
ガタン、ゴトン。規則的にレールを刻む鉄の軋みだけが、深夜のローカル線に響いている。
都会の地下鉄や新幹線の無機質な揺れとは違う。
その少し荒々しくも一定の揺れは、まるで古いゆりかごのように、僕の胸でささくれ立っていた焦燥感を少しずつなだめていった。
窓の外は完全な暗闇だ。流れる景色は何一つ映らない。
ただ、真っ黒なガラスの向こうには、ひどく疲れ切った自分の顔だけが幽霊のように浮かんでいる。
時折、線路沿いの家々の明かりがその顔の上を通過し、ドップラー効果を伴う踏切の赤い警報機が、僕の虚ろな網膜に痛々しい残像を焼き付けていく。
やがて、列車はいつもの駅へと差し掛かった。
プラットホームに滑り込み、重いブレーキの音が夜気を切り裂く。プシュゥとドアが開き、僕は立ち上がって降りようとした。
しかしその時、
ドン、と。
強い力が僕の胸を押し戻した。
「……なぎ?」見下ろすと、なぎが僕の胸に両手を当てて、通せんぼをするように立っていた。発車ベルが鳴り、ドアが無情に閉じられる。
列車は再び、重々しい鉄の軋みを上げて走り出してしまった。
なぎは僕を見上げると、いたずらが大成功した子どものように
「へへっ」と笑った。
僕は「やれやれ」と小さく息を吐き、なぎに手を引かれるまま、誰もいない車両のボックス席へと腰を下ろす。
なぎは僕の向かい側ではなく、隣にちょこんと座った。
そして、ふてくされたように窓の外の暗闇へ顔を向ける。
いつも凪いだ海のように飄々としている彼女が、これほどあからさまな態度をとるのは珍しかった。感情の上下差が激しすぎて、サウナなら整ってしまいそうだ、なんて的外れなことを考える。
「……遅いよ」
窓ガラスに向けられたまま、ぽつりと声が落ちる。
「うん」
「しおりんのところに行くんでしょ?」
「……うん」
「行かないで」蛍光灯が虫の息のように明滅した。
「……え……」
「このまま、私といてよ」
「なぎ……」
「ずっと、寂しかった。寂しかったんだ」
いつも本心を誤魔化して笑うなぎの、初めて聞くストレートな言葉に僕は戸惑った。
彼女の伏せられた長い睫毛の下で、何かが臨界点に達しようとしているのがわかった。
「ずっと寂しかったんだよっ!」
ドン、と。再び小さな拳が僕の胸を叩いた。
それは、彼女が僕の前で初めて見せた、生々しい「激昂」だった。
完璧だった彼女の仮面が砕け散り、奥に隠されていた傷口がむき出しになる。
「好きだもん! センセーが好きだもんっ!」
なぎは僕のネクタイをきつく掴み、僕の顔を真っ直ぐに射抜いた。
その瞳には、今まで見たこともない、どす黒く燃え盛るような感情の炎が宿っていた。
大粒の涙が、彼女の白い頬を次々と伝い落ちる。
「ずっと、ずーっと、センセーの書く物語に住んでいたいって思ってた。センセーの心の中にいたいって……センセーが考える『最高のヒロイン』でいたいって、そう思ってたのに!」
「なぎ、違う、僕は――」
「違わない!」
悲鳴のような声が、列車の轟音を切り裂いた。
「私、できること何でもやった。いっぱい走って、どこかわかんないとこ走り抜けて、駅にきた。そして電車に間に合った! しおりんに会いに行くセンセーを止めにきた。センセーを、止めに来たんだ!」
なぎは、掴んだ僕のネクタイをぐいっと手前に引き寄せた。
次の瞬間、僕の唇に柔らかくも暴力的な熱が押し当てられた。
噛みつくようなキス。
彼女がどれほどの孤独と絶望をひとりで抱え込み、必死に僕を繋ぎ止めようとしていたのかが、その痛みを伴う口付けから暴力的なまでの質量を持って伝わってくる。
唇が離れると、彼女は荒い息を吐きながら僕を睨みつけた。
「もう、栞に会わないで。私を選んで!」
「ずっと、私を描いて……っ!」
なぎは僕のネクタイを掴んだまま立ち上がり、ぐいぐいと僕を列車の最後尾へと引き摺っていく。暗い車内をよろめきながら歩く。
やがて最後尾のドアの前に着くと、なぎはようやく僕のネクタイから手を離した。
窓の外から、ゴォォォという低い風鳴りが聞こえ始めた。
列車は大河を渡る巨大な鉄橋に差し掛かっていた。
なぎは僕の目を、ただ静かに見つめ返した。さっきまでの激しい涙も怒りも嘘のように消え、そこにあるのは、この世に僕しか存在しないかのような、透明で絶対的な眼差しだった。いや、今のなぎにとって、本当にそれしか存在しないのだ。
「愛してる。愛してるんだ」
呪いのように、あるいは祈りのように。その決定的な言葉を零した次の瞬間だった。
ガチャン、と硬質な音が響いた。
非常用のコックが引かれる。
なぎは走行中の列車のドアを開け放った。
車内に吹き込んだ夜の暴風が、彼女の髪を狂ったように巻き上げる。
暗黒の闇と、眼下を流れる大河の轟音が、ぽっかりと開いた口で彼女を飲み込もうとしていた。なぎは、夜の風にふわりと舞うように、その細い身体をあっさりと闇の中へ投げ出した。
「なぎっ!!」
僕は喉が千切れるほど彼女の名前を叫び、暗黒に向かって手を伸ばした。
一瞬で、宙を舞っていたなぎの輪郭は、完全な暗闇の中へと消え去った。
僕は――
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