『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

現在の支援総額

48,000

1%

目標金額は2,500,000円

支援者数

8

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2026/06/23に募集を開始し、 8人の支援により 48,000円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

現在の支援総額

48,000

1%達成

終了

目標金額2,500,000

支援者数8

このプロジェクトは、2026/06/23に募集を開始し、 8人の支援により 48,000円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

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なぎのえき の付いた活動報告

休日の午後三時。 フローリングの床には、窓枠の形に切り取られた細長い西日が落ちている。光の帯の中を微小な埃が静かに舞い上がるのを、私はベッドに体育座りをしたまま、ただじっと見つめていた。いや、正確には違う。 私の視線の先には、両手で固く握りしめたプラスチックの塊——無機質な緑色のバックライトが鈍く光る、携帯電話の小さな液晶画面があった。カチッ、カチッ。静まり返った部屋に、親指で物理ボタンを押し込む硬いプラスチック音だけが等間隔に響く。 画面に表示されているのは、彼とのメールの保護フォルダ。三日前に交わされた、業務連絡のような味気ない数行の文字。スクロールする度に残像が尾を引くモノクロの液晶画面を、私は親の敵のように睨みつけていた。——彼に、何気ないメールを送りたい。ただそれだけのことが、私にとっては国家の一大事だった。 「やっほー!ひま?」なんて、あの泥棒猫(なぎ)のように本能のまま親指を躍らせることができるなら、どんなに楽だろう。でも、私には無理だ。そんな隙だらけの文章を送れば、「どうしたの? 熱ある?」と本気で心配されるのがオチである。目を閉じると、私の脳内に重厚なマホガニーの扉が現れる。 ガチャン、と重い音を立てて扉が開き、スポットライトに照らされた円卓に、三人の私が召集された。 【議題:彼への自然かつ魅力的なメール送信について】議長・栞(クールな表層)が、冷たい光を反射する眼鏡を中指で押し上げ、口を開く。 「諸君。今回の目的は、あくまで『何気ない日常の共有』から『自然なラリー』を生み出し、最終的に次の約束を取り付けることです。ガッツいていると思われてはいけません。テーマは『たまたま思い出したから連絡してみました』感。以上」戦略家・栞(データと計算の鬼)が、分厚いファイルを机に叩きつけながら身を乗り出す。 「彼の過去一ヶ月のメール受信・返信履歴をクロス集計した結果、休日の15時から16時の間は、送信から返信までの速度が平均12分と最も早い『ゴールデンタイム』です。現在15時15分。好機です。文章は重くならないよう30文字以内、句読点は少なめ、顔文字はあえて無難な『(^_^)』一つに留め、大人の余裕を演出しましょう」情熱の栞(愛が重すぎる本音)が、パイプ椅子を蹴り飛ばして叫ぶ。 「まどろっこしいわね! 『今何してるの? 私はあなたのこと考えてた! 会いたい!』でいいじゃない! なぎがいない今こそ、愛をストレートにぶつけるべきよ!」「長文は重い!!」「却下!!」 議長と戦略家の鋭い声が暗闇の脳内に木霊する。 「そんな重装甲なメールを送ったら、彼が引いてしまいます! 隙です、私たちに必要なのは『計算された隙』と『返信しやすいフック』なのです!」