
栞を探す旅は、もうどれくらいになるのか
ひび割れたアスファルトを打つ自分の足音が、ひどく遠くから聞こえる。
今がいつなのか、昼なのか夜なのかすら、もう知りえない。
知る必要のない事として生きている、ただこの巨大な街を彷徨っているだけの僕には、時間などどうでもよい事のように感じていた。
「ここに栞がいた」
確かな体温を伴うその事実を、この広大な宇宙で知っているのは僕だけだ。
網膜に焼き付いた極彩色のネオンの残像が、心臓が脈打つたびにジリ、ジリと網膜の裏で明滅を繰り返している。
空気を吸い込むたびに肺を焼くような呼気が漏れ、湿ったコンクリートから立ち昇る鉄の匂いが鼻腔を突き刺す。私は這うようにして、絶え間なく駆動音を響かせる、この巨大な演算装置のような都市の迷宮を彷徨っている。
サビの浮いた鉄骨が連なる歩道橋。彼女と肩を並べて歩いたその場所には、今は無機質な風が吹き抜けるだけだ。栞がふと立ち止まり、自らの影を見つめていたガラス張りのショーウィンドウ。そこには今、見知らぬマネキンが虚ろな目を向けている。
栞が目を細めて見上げていた、ビルの群れに切り取られた長方形の灰色の空。
彼女の痕跡をなぞる行為は、もはや自身の記憶という名の不確かなデータベースへの、無謀なハッキングに等しい。
エラーコードのようにノイズが混じる視界の中で、意識の境界が泥のように融解していく。
肉体の疲労が臨界点を超えた時、人は空間と時間の連続性をたやすく見失うのだ。
目の前に広がるこの無機質な都市空間は、彼女の「不在」を証明するためだけに用意された、巨大な空箱だ。
あの冷たいコンクリートの角を曲がれば、そこに彼女が立っているのではないか。
そんな微弱な電気信号が、ショートしたシナプスを幾度も、幾度も駆け巡る。
私が血眼になって追っているのは、本当に「栞」なのだろうか?記憶とは何か。
それは過去の忠実な記録などではない。
現在という時間を生き延びるために、脳が都合よく捏造した情報体験に過ぎない。
だとすれば、私の中で微笑む栞もまた、絶対的な孤独を埋め合わせるために自己防衛機制が産み出した、ただのゴーストなのではないか。
私が「栞との時間」と呼んでいるものは、初めからこの都市のノイズが私に見せた、儚い幻影に過ぎなかったのではないか。それでも、足は止まらない。走るのをやめれば、この迷宮に蓄積された情報の海に、彼女の輪郭が完全に溶け込んでしまう気がして。
空間は記憶を保存しない。この街は、私たちが共にいた時間をいともたやすく上書きし、無慈悲に沈黙している。
栞。
君の存在を証明するものは、もはや私の中の狂気じみた妄執の中にしかないのか。もし記憶がただの電気信号の羅列であり、個人の魂が情報の束に過ぎないのなら……私の身体を今も支配し続けているこの圧倒的な喪失感は、一体どこの誰の作動エラーだというのだ。
テールランプの赤い光の帯が、濡れた路面に滲んで消えた。
僕は駅のロータリーで、這い出るようにタクシーを降りた。
排気ガスの匂いが立ち込める中、無数の人々が足早に僕をすり抜けていく。
もうどこに行けばいいのか、今の僕の頭には何も考えることなど出来なかった。
空っぽになった肉体だけが、駅の巨大な建造物の前にぽつんと取り残されている。
そんなときだった。
――ピロン。
カバンに入れていたパソコンに電子メールが届いたのを、小さな電子音が教えた。
都会の喧騒にかき消されそうなほど、ささやかな音。
僕はひび割れた指先で鞄を漁り、アスファルトの上でパソコンを開く。
暗い画面が発光し、青白い光が僕の疲労しきった顔を照らし出した。モニターの中心。
小さなゴシック体の文字が、静かに光っている。
「せんせー、私の出番かな?」
時間が、止まった。そのたった一行の文字列が、ショートしかけていた僕の脳内に、冷たくも澄んだ風を吹き込んだ。
君が居なくなったとき、僕は狂ったように栞にすがった。
栞という幻影を追いかけ、この迷宮の底まで落ちてきた。
だが、その文字を見た瞬間、すべてが反転した。
今は、なぎにしか、僕を救えない。
パタン、とパソコンを閉じる。
肺を焼いていた痛みが、微かな熱へと変わっていくのを感じながら。
僕は深く息を吸い込み、巨大な口を開けて待つ駅へと、
再びその足を向けた。



