フェルメール『真珠の耳飾りの少女』、失われた美しさへの挑戦

フェルメール『真珠の耳飾りの少女』の400年のひび割れを高解像度データで蘇らせ、デザイナーやクリエイターの手に渡す新たな創作素材へ。

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ターバンの黄色
2026/06/27 23:21

コツコツと修復作業を進めています。前回の活動報告では、「ターバンの黄色部分では、表面の色層が部分的に失われているように見える箇所があり、服の黄色とは異なる表情を見せています。」と書きました。今回修復した部分を修復前後で比較すると、その違いが分かりやすい箇所がありましたのでご紹介します。注目していただきたいのは、ターバンの中央付近と下側です。修復前はひび割れや色層の欠損によって分かりにくくなっていましたが、修復後はフェルメールが描いた曲面を表現するための柔らかな陰影が、少し見えやすくなったのではないかと思います。私は修復を進めながら、この部分は上に重ねられた色層が部分的に失われているような印象を受けました。もちろん、400年近い年月の中で起きた変化は、顔料や技法だけで説明できるものではありません。それでも、一つひとつ丁寧に修復していくことで、フェルメールがどのような順序で色を重ね、立体感を生み出したのかが少しずつ見えてくるような気がしています。もし実物をご覧になる機会がありましたら、ぜひターバンのこの部分の陰影にも注目してみてください。修復画像と見比べながら鑑賞すると、フェルメールの描画手順を想像する楽しみが、さらに広がるかもしれません。


フェルメールの作品を年代順にじっくりと眺めていると、あるひとつの面白い事実に気が付きます。それは、彼にとっての「赤」という色彩の扱い方の変化です。── 画面から消えていった「赤」の謎『取り持ち女』などの初期の作品では、画面の中に情熱的な赤い上着やカーテンが大胆かつ鮮やかに使われています。『取り持ち女』(1656)フェルメール 出展:wikimediaところが、1660年代半ば(まさに本作が描かれたとされる時代)以降になると、フェルメールの画面の中で「赤」が占める面積は、まるで引き潮のように少しずつ減っていくのです。現在修復を進めている『真珠の耳飾りの少女』でも、画面を大きく支配しているのはお馴染みの「青(ウルトラマリン)」、そして「黄色」と「白」です。では、フェルメールは赤に興味を失ってしまったのでしょうか? ──デジタル上で極限まで拡大し、ひび割れを取り除きながら彼女の顔を見つめていると、まったく逆の答えが見えてきます。── 命を吹き込む、最後のひと筆この作品において、赤はごく限られた場所にしか使われていません。 少女の瑞々しい唇、そして肌の血色(チーク)。しかし、修復作業でピクセル単位まで拡大して見ていると、このわずかな赤は決して脇役などではないことが分かります。むしろ、「少女に生命感を与えるための、最後のひと筆」として、驚くほど計算し尽くされた強烈な存在感を放っているのです。 青と黄色が、画面全体の静けさと美しい調和をつくり、 白(真珠や瞳の光)が、差し込む光のドラマを与え、 最後の赤が、少女の肉体に温かい命を吹き込む。 面積を大きく広げるのではなく、ここぞという一箇所に絞って最高の赤を置く。細部を見れば見るほど、フェルメールは色を「たくさん使う」のではなく、「必要な場所、そこにしかない一点だけに命を宿す」圧倒的な引き算の画家だったのではないか。修復の手を動かしながら、そんな気がしてならないのです。******************************************修正はターバンはの部分、筆後を残すように丁寧に