そこから、血を吐くような文章作成委員会が始まった。現実の世界では、床に落ちていた四角い光の模様が少しずつ形を変え、部屋の奥へと伸びていく。 カチ、カチ……ピーッ(クリア音)。 あーでもない、こーでもないと文字を打ち直すたび、親指の腹にはボタンの跡が赤く食い込んでいた。『今日、駅前に新しいカフェができたんだけど、知ってる?』 ——ダメだ。これでは「知ってる」か「知らない」で会話が終了するリスクがある。クリアボタンを長押しする。文字が次々と消去される。『いま〇〇の近くにいるんだけど、時間ある?』 ——誘いが唐突すぎる。断られたときの私のメンタルがもたない。携帯を握る手は汗ばみ、息は浅くなっている。たかが数十文字の文章に、すでに二時間半が経過していた。窓の外は、いつの間にか燃えるような琥珀色から、深い群青色へと沈みかけている。そしてついに、三人の私が固い握手を交わす「奇跡の一文」が完成した。『お疲れ様。前言ってた映画、来週からだね。もし予定空いてたらどうかな? 暇なときでいいんだけど(^_^)』完璧だ。 「前言ってた」で共通の話題を提示し、「どうかな?」で疑問形にして返信を誘発。さらに「暇なときでいい」と保険をかけることで、ガッツいている感を完全に相殺している。控えめな顔文字が、たまらなくクールで大人っぽい。「よし……っ」私は乾いた唇を舐め、深呼吸をした。 震える親指を、決定ボタンの上に乗せる。少しの躊躇いの後、グッと押し込んだ。画面にピコピコと『メール送信中…』の文字が点滅し、小さなピクセル画の封筒が画面の右から左へ飛んでいく。やがてポーン、という気の抜けた送信完了音が部屋に響いた。やり切った。 私はパタンと二つ折り携帯を閉じ、それを祈るように胸に抱きしめながら、仰向けにベッドへ倒れ込んだ。天井の木目をぼんやりと見つめながら、長く、重い息を吐き出す。あとは果報を寝て待つだけだ。——その、わずか五秒後。『ブルルルルルッ!』胸の上で、携帯が暴力的なまでに暴れ出した。 先端のLEDランプが、暗い部屋の中で狂ったように赤い光を点滅させている。 即レス!? 心臓が肋骨を突き破りそうなほど跳ね上がり、私は弾かれたように上体を起こした。震える手でパカッと携帯を開き、新着メールのフォルダを開く。緑色の液晶画面に、彼からのメッセージがゆっくりとスクロールされていく。『おつかれ! 映画いいよ、行こ!』(勝った……!) 脳内で三人の私がガッツポーズをした直後、スクロールした画面の下部から、信じられない文字列が目に飛び込んできた。『てか今、駅前で偶然なぎに会って、一緒に新しいカフェでクレープ食べてたとこ! 栞も今から来る?笑 (ここからなぎ代筆☆ 栞ちゃん早くおいでよー!クレープ美味しいよ!(≧▽≦)/)』——ピシッ。私の脳内で、三時間かけて築き上げた緻密なガラスの城が、木端微塵に砕け散る音がした。(…………泥棒猫ォォォォォォォッ!!!!)文字しかないこの小さな液晶画面から、チョコバナナクレープの甘い匂いと、あの子の無邪気な笑い声が飛び出してきそうだった。 写真すら送れないこの時代に、わざわざ彼のパーソナルスペースに踏み込み、「携帯を奪って代筆する」という物理的な力技で同席をアピールしてくるなんて。三時間かけた私の「大人の余裕」は、あの子の「偶然」と「本能」の前では、ただの紙切れ同然だった。「……行く。絶対行く」低い声が、自分の口から漏れた。 私はベッドから跳ね起きると、クローゼットの扉を勢いよく開け放った。ハンガーがガシャガシャとけたたましい音を立てる。 負けてたまるか。大人の余裕なんて知るものか。私は髪を振り乱し、三分で完璧なメイクを直すと、ひったくるように鞄を掴み、玄関のドアを蹴り開けた。 群青色の夜の底へ向かって、アスファルトを蹴りつける。 やはり私の愛は、今日も底なしに重く、そして見事に空回りしている。


