「AFFECTUS vol.3」出版プロジェクトがスタートして3日目の今日。 目標金額100%を達成することができました。 今回のクラウドファンディングは、All-or-Nothing形式だったため、100%達成しないとプロジェクトが実行できませんでした。 けれど、スタートから3日目という想像以上のスピードで達成することができ、「AFFECTUS vol.3」を出版できることになりました。 プロジェクトがスタートしてすぐに支援や拡散してくださったみなさんのおかげです。 本当にありがとうございました! 今朝、InstagramのAFFECTUSアカウントでも述べましたが、正直始める前は不安でした。 「本当に達成できるだろうか?」 これがクラウドファンディングの怖さだと思います。目標金額の大小に関わらず、プロジェクトを成功させることは難しいです。 しかし、これまで自分がやってきたこと、これからの自分がやっていきたいこと=SNSのパワーを通して、100%達成に向けて動いてきました。そして、SNSを通したみなさんの力で、プロジェクトの成功を実現することができたと僕は実感しています。 AFFECTUSはこれまでメディアに一度も掲載されることなく、SNSでたくさんの人たちが広げてくれた、SNSから生まれた本です。今僕は、この本をさらに多くの方に読んでもらいたいと思っています。 「ファッションを読む体験を通して、次世代のファッション好きを増やす」 このために。 この3日間で合計100冊を超えるAFFCTUSを購入していただけました。プロジェクトは今月29日まで続きます。今実現させたいのは、合計1000冊の出版です。1ヶ月で1000冊。今の自分にとっては、とても高い数字です。けれど、その数字を達成させたいです。そのインパクトが、また多くの人のところへAFFECTUS=ファッションを読む体験を届ける。そう信じています。 今夜は後ほど、「AFFECTUS vol.3」収録タイトルの第3本目をご紹介します。 みなさま、この度はご支援とご協力、ありがとうございました。 今後とも応援よろしくお願いします。 新井茂晃
AFFECTUS vol.3に収録するタイトルのご紹介、今夜は第2本目になります。 カッコイイ服やカワイイ服を着る以上に、個性を表現できる方法があることをご存知でしょうか。それは「美しくない服を着る」ことです。 そのことを、ある二人のデザイナーが教えてくれました。今や彼を中心に世界のファッション界は動いていると言ってもいいデムナ・ヴァザリア。その彼が率いるヴェトモンと、今年惜しまれながらセリーヌを退任した、世界中の女性を熱狂させてきたフィービー・ファイロが教えてくれました。今夜はそのことについて書かれたタイトルになります。 ぜひ読んでみてください。 「美しくない服を着ることで現れる個性」 メイドインジャパンを特集したGINZA最新号。その中で僕が最も印象に残ったページは、メインであるはずのメイドインジャパン特集ではなく、女優の木村佳乃さんがヴェトモンを着ていたファッションフォトだった。その写真には、僕がこれまでテレビドラマや映画で何度も目にしてきた木村佳乃さんの姿よりも、ずっと魅力的な木村佳乃さんが写っていた。 彼女が着ていたヴェトモンの服は、身体のラインを綺麗に見せるとは真逆のビッグシルエットで、フェミニンな要素なんてまったくない。例えばオートクチュール黄金期に端を発する王道エレガンスと照らし合わせれば、決して美しいとは言えない服だ。けれどそんな服を着た姿が、とても魅力的だった。そこには、可愛さや綺麗さとは別の、木村佳乃さんだけが持つ「何か」が立ち上がっていたように感じた。そして同様のことを、僕は今のセリーヌからも感じている。 近年のセリーヌは、もはやトレンドセッターではない。現在のフィービー・ファイロのコレクションは、クロエ時代やセリーヌ初期のような「着たい!欲しい!」という感性へストレートに訴えかける服を作っていない。今のセリーヌは、時代のニーズを捉える服ではなく、例え否定されてでも新しい価値感を提案しようとするアヴァンギャルドなブランドに変貌した。2017RESORTを見た時、僕は驚いた。そこにあった服は1980年代のメンズスーツのシルエットだったからだ。誇張されたショルダーラインのジャケット、ボリューミーなタックパンツ。日本ではバブルと呼ばれていた時代のシルエットだ。この服を、現代の女性が着る提案がなされている。他のルックにしても、あえて「異物」を取り入れたようなデザインが多い。一目見て素直に美しいとは思えない服だ。 ヴェトモンとセリーヌの服を見て、服を着る女性の個性をより強く濃く立ち上がらせるには、美しさや可愛さを感じさせる服ではいけないのではないかと僕は感じた。異物のある服こそ、女性の魅力、その女性しか持ち得ない魅力を最も強く濃く引き出すのではないだろうか。 そういう服は、ファッション史を振り返るとヴェトモンやセリーヌ以外にも存在していたことがわかる。代表的な服は、コムデギャルソンのコブドレスだ。ただ、個人的にはコブドレスはその造形が強烈すぎるがゆえに、着る人の個性を霞ませているように感じる。異物を取り入れながらも、着る女性の個性を霞ませずに立ち上がらせる服。その服として僕が一番だと思うのは、1989年春夏でマルタン・マルジェラが発表した袖山を詰めたジャケットだ。ファッション史に残る名作。そのジャケットだけではない。初期のマルタン・マルジェラの服には、異物を取り入れたリアルな服が多い。