
第三章 「私にはこの子がいる」
ある冬の寒い朝、けたたましい警報音で目を覚ました。
台所へ行くと、母がひもで縛られていた。そのそばには、あの男が立っていた。
「暴れるから縛った」
そう言われた。
意味は分からなかったが、僕は母のひもを解いた。警報音の理由を尋ねると、ガスコンロからガスが出ているせいだと言われた。
後になって知った。母と男は、僕たち子どもを巻き込んでガス自殺を図ったのだという。母もそれに賛成していたと聞かされた。
僕は理科の授業で習ったガスの性質を思い出した。コンロの栓を閉め、玄関の扉を開けた。ほうきを持ち、天井を掃くようにして空気を動かした。
しばらくすると、警報音は止まった。
家族の命を救ったなどという実感はなかった。ただ、うるさい音を止めなければならないと思って動いただけだった。
そのとき、目にした光景を今も忘れられない。
母は眠っている妹だけを抱きしめて、言った。
「私にはこの子がいる」
僕もそこにいた。
ガスを止め、玄関を開け、家の中の空気を動かした僕も、同じ部屋にいた。
けれど、その言葉を聞いたとき、母に選ばれたのは妹だけなのだと思った。
子どもだった僕が家族を守った。けれど、その場で僕だけが家族の外側へ押し出されたような気がした。
第四章 「その他」に丸がついた日
小学校を卒業したら、また引っ越すと言われた。もう、どうでもよかった。
次に移ったのは、母の実家から少し近い場所だった。二軒長屋のぼろぼろの家。汲み取り式のトイレ、五右衛門風呂、二部屋だけの2K。
それでも、広島で一緒に暮らした男も、その息子たちもいなかった。
学校生活はまあまあ楽しかった。バスケットボール部に入り、友達もできた。同級生の女の子たちが、「家に遊びに行ってもいい?」と聞いてくることもあった。
でも、家を見せたくなかった。
ある日、母から実父に電話をかけるよう言われた。養育費を払ってもらうように伝えろという。電話の横で母は、声を潜めて言った。
「自転車が欲しいと言いなさい」
自分の希望として父に頼むように言われた。子どもの僕が、親同士のお金の話を運ぶ役目になった。
ある夏休みの暑い日、母から「今日は来客があるから、制服を着て家にいて」と言われた。きちんとしたシャツを着て名札を付けた男性が二人やってきた。
その数時間前から、母はなぜかエアコンを切った。
「エアコンは壊れていると言いなさい」
母の軽自動車も、その日だけいつもの駐車場にはなかった。
男性たちは僕にいろいろなことを尋ね、三十分ほどで帰っていった。
後になって、彼らが生活保護の担当者だったと知った。
うちは母子家庭の生活保護世帯だった。
担当者が定期的に訪問するたびに、「エアコンは壊れている」「車はない」と、うそをつくように言われた。なぜそうしなければならないのか、子どもの僕には分からなかった。ただ、大人に本当のことを言ってはいけない家なのだと覚えた。
当時、中学校では毎月、諸費を集める集金袋が配られた。袋には「長子・次子・その他」と書かれていた。同じ学校にきょうだいがいる場合、徴収額が変わるためだった。
僕は長男だった。しかし、僕の袋には「その他」に丸がついていた。
友達が聞いた。
「なんで長男やとに、その他に丸がついてるん?」
僕自身もよく分からなかった。しかし、その質問で気づいた。生活保護世帯だからだ。
僕は母に、もう集金袋を学校へ持って行きたくないと訴えた。母は、毎月納めなくてよいように年間分を一括で払ってくると言い、学校へ行った。
次の日から、朝食はパンの耳だけになった。
第五章 茶色い弁当
僕はバスケットボール部に入っていたが、バッシュを買ってもらえなかった。
しばらくは体育館シューズで練習した。友達にからかわれるのが嫌で、何度も母に頼んだ。ようやく買ってきてくれたのは、コンバースのワンスターだった。
それ、スニーカーじゃん。
そう思ったが、ないよりはましだった。試合に出るときは、後輩のバッシュを借りて履いた。
当時通っていた中学校には給食がなく、毎日弁当を持参した。
母は料理が上手だった。けれど、僕の弁当だけはいつも茶色かった。
魚のあらや大根を、しょうゆで煮ただけのおかず。アルミホイルすら買えなかったのか、ご飯とおかずの仕切りはなかった。昼にふたを開ける頃には、白いご飯まで煮汁で茶色に染まっていた。
隣の弁当には、赤いウインナーや黄色い卵焼きが入っていた。色とりどりのおかずがきれいに仕切られていた。
僕は弁当を隠しながら食べた。食べないという選択肢はなかったが、できるだけ目立たないように急いで食った。
家が貧しいと、子どもは何も分かっていないようで、よく分かっている。
バッシュを持っていないこと。弁当の色が違うこと。集金袋の丸が違うこと。友達の家では当たり前にあるものが、自分の家にはないこと。
一つ一つは小さな違いでも、それが毎日積み重なると、自分だけが別の場所にいるような気持ちになる。
だから家に友達を呼ばなかった。だから本当のことを話さなかった。困っていると知られるくらいなら、何も必要としていない顔をした。
次回
第6章 ザボンの置かれた玄関
第7章「お兄ちゃん」と呼ばれた僕
第8章「ダンディ健吾いるか」
へ続く。