フェルメールの人物画の魅力の一つは、光によって浮かび上がる青と黄色の美しい色彩のハーモニーにあると思います。『真珠の耳飾りの少女』をよく見ると、一口に黄色と言っても異なる表情の黄色が使われていることが分かります。服に使われているのはイエローオーカー系の落ち着いた黄色。一方、ターバンには鉛錫黄(Lead-Tin Yellow)による鮮やかな黄色が使われていたことが、近年の科学調査によって明らかになっています。昔は「フェルメールはインディアンイエローを使っていた」と紹介されることもありましたが、分析技術の進歩によって、作品に使われた顔料についても少しずつ詳しいことが分かるようになってきました。修復作業で興味深いのは、同じ黄色系の色彩でも、場所によって劣化の現れ方が異なることです。少女の服の黄色部分では、ひび割れは見られるものの、比較的均一な印象を受けます。一方でターバンの黄色部分では、表面の色層が部分的に失われているように見える箇所があり、服の黄色とは異なる表情を見せています。もちろん、400年近い歳月の中で生じた変化は顔料だけで説明できるものではありません。フェルメールが重ねた絵具の層構造、油の配合、キャンバスの動き、さらには過去の修復や保存環境など、さまざまな要因が影響しているはずです。それでも修復を進めながら拡大して観察していると、服の黄色とターバンの黄色では、どこか異なる歳月の重なり方をしているように感じられます。こうした違いを眺めていると、フェルメールがどのような材料を選び、どのように色彩を重ねていったのか、つい想像が膨らんでしまいます。******************************************


『真珠の耳飾りの少女』を修復していると、あらためて驚かされるのが無数のひび割れです。これらのひび割れは、専門用語で「クラック」や「クラックル(クラックリュール)」と呼ばれています。では、なぜ古い油彩画にはこれほど多くのひび割れが生まれるのでしょうか。実は、その最大の理由は「キャンバスに油彩」という構造そのものにあります。まず一つ目は、油絵の具の乾燥です。油絵の具は水彩絵の具のように水分が蒸発して乾くのではなく、空気中の酸素と結びつきながらゆっくりと固まっていきます。しかも、その変化は数年では終わりません。何十年、時には何百年という長い時間をかけて少しずつ硬化が進み、その過程で絵の具の層はわずかに収縮します。その小さな収縮が積み重なり、やがて目に見えるひび割れとなって現れるのです。二つ目は、土台であるキャンバスの存在です。キャンバスは麻布でできているため、湿度や温度の変化によって伸びたり縮んだりを繰り返しています。人間の皮膚が呼吸するように、キャンバスもまた環境に合わせて動いているのです。しかし、その上に乗っている油絵の具はすでに硬く固まっています。柔らかく動く土台と、硬い絵の具。このズレが長い年月の中で蓄積し、ひび割れを生み出していきます。さらに『真珠の耳飾りの少女』の場合は、フェルメール独自の技法も関係していると考えられています。フェルメールは、油を多く含んだ薄い絵の具を何層にも重ねることで、あの独特の透明感や柔らかな光を表現しました。しかし、その繊細な描き方は層ごとの乾燥速度に差を生みやすく、後年になってひび割れが発生する原因の一つになったとも言われています。つまり、私たちが今目にしているひび割れは単なる劣化ではありません。フェルメールが選んだ技法、キャンバスという素材、そして400年近い時間。そのすべてが積み重なって生まれた、作品の歴史そのものとも言えるのです。修復作業では、その歴史に敬意を払いながらも、フェルメールが描いた当時の美しさを感じられるよう、一つひとつ丁寧にひび割れと向き合っています。


今回は、少女の耳飾り周辺を修復しました。ところで皆さん。『真珠の耳飾りの少女』と言えば、あの大きく輝く耳飾りですが……実は、「あれ、本当に真珠なの?」という話があるのをご存じでしょうか。近年の研究では、天然真珠にしては大きすぎることや、金具が描かれていないことなどから、「ガラス製では?」「磨かれた金属かもしれない」という説もあるそうです。さらに、2018年にマウリッツハイス美術館が行った調査でも、耳飾りの材質を特定することはできなかったとされています。つまり、『真珠の耳飾りの少女』なのに、真珠じゃないかもしれない。もしそうなら、フェルメール本人も「いや、そんな名前付けた覚えないんだけど……」と困っているかもしれません。もちろん、本当のところは今も分かっていません。でも、材質が何であれ、400年近くもの間、世界中の人がその小さな輝きに心を奪われてきたことは間違いありません。修復作業で拡大して見ていると、「真珠かどうか」よりも、「どうしてこんなに美しく見えるのだろう」ということばかり考えてしまいます。フェルメールの光の魔法は、まだまだ解けそうにありません。


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