琥珀色に溶け出した夕陽が、スーパーの軒先を淡く、けれど鮮やかに染め上げていた。 手のひらの上で転がる、チープで安っぽいプラスチックの指輪。だけど、それを通した西日の光はキラキラと無数に乱反射して、私の心は今、これ以上ないほどに踊っていた。「ガチャガチャ? 私も回そっかな」不意に、栞が色あせたガチャガチャの機械の前にしゃがみ込み、こちらをちらりと見上げた。 知ってる。栞が、私の指にはめられたこの指輪を、痛いほど意識していることくらい。だけどね、栞。ごめんね。「私が、もらったの」ふふんと鼻先で笑ってみせると、栞はわかりやすくムッとした顔になる。彼女は本当に、驚くほど対抗心が強い。普段は張り合いがないくらい静かで「大人」の仮面を被っているくせに、『彼』のことになると途端に我がままな女の子の顔になるのだ。 少しだけ力んで、ガチャリ、と硬質な音を立ててハンドルを回す栞。ゴロンと転がり出たカプセルの中身を覗き込んで、私はすかさず言い放った。「うわ、はずれ」 「ちょっ、はずれって何よ!」いつもはすかしている栞の、焦り切った見事なツッコミ。それがおかしくて、私はお腹を抱えて笑ってしまった。あぁ、大好き。栞って本当に良い。 もし彼女じゃなかったら、私は絶対に『彼』のそばにはいさせなかった。間違いなく、私のテリトリーから排除していた。 我ながら少し怖い思想だと思うけれど、私はこの三人の、光だまりのような空間が何よりも大切で、愛おしい。三人でキャッキャと騒いで、くだらないことで笑い合っている時間が、たまらなく幸せなのだ。いつか、この魔法みたいな時間は終わってしまうのかもしれない。『彼』が栞と結婚したら、私はいられなくなるのかもしれない。 でも、栞なら、なんだかんだと文句を言いながら私をそばにいさせてくれる気がする。だから、栞がいい。 他の有象無象の女の子は、片っ端から排除する。この前だって、私のクラスの子が「あの先輩いいよね」と頬を染めてきたから、『彼』にまつわる背筋も凍るような「呪われた伝説」をそっと耳打ちしてあげた。内容はもう忘れちゃったけれど、彼女はしばらく小鹿のように震えていたから、かなり効いたみたい。私は、『彼』が好き。大好き。 今、こうして指輪をもらって、空まで跳ね上がりたいくらい嬉しい。嬉しくて、本当につま先で少しだけ跳ねた。もし私と『彼』が結婚したら、栞、いつでも遊びに来ていいよ。いっそ近くに引っ越しておいでよ。 ……あ、我ながらナイスアイデア! それ、すっごくいい! 私の趣味全開でとびきり可愛く飾った愛の巣に、栞が「相変わらず変な趣味してんね」とブツブツ文句を言いながら上がり込んでくるのだ。うん、最高。よし、そうしよう。妄想するだけで、心臓がこれまでにないくらい高鳴って、ワクワクしてくる。 西日に透かしたプラスチックの赤は、世界中のどんな宝石よりも綺麗で、私の胸のずっと奥のほう、一番やわらかい場所をギュッと掴んで離さなかった。 『彼』が私にくれた、不意打ちの、何の計算もない純粋な時間。 それ以来、この指輪は私のポケットの中に潜む、誰にも教えないお守りになった。栞は、頭が良くて、美人で、そして本当に不器用だ。 彼女は自分の愛の重さを隠すために、いつもガチガチに透明な鎧を着込んでいる。 今日だってそうだ。 駅前で待ち合わせた時、『たまたま暇だったから来た』みたいな涼しい顔をして立っていたけれど、私をごまかせるわけがない。 春の風を計算し尽くしたように揺れるシフォンスカート。鎖骨がきれいに見える、絶妙なVネックのベージュのトップス。それに、すれ違う瞬間にだけふわりと鼻先をかすめた、あの花の匂い。 あれは手首でも首筋でもない。わざわざ『膝の裏』に香水を仕込んでいたのだ。どれだけの時間、鏡の前で悩んだのだろう。 どれだけの思考を巡らせて、あの完璧な「隙」を演出したのだろう。すごいなぁ、と思う。純粋に感心してしまう。 彼女は彼を振り向かせるためなら、天気図を読み解き、心理学の本を読み漁り、何日でも平気で徹夜するだろう。その異常なまでの情熱と執着心は、正直ちょっとゾクッとするくらいだ。ちょっと引く。でも、恋敵としては不足なし、だ。でもね、栞。 恋って、数式じゃないんだよ。いくら完璧なコーディネートを計算しても、膝の裏に秘密の香水を忍ばせても。 夕暮れの中、ふざけて笑い合いながらもらった200円のプラスチックの指輪が持つ、あの圧倒的な「熱」には勝てない。私はポケットの中で、赤い指輪の滑らかな表面にそっと指先で触れる。 栞が何日もかけて築き上げた緻密なガラスの城壁を、私はいつだって、しなやかな猫みたいに軽々と飛び越えてみせる。 だって私には、理屈じゃない、この絶対的な「本能(におい)」があるから。長く伸びた三人の影が、オレンジ色の舗道に並んでいる。 私は、この三人でいることが好き。ずっとこうしていたい。永遠に。(ね、センセー。私まだ子供だけどね、『愛』ってなんだか、ちゃんと知ってるよ)


