
すべての始まりは、ある古い駅舎を目にしたことだった。
色褪せた木造の改札と、どこまでも広がる海。その景色を見た瞬間、僕の奥底に分厚く沈殿していた過去の記憶が、唐突に、そして暴力的に揺り起こされた。
思い返せば、その記憶の大部分はひどく悲しい色をしている。
かつて僕は、亡くなった恋人の面影から逃れられず、その幻影に引きずられるようにして、二年以上ものあいだ強い酒の底に溺れていた時期がある。
現実は残酷で、人生のツケは必ず後になって請求書が届くようにできている。
当時の泥酔と逃避の代償は、現在の定期的な通院と、決して安くはない高額医療費という形で、僕の日常に重くのしかかり続けている。
それは過去から逃げた自分への、現在進行形の罰のようなものだ。しかし、あの古い駅舎で感じたインスピレーションを、どうしても一つの「物語」として形にしなければならないという衝動が、僕を突き動かした。東京で仕事をしていた時期のことだ。 僕は池袋にある大型書店へ向かい、棚にあるラブストーリーの小説を手当たり次第に買い占めた。そして、無機質なビジネスホテルの部屋に戻り、ベッドの上に本の山を築き上げた。空調の低いモーター音だけが響く殺風景な密室で、過去の記憶と目の前の活字を照らし合わせるように、狂ったように他人のラブストーリーを読み漁った。
その後、僕は結婚という契約を結び、そして離婚を経験することになる。 誰かと生活を共にし、やがて決定的にすれ違い、離れていく。その一連の過程は、僕の思考の根底に深く、二度と消えない傷跡のような影響を刻み込んだ。
永遠などなく、どんなに美しい時間にも必ず終わりが来る。 その冷たい真理を肌で理解したからこそ、書ける言葉があった。喪失、アルコール、病院の領収書、池袋の書店、ビジネスホテルのベッド、そして結婚と離婚。
一見すると無軌道で破綻したそれらのピースのどれか一つが欠けていても、『なぎのえき』という作品は絶対に生まれなかった。
この物語は、僕がこれまでの人生で支払ってきた、重くて苦いツケの結晶そのものなのだ。
誰もいないアンバーの無人駅で、主人公たちが交わす言葉の端々に、僕が置いてきた過去の残骸が落ちている。 この不器用で傷だらけのラブストーリーが、都会のノイズに疲れ、
同じように何かの痛みを抱えて生きる大人たちの心に、少しでも触れることを願っている。



