待ってちゃダメだ。こちらから行こう」2020年12月。コロナ禍の真っただ中で、のべおか子ども宅食を始めた。最初は十世帯だった。スタッフは二人一組になり、四台の車に分かれた。フードドライブで寄せられた米、レトルト食品、お菓子、日用品。集まった品を家庭ごとに仕分けし、袋に詰め、車に積み込んだ。届けるための食料がそろったとき、活動が始まったのではない。その食料を持って、家庭の玄関まで行くと決めたときに、子ども宅食は始まった。第十七章 こっちが、すみません最初に訪問した十世帯のうち、九世帯が似たような環境だった。真冬なのに暖房がついていない。昼間でも部屋が暗い。それでも電気をつけない。一軒だけの特別な出来事ではなかった。玄関が開くたびに、昔の自分の家が現れるようだった。一緒に訪問した民生委員が、母親の前で言った。「ここは寒いわね。暗いわね。階段が多くて大変ね」母親は暗い表情で言った。「すみません」自分の暮らしを見られ、評価されたと思ったのかもしれない。僕は慌てて取り繕った。「そんなことないですよ。今日は割と暖かいし、お天気もいいし」母親はもう一度、「すみません」と言った。こっちが、すみませんと思った。言った本人に悪気はなかったのだと思う。ただ、見たままを口にしただけだった。けれど、僕には、中学時代の自分の家を馬鹿にされたように聞こえた。「そんなことを言ってはダメです。寒くても暖房がつけられない。暗くても昼間は電気をつけられない。だから貧困なんですよ」その人は、「なぜだめなのか」という顔をしていた。善意で玄関まで行っても、言葉一つで人の尊厳を傷つける。あの家が寒いことも、暗いことも、母親が謝ることではない。僕はそれを知っていた。布団をかぶって寒さをしのぎ、夜の七時まで電気をつけてはいけなかった子どもだったからだ。訪問を終えて車に戻ると、スタッフ同士で話した。「どこの家庭も厳しい感じだったね」「意外なものを喜んでくれたね」「今度は、こんなものを持っていこう」最初から、次にまた行く話をしていた。一度食料を渡して終わる活動ではなかった。次回第18章「別に」の向こう側第19章 延岡にも本当のサンタはいるぞ終章 僕は今日も玄関をノックするへ続く。


第十二章 逃げるように都会を去った結局、教員養成所は中退した。友達も、あまり相手にしてくれなくなった。夜中までアルバイトをし、仕事が終わると二十四時間営業のファミリーレストランへ行った。おかわり自由のコーヒーを飲み、女性の店員と話すのが楽しかった。街へ繰り出し、見知らぬ女性に声をかけて回ることもあった。それに、何の意味もなかった。完全に負け犬だった。一人で生きていくことに限界を感じていた。そんなとき、母から手紙が届いた。僕が家を出てから、継父が母に暴力を振るうようになったと書かれていた。腹が立った。稼ぎもない甲斐性なしが、女性に手を上げる。そう思った。けれど、それは自分の生活を変えるための口実でもあった。周りの友達は学校を卒業し、地元へ帰って就職すると話していた。僕はそれにかこつけて、「俺も地元で就職先が決まった」とうそぶいた。実際には、何も決まっていなかった。逃げるように都会を去った。実家へ帰ると、かわいがっていたJ.Jがいなかった。僕が家を出てしばらくして、亡くなったという。当時は携帯電話もない時代だった。それでも、そのことを教えてくれる方法はあったはずだ。誰も知らせてくれなかった。寂しかった。J.Jは、少年時代の唯一の友達だった。僕がいなくなった後、寂しさから命を落としたのではないかと思った。寂しさで死ぬこともあるのかと知った。ハローワークへ通い、就職活動を始めた。就職氷河期の真っただ中だったが、福祉業界は活気づき始めていた。特に医療機関の介護需要は増えていた。新規開設予定の老人保健施設から内定をもらった。新しい施設で働けることを楽しみにしていた。しかし、また母に反対された。「明日からでも働いてもらわないと困る」それは、そうだった。新規開設の施設だったため、実際に働き始めるまでにはまだ時間があった。けれど、実家には僕を無収入のまま置いておく余裕はなかった。帰ってきた以上、すぐに家へ金を入れることを求められた。「家に置いてもらえるだけ、ありがたいと思って」母にそう言われた。僕は内定していた老人保健施設を断り、車で片道四十分かかる医療機関の介護職として働き始めた。基本給は少なかった。それでも夜勤があり、毎月決まった給料が入った。正社員という立場と、衣食住がそろう生活。それだけで、僕は貧困から抜け出すことができた。母は結局、継父と離婚した。しかし、二人の関係はその後も続いていた。