窓辺に差し込む光が少しずつオレンジ色を帯び、キーボードを打つ手を止めてふと外へ視線をやると、いつの間にか空は深い群青へと沈んでいました。 その美しいグラデーションをぼんやりと眺めながら、私の胸の中には今、少しばかりの焦りと、静かな祈りが交差しています。現在公開中のスピンオフ。メロンソーダに落ちたさくらんぼで、涙が出るほど笑い転げるなぎと栞の無防備な日常。 琥珀色の西日のなかでシュワシュワと弾けるその黄金色の時間をテキストに起こしながら、私の心はどこかひどく締め付けられていました。 彼女たちの他愛のない会話が透き通っていればいるほど。その笑顔が、眩しいほどに鮮やかであればあるほど。物語の紡ぎ手である私には、彼女たちがやがて辿り着く「結末」が、鋭利な刃物のように痛く迫ってくるからです。クラウドファンディングの終了が、すぐそこまで近づいてきました。砂時計の最後の砂が落ちていくのをただ見つめているような、そんなもどかしい気持ちで今、画面に向かっています。正直に言ってしまえば、「あぁ、このままではいけない」という焦燥感が、胸の奥でチクリと音を立てています。 もし、このまま時間が尽きてしまったら。あの『真の結末』を、多くの方々の心に届けることができなくなってしまうのかもしれない。そう思うと、絶望にも似たどうしようもない寂しさが込み上げてくるのです。「なぜ、彼女たちにそんな痛みを伴う運命を用意したのか」と問われるかもしれません。 けれど、誤解を恐れずに言えば、それは絶対的な「救い」を描くためなのです。私がどうしても皆様にお見せしたいのは、激しい痛みの果てにある、息を呑むほどに美しいラストシーンです。すべてを喪失したかのように思える深い夜の果て。冷たい鉄の匂いがする、終着駅のホーム。 その暗闇のなかで、なぎの小さな手の中にだけ、確かな光があります。あの琥珀色の夕暮れの中で「僕」が渡した、あのチープな赤いプラスチックの指輪です。「あなたを許さない。…………」それに続く言葉は、決して呪いなどではありません。泥だらけになって、すり減って、それでもなお暗闇の底を這いずり回った彼女たちがようやく見つけ出した、嘘偽りのない純粋な「愛」であり、究極の「救い」の形なのです。プラスチックの指輪が、どんな高価な宝石よりも気高く、美しく輝く瞬間。二人の痛みが昇華され、静かな夜明けの光がホームを包み込む情景は、まるでひとつの絵画のように私の頭の中で鮮明に息づいています。 正直に言います。このラストに行きついたとき、僕は書きながら泣きました。僕自身が、激しい痛みと苦しみの先に見つけた「物語による救い」がそこにあったからです。それがあって初めて、「なぎのえき」は完成します。この美しくも切ない結末が、誰の目にも触れずに、静かに引き出しの奥へしまわれてしまうのは、あまりにも哀しい。 激しく切ない結末の奥底にある静かな夜明けが、日々を戦い、傷つきながら現代を生きる人たちにとっての、「真の避難所(オアシス)」になり得ると強く信じているからこそ、どうか、どうか見届けてほしいのです。残された時間は、あとわずか。 琥珀色の日常から、暗闇のトンネルを抜け、そして迎える眩しい夜明けまで。彼女たちが辿り着くその駅の景色を、一緒に見つめていただけませんか。 どうか、この小さな祈りがあなたに届きますように。


