
「美の基準かるた」制作プロジェクへのご支援、ありがとうございます! クラファンは残り1週間ほどとなりました。ご支援いただいた方が100人を超え、たいへんありがたく、心強いです。目標達成に向けてラストスパートがんばります…! 最後まで温かく見守っていただけたらうれしいです。
前回ご紹介した建築家の池上修一さんに続き、同じく「美の基準」づくりに関わられた野口和雄さんからも応援メッセージをいただきました!
野口和雄(都市プランナー)
「美の基準かるた」なんて、よく気がつきましたね。考えてみれば、
言語基準 ⇒ 美の基準 ⇒ どう伝えるか ⇒ つい口ずさんでしまい、理解してもらえるには… ⇒かつて、誰もが百人一首で覚えた美しい日本語 ⇒ 正月のカルタという伝統
と、思いついた真鶴の人たちはすごい!
(そして、いつの間にか、真鶴に多彩な才能の人たちが集まるようになったのもすごい…!)
真鶴町に関わるようになってから、私はずっと、川上宏美が『真鶴』という作品で描いた、その心象風景について考えてきました。彼女が真鶴に何を感じたのか…。
彼女が『真鶴』で書いたのは、何者かが後ろからついてくる、それは失踪した夫だった、という物語なのですが、真鶴を歩いて「異界」を感じたということだったのでしょう。
…と、みな言っていますね。川上宏美は、真鶴のリアルな風景を描写したわけではないのに、そんなふうに感じたということでしょうか?
真鶴を歩くと、古い小松石の石積み、道祖神、石碑などが目につきます。真鶴を訪れた人は、近代化したコンクリート、鉄骨による組立小屋が建ち並ぶ世界から、別の世界に飛び込むのです。まったく空気感が異なります。人々が目にするのは、感じるのは、きっと中世、近世にから時間をかけてつくられてきた町の姿なのでしょう。
それは、たくさんの石工、漁師、海運やみかんづくりに関わった人たち、そして、江戸から上方(紀州、泉州、京都)から九州(黒田藩)など、いたるところから真鶴に来ていた人たちがつくり上げてきた文化であり風景だったのだと、思うようになりました。地理的・地形的要因から、真鶴地区も岩地区も、当時の風景が断絶することもなく継続しているのだろうと思うようになりました。
そして、真鶴に技術や文化を伝えたのは、鎌倉時代の石工、江戸時代の鯔と鯛の漁師、そして恐らく僧侶も、みんな上方の人たちだったそうです。真鶴は移住者によって栄えた町だったのですね。そんな「真鶴と旅の人との関係」については、故・三木元町長から酒の席で何度も聞きました。
新しくできる小中一貫校で、子どもたちが「美の基準かるた」で遊ぶ姿を、一杯やりながら空想しています。うれしいなー。