そのこともあって、妹は地元の大学へ通うことができた。僕のような貧乏生活を経験しなくてよかった。心から、そう思った。第十三章 父になる地元へ戻り、職場で今の妻と出会った。結婚し、子どもが生まれた。生まれた子どもには、ダウン症があった。親として、それなりに苦労した。制度の分かりにくさ、相談先の少なさ、家族だけで抱えることの限界。支援する側を目指していた僕が、支援を必要とする側に立った。その経験から、「レスパイトサービスあるたす」を始めた。子どもや家族が、すべてを家庭だけで背負わなくてよい仕組みをつくりたかった。困ったときに少し休める場所。相談できる人。家族以外にも、その子を気にかける大人がいる環境。あるたすを設立した物語だけでも、一冊になるほどの出来事があるが、ここでは詳しく書かない。ここで書きたいのは、あるたすを運営する中で、僕が「子どもの貧困」と出会い直したことだからだ。ある日、新聞記者になった高校の先輩から電話がかかってきた。「あるたすに、貧困の子どもっている?」「何を言っているんですか」僕は最初、笑った。先輩は宮崎日日新聞で、「誰も知らないみやざき子どもの貧困」という特集記事を任され、取材先を探していた。当時の僕にとって、貧困とはもっと分かりやすく、特別な状態だった。家がなく、食べるものもなく、誰が見ても困っていると分かる家庭。そういうものを想像していた。自分の子ども時代が「貧困」だったとは、まだ考えていなかった。第十四章 菓子パン一つの兄妹当時のあるたすでは、利用する子どもたちに弁当を持参してもらっていた。ちょうどキャラ弁が流行していた。料理が得意な保護者の中には、毎日、驚くほど豪華な弁当を持たせる人もいた。預かっていた子どもの中に、母親が離婚したばかりの兄妹がいた。昼食の時間、その兄妹は豪華なキャラ弁の隣で、菓子パンを一つずつ食べていた。その光景を見たとき、僕は初めて「子どもの貧困」に気づいた。菓子パンを食べる兄妹と、茶色い弁当を食べていた中学生の僕が重なった。これは、自分のことだ。子どもの頃の、自分のことだった。僕は、あるたすに給食の仕組みを導入することにした。弁当屋を回り、「幼児用の弁当を作ってください」と頼んだ。子どもたち全員に給食を出し、給食費は保護者から取らなかった。誰が困っているのかを周囲に分からせる必要はない。みんなが同じ弁当を食べればよい。今思い返せば、この取り組みは子ども食堂のはしりだったのかもしれない。その後、全国で子ども食堂が注目され始めた。子どもの貧困対策として紹介される内容は、自分があるたすで始めたことと重なっていた。延岡でも子ども食堂をやろう。そう考えていると、同じような思いを持つ人たちと出会った。次回第15章「行きづらい」第16章 待ってちゃダメだ第17章 こっちが、すみませんへ続く。


第九章 「父」という文字のある仕事小学校から中学校までは成績がよかったが、高校に入ると、授業についていけなくなった。友達は塾に通っているとか、家庭教師をつけてもらっているとか話していた。そんな話を親にすることはできなかった。継父は真面目な男だった。けれど母はいつも、「もっと稼いでほしい」と発破をかけていた。ちょうどバブルがはじけた頃だった。給料のよい会社を何度も受けては落ちていたようだ。無職の期間も半年以上あった。再就職しても営業ノルマを達成できず、すぐにクビになった。僕は少し軽蔑していた。実の父は仕事のできる男だった。金を稼ぐ男だった。だから女性にもモテ、不倫もしたのだろう。思春期の僕には、表面的には実の父の方が格好よく見えた。対して継父は、情けなく見えた。今なら、継父を単純な悪人だったとは言えない。母から叩かれ、収入を責められ、自分の子ではない僕と取っ組み合いをしながら、それでも家庭にいた。けれど、十五歳の僕にはそんなことは分からなかった。母は稼ぎの悪い継父のことを、僕たちの前で繰り返し悪く言った。特に僕には、「あんなふうになるな」と言った。高校三年生の頃には、僕はすっかり落ちこぼれていた。それでも進学したいという思いは残っていた。僕の中には、「オヤジ」への憧れがあった。子どもたちのオヤジになりたい。家に父親がいない子や、大人の男と関わる機会がない子にとって、頼れる大人になりたい。学校の先生への憧れもあった。しかし、落ちこぼれた自分には非現実的だとすぐに理解した。そこで思いついたのが「保父さん」だった。「父」という文字が入った仕事があることに、強くひかれた。当時はまだ、男性の保育者を「保父」と呼んでいた。男性が保育の仕事を選ぶこと自体、今以上に珍しい時代だった。進路指導の先生に相談すると、笑いながら言われた。「保母さんと仲良くなりたいのか。