私が自分のことを「ひょっとして私、重い……かも?」と自覚し始めたのは、まだ高校に通っていた頃に遡る。ある日の放課後、校門近くでのこと。 前を歩いていた彼に向かって、なぎがものすごい俊敏さで駆け寄り、小さなラッピング袋を押し付けているのを目撃した。その時のなぎの身のこなしは、まさに「猫」そのものだった。 いや、ただの猫じゃない。あれは私の平穏を脅かす「泥棒猫」の動きだ。 そう直感した私は、気づけば足早に彼に詰め寄り、半ば強引に彼を問い詰めていた。(今思えば、付き合ってもいないのに一体何様だったのだろう)「なにそれ」 「あ、いや、なぎから……」私は彼の手からクッキーを奪い取ると、躊躇なく一口かじった。 誤解しないでほしいが、決して食べたかったわけではない。これはあくまで敵の戦力分析だ。サクッ、と音を立てて崩れたそれは……甘かった。 そして、いかにも市販のミックス粉で作りましたというような、大味で拙い手作りの味。その瞬間、私の中で冷たい炎が燃え上がった。 『これなら、私は勝てる』私はその足でホームセンターへ直行し、ありとあらゆるプロ用の製菓器具を買い漁った。ボウル、粉ふるい、デジタル温度計、シルパット。高校生の小遣いを一瞬で溶かす、それはもう異常な執念だった。翌日の休日は、丸一日キッチンにこもった。 1グラムの狂いも許さず計量し、バターの温度を徹底的に管理する。鬼の形相で生地を練る私を見て、母が呆れたように声をかけてきた。「なに、急に嫁入り修行?」「っ……!!」 表面上は「ただのお菓子作りだけど」とクールに返したものの、私の脳内では『嫁入り』という甘美な二文字が、エコーを伴って無限にリフレインしていた。(危なくボウルを落としそうになった)そして迎えた月曜日。 徹夜の末に錬成された、芸術品のようなクッキーを彼に差し出した。 彼は一口食べると、目を丸くして歓喜の声を上げた。「うまっ!! なにこれ、どこのお店で買ったの!?」(…………やりすぎたーーーーっ!!!)私は、見えない巨大なハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。 プロのクオリティに近づけることを追求しすぎた結果、一番大切な「女の子の手作り感」を完全に消し飛ばしてしまったのだ。これでは、ただの「美味しい高級クッキーを買ってきて配る謎の同級生」ではないか。「……うん。適当に作ったから、別に残してもいいけど」私は必死に無表情を作ってそう言い残し、足早に立ち去った。 あれは大失敗だった。その日の夜、私の脳内では緊急懲罰会議が開催された。 議題は『なぜ手作りの温もりを排除してしまったのか』『いくら美味しくても、あれでは隙がない!』 『やはり、少しは不慣れで「かわいい余白」を残す必要があるのではないか!』完璧であろうとする自分を糾弾し、いかにして「計算された不器用さ(かわいい余白)」を演出するかを真剣に議論するという、ひどく矛盾した会議。あの頃から私の愛は、どうしようもなく重く、そして空回りし続けていたのだ。あの手作りクッキー大失敗事件から、少しの季節が巡った。制服という最強の鎧を脱ぎ捨て、少し所在ない春休みの午後。窓から差し込むうららかな春の陽気にまどろみながら、ベッドでゴロゴロと雑誌をめくっていた私のスマホが、不意にブルッと震えた。一人暮らしにもなれ、すこし余裕も感じられる頃。画面に表示された文字を見て、私の呼吸がピタリと止まる。『明日、ちょっと買い出し付き合ってくれない?』彼からのメッセージだった。 画面を見つめる私の顔は、おそらくシベリアの永久凍土のように冷たく、凪いでいたはずだ。私は無表情のまま画面を数回タップし、極めて事務的に『いいけど。何時?』とだけ返信した。・・・・・余裕はどこにいった? 数秒後、『10時に駅で!』と、彼の性格そのままのシンプルな返信が来る。「……よしっ!!」私はスマホをベッドの奥深くに放り投げ、両手で渾身のガッツポーズをした。もしここにバレーボールのネットがあれば、間違いなく実業団レベルの完璧なアタックが決まっていたはずだ。買い出し? 違う。彼と私、二人きり。これは紛れもなく「デート(仮)」である。 