休日の午後三時。 フローリングの床には、窓枠の形に切り取られた細長い西日が落ちている。光の帯の中を微小な埃が静かに舞い上がるのを、私はベッドに体育座りをしたまま、ただじっと見つめていた。いや、正確には違う。 私の視線の先には、両手で固く握りしめたプラスチックの塊——無機質な緑色のバックライトが鈍く光る、携帯電話の小さな液晶画面があった。カチッ、カチッ。静まり返った部屋に、親指で物理ボタンを押し込む硬いプラスチック音だけが等間隔に響く。 画面に表示されているのは、彼とのメールの保護フォルダ。三日前に交わされた、業務連絡のような味気ない数行の文字。スクロールする度に残像が尾を引くモノクロの液晶画面を、私は親の敵のように睨みつけていた。——彼に、何気ないメールを送りたい。ただそれだけのことが、私にとっては国家の一大事だった。 「やっほー!ひま?」なんて、あの泥棒猫(なぎ)のように本能のまま親指を躍らせることができるなら、どんなに楽だろう。でも、私には無理だ。そんな隙だらけの文章を送れば、「どうしたの? 熱ある?」と本気で心配されるのがオチである。目を閉じると、私の脳内に重厚なマホガニーの扉が現れる。 ガチャン、と重い音を立てて扉が開き、スポットライトに照らされた円卓に、三人の私が召集された。 【議題:彼への自然かつ魅力的なメール送信について】議長・栞(クールな表層)が、冷たい光を反射する眼鏡を中指で押し上げ、口を開く。 「諸君。今回の目的は、あくまで『何気ない日常の共有』から『自然なラリー』を生み出し、最終的に次の約束を取り付けることです。ガッツいていると思われてはいけません。テーマは『たまたま思い出したから連絡してみました』感。以上」戦略家・栞(データと計算の鬼)が、分厚いファイルを机に叩きつけながら身を乗り出す。 「彼の過去一ヶ月のメール受信・返信履歴をクロス集計した結果、休日の15時から16時の間は、送信から返信までの速度が平均12分と最も早い『ゴールデンタイム』です。現在15時15分。好機です。文章は重くならないよう30文字以内、句読点は少なめ、顔文字はあえて無難な『(^_^)』一つに留め、大人の余裕を演出しましょう」情熱の栞(愛が重すぎる本音)が、パイプ椅子を蹴り飛ばして叫ぶ。 「まどろっこしいわね! 『今何してるの? 私はあなたのこと考えてた! 会いたい!』でいいじゃない! なぎがいない今こそ、愛をストレートにぶつけるべきよ!」「長文は重い!!」「却下!!」 議長と戦略家の鋭い声が暗闇の脳内に木霊する。 「そんな重装甲なメールを送ったら、彼が引いてしまいます! 隙です、私たちに必要なのは『計算された隙』と『返信しやすいフック』なのです!」そこから、血を吐くような文章作成委員会が始まった。現実の世界では、床に落ちていた四角い光の模様が少しずつ形を変え、部屋の奥へと伸びていく。 カチ、カチ……ピーッ(クリア音)。 あーでもない、こーでもないと文字を打ち直すたび、親指の腹にはボタンの跡が赤く食い込んでいた。『今日、駅前に新しいカフェができたんだけど、知ってる?』 ——ダメだ。これでは「知ってる」か「知らない」で会話が終了するリスクがある。クリアボタンを長押しする。文字が次々と消去される。『いま〇〇の近くにいるんだけど、時間ある?』 ——誘いが唐突すぎる。断られたときの私のメンタルがもたない。携帯を握る手は汗ばみ、息は浅くなっている。たかが数十文字の文章に、すでに二時間半が経過していた。窓の外は、いつの間にか燃えるような琥珀色から、深い群青色へと沈みかけている。そしてついに、三人の私が固い握手を交わす「奇跡の一文」が完成した。『お疲れ様。前言ってた映画、来週からだね。もし予定空いてたらどうかな? 暇なときでいいんだけど(^_^)』完璧だ。 「前言ってた」で共通の話題を提示し、「どうかな?」で疑問形にして返信を誘発。さらに「暇なときでいい」と保険をかけることで、ガッツいている感を完全に相殺している。控えめな顔文字が、たまらなくクールで大人っぽい。「よし……っ」私は乾いた唇を舐め、深呼吸をした。 震える親指を、決定ボタンの上に乗せる。少しの躊躇いの後、グッと押し込んだ。画面にピコピコと『メール送信中…』の文字が点滅し、小さなピクセル画の封筒が画面の右から左へ飛んでいく。やがてポーン、という気の抜けた送信完了音が部屋に響いた。やり切った。 私はパタンと二つ折り携帯を閉じ、それを祈るように胸に抱きしめながら、仰向けにベッドへ倒れ込んだ。天井の木目をぼんやりと見つめながら、長く、重い息を吐き出す。あとは果報を寝て待つだけだ。——その、わずか五秒後。『ブルルルルルッ!』胸の上で、携帯が暴力的なまでに暴れ出した。 先端のLEDランプが、暗い部屋の中で狂ったように赤い光を点滅させている。 即レス!? 心臓が肋骨を突き破りそうなほど跳ね上がり、私は弾かれたように上体を起こした。震える手でパカッと携帯を開き、新着メールのフォルダを開く。緑色の液晶画面に、彼からのメッセージがゆっくりとスクロールされていく。『おつかれ! 映画いいよ、行こ!』(勝った……!) 脳内で三人の私がガッツポーズをした直後、スクロールした画面の下部から、信じられない文字列が目に飛び込んできた。『てか今、駅前で偶然なぎに会って、一緒に新しいカフェでクレープ食べてたとこ! 栞も今から来る?笑 (ここからなぎ代筆☆ 栞ちゃん早くおいでよー!クレープ美味しいよ!(≧▽≦)/)』——ピシッ。私の脳内で、三時間かけて築き上げた緻密なガラスの城が、木端微塵に砕け散る音がした。(…………泥棒猫ォォォォォォォッ!!!!)文字しかないこの小さな液晶画面から、チョコバナナクレープの甘い匂いと、あの子の無邪気な笑い声が飛び出してきそうだった。 写真すら送れないこの時代に、わざわざ彼のパーソナルスペースに踏み込み、「携帯を奪って代筆する」という物理的な力技で同席をアピールしてくるなんて。三時間かけた私の「大人の余裕」は、あの子の「偶然」と「本能」の前では、ただの紙切れ同然だった。「……行く。絶対行く」低い声が、自分の口から漏れた。 私はベッドから跳ね起きると、クローゼットの扉を勢いよく開け放った。ハンガーがガシャガシャとけたたましい音を立てる。 負けてたまるか。大人の余裕なんて知るものか。私は髪を振り乱し、三分で完璧なメイクを直すと、ひったくるように鞄を掴み、玄関のドアを蹴り開けた。 群青色の夜の底へ向かって、アスファルトを蹴りつける。 やはり私の愛は、今日も底なしに重く、そして見事に空回りしている。