下心があるのか」真剣に考えていた僕には、つらい言葉だった。親戚に相談すると、こう言われた。「社会福祉士を目指せ」そんな職業があるのかと衝撃を受けた。困っている人の生活全体を、いろいろな方向から支える仕事だと知った。僕が子どもの頃に求めていた大人は、職業として社会に存在していた。第十章 合格しても、進学できない社会福祉士になるには、大学へ行くしかないと知った。当時、社会福祉士はまだ新しい資格だった。その最先端にあると思ったのが、日本福祉大学だった。「ここに行きたい」親に話した。反対された。理由は明確だった。学費を払えない。分かっていた。それでも諦められなかった。受験科目を懸命に勉強し、せめて受験だけでもさせてほしいと頼んだ。そして、奇跡的に合格した。合格通知を手にしても、入学手続きはできなかった。入学金が払えなかった。母は「申し訳ない」と、初めて僕に頭を下げた。責めることはできなかった。さらに頼むこともできなかった。努力すれば夢はかなう。大人は子どもにそう言う。けれど、本人に意欲があり、合格する力があっても、家庭の経済状況によって進路は閉ざされる。それでも諦められず、学費を払える方法を一人で調べた。十八歳の未成年が、自分だけで借金や奨学金を利用することは難しかった。そこで見つけたのが新聞奨学金だった。朝と夕方に新聞を配る代わりに、学費を肩代わりしてもらう。卒業まで新聞販売店の寮に住み込み、決して高くない給料で働き続ける制度だった。四年間をやり通す自信はなかった。二年間なら何とかなるかもしれない。僕は東京の専門学校を受験し、進学した。そこから、地獄が始まった。第十一章 腹が減ったら寝るにかぎる大都会・東京で、僕はいきなりその裏側を見せられた。寮の水道から出る水は赤茶色だった。共同トイレはいつも汚れていた。風呂はなく、海水浴場にあるような簡易シャワー室を配達員同士で奪い合うように使った。中学時代のぼろぼろの二軒長屋より、過酷な環境だった。新聞を毎日、約三百軒に配った。タワーマンションでは建物の中を一軒ずつ回った。大企業へは、肩が抜けそうなほど重い新聞の束を持って行った。購読料は手集金だった。配達時間以外に、一軒ずつチャイムを押して回った。居留守を使う人、払えないという人、配達が遅いと怒る人、記事の内容に文句を言う人。中には、新聞配達という仕事そのものを蔑む人もいた。一緒に働く仲間は、だいたい同じような境遇の学生だった。みんな仲がよく、先輩も優しかった。でも、みんな貧乏だった。「腹が減ったら、寝るにかぎる」そう言った先輩がいた。確かに、その通りだった。ある日、腹が減りすぎて、共同冷蔵庫にあったまんじゅうへ手を伸ばした。先輩が慌てて止めた。「お前、よく見ろ。カビ生えてるぞ。賞味期限も一年前に切れてるやつだぞ」見かねた先輩が、夕飯をおごってくれた。ところが次の日、その先輩は顔を腫らし、あざだらけで出勤してきた。自分を捨てた父親が突然、金を貸せと訪ねてきたらしい。断ると、ぼこぼこに殴られたという。その先輩はいつも、寒い朝にコーヒーをおごってくれていた。その日だけは、僕が聞いた。「ジョージアのテイスティでいいですか?」2本買った。自分にも余裕はなかった。それでも、温かい缶コーヒー一本なら誰かに渡すことができた。学業と勤労の両立は、並大抵ではなかった。仲間の多くが留年し、卒業できなかった。僕は何とか卒業単位を取った。しかし、肝心の社会福祉士国家試験を受けなかった。心が折れていた。合格率の低さもあり、将来を諦めかけた。それでも、「保父」という憧れだけは残っていた。わずかな貯金を元手に、教員養成所へ通った。新聞配達は二度としたくなかったので、あらゆるアルバイトをした。ファーストフード、コンビニ、宴会場のボーイ、家庭教師の営業、携帯電話会社の受付。短期も長期も、さまざまな仕事をした。学校で実習があると、アルバイトができない。収入が減ると、支払いができない。まず止まるのは電気。次にガス。最後に水道。生きる上で必要なものが、どの順番で止められるのかを身をもって学んだ。財布に十一円しかないまま、二週間過ごしたこともある。腹が減ったら、寝るにかぎる。友達の家へ行き、「何か食わせて」と頼むことにも慣れた。当然、学校へ行かなくなった。毎日アルバイトに明け暮れ、将来への希望もなく、その日を生きるだけで精いっぱいだった。僕は、貧困の連鎖のどつぼにはまっていた。次回第12章 逃げるように都会を去った第13章 父になる第14章 菓子パン一つの兄弟へ続く。


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