その瞬間、私の頭の中でけたたましいエマージェンシー・サイレンが鳴り響き、緊急脳内会議が招集された。【議題:明日の勝負服(※あくまで買い出しを装うこと)について】脳内の重厚なマホガニーの円卓を囲むのは、3人の私。議長・栞(クールな表層)が、コンコンとペンで机を叩いた。 「落ち着きなさい、諸君。明日はあくまで『日用品の買い出し』です。ここで気合いを入れすぎれば、『買い出しごときで張り切ってる痛い女』の烙印を押されます。テーマはあくまで『たまたま近くにいたから来ました』感。以上」戦略家・栞(データと計算の鬼)が、キラリと光る眼鏡を押し上げる。「甘いですね、議長。明日の気温は24度、南南西の風3メートル。訪問予定のホームセンターは駅から徒歩15分です。歩きやすさを考慮しつつ、彼との身長差15センチを活かして上目遣いを誘発するため、ヒールは3センチがベスト。また、心理学的に『守ってあげたい』と思わせる淡い寒色系の投入を推奨します」情熱の栞(愛が重すぎる本音)が、バンッと机を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。 「馬鹿言ってんじゃないわよ! デートよ!? 二人きりなのよ!? なぎがいないこの千載一遇のチャンスに、私の女としての魅力をヤツの網膜に焼き付けるべきでしょ! 先月買ったあの背中がガッツリ開いた黒のワンピース! あれでいくわ!!」「却下!!」 議長と戦略家が同時に叫んだ。「白昼のホームセンターに背中丸出しの女がいたらただの不審者よ!」と議長が嗜める。 「それに、黒はなぎのパーソナルカラー(明るい原色)との対比としては強いですが、親しみやすさに著しく欠けます!」と戦略家も続く。しかし、情熱の栞も食い下がる。 「じゃあどうするのよ! いつもみたいなスキニーパンツじゃ、ただの友達止まりじゃない! 鎖骨! せめて鎖骨と手首、足首の『3つの首』は確実に出していきなさいよ!」「……一理あります」 戦略家が顎に手を当てて頷いた。 「風速3メートルを利用し、歩くたびにふわりと揺れるシフォンスカート。トップスはVネックで鎖骨を強調。しかし色はあえて無難なネイビーにし、清楚さと『隙』を意図的に演出しましょう。香水は手首ではなく、すれ違った時にだけふわりと香るよう、膝の裏にワンプッシュ」「それよ!! 完璧!!」 「……まあ、それくらいなら『気合い入ってる感』は誤魔化せるわね」脳内会議は全会一致で可決された。 しかし、現実はそう甘くない。「……丈が違う。風になびかない」 「トップスのVが浅い! もっと! もっと鎖骨のラインを!」 「色が微妙に顔色に合わない! 却下!」気づけば深夜3時。 春の夜風が吹き込む私の部屋のベッドの上には、エベレスト級の服の山が築き上げられていた。 何度も着替えては鏡の前に立ち、一人でターンを決めて風の抵抗を確かめる。結局、私が「究極の無造作(に見せかけた緻密な計算の結晶)」のコーディネートを完成させたのは、窓の外の空が白み始め、遠くでスズメがチュンチュンと鳴き始めた頃だった。——翌朝、10時。駅前。春の穏やかな日差しが、ロータリーのタイルの上をキラキラと照らしている。「ごめん、待った?」少し息を切らしながら駆け寄ってくる彼を見て、私の心臓はけたたましく跳ねた。寝不足で頭はフラフラするし、計算通り南南西の風は吹いているものの、膝の裏の香水がちゃんと香っているか気になって仕方がない。けれど私は、心の中の巨大なハリセンで自分を落ち着かせ、彼に向かってふっと涼しげに微笑んだ。計算し尽くされた角度で髪を耳にかけながら、口を開く。「ううん、私も今来たとこ。……別に暇だったし、早く行こ」本当は朝4時からメイクとヘアセットの準備をして、駅には90分前に着いて、彼がどのルートから来ても一番美しく見える立ち位置を検証していたことなんて、絶対に死んでも知られてはいけない。そんなの、ただの重い女じゃん。 違う、私は重くない。気をつけてる。 しいて言うなら、そう、私は「想い女」だ。重いんじゃない、想いが深いだけ。そんなイタい自己弁護を脳内で展開しながら、私は彼に気づかれないように深く息を吸い込み、春風とともに歩き出した。


https://camp-fire.jp/projects/959373/view/activities/864281#main(この話の直後の話です)「あぁぁぁああぁあぁっ!!!」私はベッドの上で、お気に入りのサメの抱き枕に顔を全力で押し付けながら声にならない絶叫を上げた。 そのままドタバタと両足をばたつかせ、ベッドの右端から左端へと猛スピードでゴロゴロ転げ回る。勢い余ってドンッ!と床に落ちたが、痛みよりも恥ずかしさが圧倒的に勝っていて、私はフローリングに仰向けになったまま天井を虚ろに見つめた。「朝チュンとか、ライトノベルでしか読んだことなかったー! ……って、チュンじゃないわっ!」窓の外から聞こえてきたのは、爽やかな小鳥のさえずり私、何やってんだろ。 いや、本当に、何やってんだろ。昨夜の記憶が、高画質・フルカラー・立体音響で脳内に再生される。なぎの『せんせー、帰ってないの?』という能天気な声。 ガチャガチャと鍵を探す音。 石像のように固まる彼。普通なら、あそこで「やばい! 隠れて!」とパニックになって服をかき集める場面だ。百歩譲って、息を殺して震えるのが正解だろう。 それなのに昨日の私は、なぜか「彼に馬乗りになったまま、両手で彼の耳を塞ぎ、『もっと……』と囁く」という、深夜のサイコサスペンスドラマの犯人のような奇行に走ってしまったのだ。「……っはぁぁ、死にたい……」両手で顔を覆い、床の上を芋虫のように這いずる。あの時の私は、間違いなくどうかしていた。なぎの気配を感じた瞬間、頭の中で『絶対に、誰にも奪われたくない』というアラートがけたたましく鳴り響き、理性が完全にショートしたのだ。 結果として発現したのが、あの「外部の音を物理的に遮断する強烈な独占」である。字面だけ見れば、なんかちょっと猟奇的で愛が重いヒロインに見えなくもない。 でも、現実問題として彼の立場になって考えてほしい。しかも物理で防ぐとかどうかしてるっ!めちゃくちゃ怖かったよね!? 「えっ!?」って言ってたよね!? そりゃそうだ。玄関の外に彼女(なぎ)がいる絶体絶命のピンチに、上の女が暗い目をして両耳を塞いできたら恐怖でしかない。完全にホラーだ。私、井戸から出できたの?「というか、なんでチェーンかけてたの私! ファインプレーすぎるでしょ過去の私!」もしあの時、チェーンがかかっていなくてドアが開いていたらと思うと、一瞬で血の気が引く。 結局なぎは「あれー? 鍵忘れた? まっ、いっか! またねー!」と、驚くほどあっさりと帰っていった。(彼女のそういう底抜けの抜けた明るさに、何度救われ、何度苛立ったことか)なぎの足音が遠ざかった後、彼とどんな顔をしてたのか、行為を続けたのか、実はあまり記憶がない。 ただ、静寂が戻った部屋で、私の両手が彼の耳を塞いだままだったことに気づき、「あ、ごめん」と素に戻って手を離した時の、あの尋常じゃない気まずさだけは鮮明に覚えている。「あーもう! 次どんな顔して会えばいいの!」というか、キッチンで朝ごはんを作ってくれている。スーパーダーリンかっ!私、サイコキャラだよー。私は床から跳ね起きると、再びベッドにダイブし、枕をボコボコに殴りつけた。シーツがくしゃくしゃになり、息が上がる。でも。 ふと、動きを止める。彼を塞いだ私の両手。あの時、確かに彼の体温が私の中にあった。彼を独り占めにしたという、暗く甘い背徳感と、あの時の彼の戸惑った顔。「…………悪くは、なかった、かも」誰もいない部屋でポツリと呟いた途端、顔から火が出るほど赤くなるのがわかった。 私は再びサメの抱き枕を拾い上げ、顔を埋めて、今日何度目かわからない静かな絶叫を上げたのだった。


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