そしてその服を着たモデルたちがやたらカッコいい。 そのモノが持つ要素とは真逆の要素を持ってくると、そのモノが持つ本質が魅力的に立ち上がる。世界にはそんなルールがあるようだ。お汁粉やスイカに塩をかけると、より甘さが際立つように。それは服も例外ではないことは、「初期(あえて強調)」のマルタン・マルジェラの服が教えてくれる。 綺麗さや可愛さを感じずに、服を着た自分の姿を見て「なんだかいい」と思える服。やっかいな服だ。そんな複雑なことを考えず、単純に可愛い、綺麗と感じる服を着ればいい。そうも僕は思う。いや、その一方で、綺麗さや可愛さといった従来の服の価値観から離れた服を着たいんだ、見たいんだ、とも思ってしまう。 ウェブの進化とSNSの登場で、遠くへの憧れよりも自分の価値観と共感できるモノやヒトと共にすることが楽しく心地いい現代。そういう現代には、美しくない服を着て、自分にしかない何か=個性を立ち上がらせることを試みてもいい。新しい時代の、新しい価値観で服を着てみる。そんな服の楽しみが、これからの時代にはあってもいい。 <了> *こちらのタイトルは、note「AFFECTUS」にアップされた「美しくない服を着ることで現れる個性」と同じ文章になります。
「AFFECTUSって、何を書いているの?」 そう思われる方もいると思います。 そこで、本日からAFFECTUS vol.3に収録されるタイトルを、毎日1本ずつご紹介していきます。vol.3収録のすべてのタイトルは、note「AFFECTUS」にアップされていまして、読むことができます。 今日は素材にまつわる話です。人は服を着ているとき、素材から感じた「気持ちいい」「なめらか」「やわらかい」といったイメージも着ているのではないでしょか。 「人は素材のイメージを着ている」 言わずもがな服において素材の果たす役割は、とても大きく重要だ。例えば、同じパターンとデザインの黒いジャケットでもコットンとウール、素材が異なるだけでも、その印象は大きく変わってくる。服の価値(ここでいう価値とは服を着たくなる・欲しくなるというもの)を作る上で、最も大きい役割を果たすのは素材かもしれない。 最近、生地のことを考えていたら、ふと思った疑問がある。アウターは素材の肌触りにこだわる必要があるのか、ということである。 服は肌に触れるものだから、素材の肌触り(以降、素材感と言う)は気持ちのいいものであったほうがいい。特に直接肌に触れる面積の大きいシャツやカットソー、ニットにとって素材感の良さは大切だし、消費者としてその商品を購入するか否かの条件にも入ってくるだろう。しかし、ジャケットやブルゾン、コートは直接肌の上から着るわけではない。インナーにシャツやニットなどを着てその上から羽織るスタイルが通常だろう。だったら、素材感は最低限のレベルはクリアして、そこまでこだわらずシルエットや色、着用時の重量などの外観と着用感のパフォーマンスで十分な成果があげられる素材であればいいのではないかと思った。 しかし、現実は違う。人はアウターの素材感も重要視する。シャツやカットソーに比べたら、肌に触れる面積が圧倒的に少ないというのに。 例えば、外観が素晴らしく美しいまったく同じデザインのコートが2着あるとする。一方の素材感は触れると指に滑らかさが伝わってきて、触れていることが気持ちいいと実感できる。もう一方は、ざらつきがひどく、生地の表面に触れた瞬間、眉間にシワが寄ったのが自分でもわかった。一体どちらのコートの売れ行きがいいだろう。実験をしたわけではないので、正確な反応はわからないが、おそらく素材感の気持ちいいコートのほうが売れるのではないか。ここに服の特徴と面白さが現れている。 服は外観を楽しむものなのに、着用者がその外観を楽しめるのは鏡に映った自分の姿を確認したときか、写真に映った自分の姿を見たときぐらいしかない(動画でもいい)。服は外観を楽しむもののはずなのに、着用者がその楽しむ時間は一瞬でしかない。歩いているとき、食事をしているとき、友人と会っているとき、自分が鏡で見た姿の印象で周囲の人からも見られていると感じている。しかし、その感覚が本当に正しいのか。もしかしたら、立ち止まっている姿はよくても、歩いている姿の印象が「こう見られたい」と自分の描いているイメージと違っていることがあるかもしれない。その逆もあるだろう。その服を着て、歩いている姿のほうが立ち止まっているときよりもずっと魅力的。そんな服もあると思う。たぶん、ヨウジヤマモトはそういう類の服だろう。そしてマルジェラのエルメスも。 つまり、人は服を着ているのではなくイメージを着ていることになる。そのイメージが、鏡を離れてからも人の頭と心を支配している。服はイメージを楽しむもの。そのイメージは、シルエットや色などの目に見えるものだけではなく、素材感という目には見えない感覚にまで及ぶ。素材に触れて気持ち良さを感じたなら、その気持ち良さという素材のイメージも着ていることになる。 余談だが、僕の好きなコットンの原料にトルファンというものがある。中国の新疆(しんきょう)ウイグル自治区で生産されている、世界の高級コットンに数えられる原料だ。数年前、今回の「MISTER TAILER」2016AWのチェスターコートとボタンダウシャツに使った生地の生地会社で、トルファンを使った生地を見せてもらったことがある。その触り心地に驚いた。空気が形になったら、こんな触り心地なんじゃないか。そう思えた感触だった。その日以来、いつか使いたいと持っている原料の生地だ。 ただ、トルファンを使えばその感触が生まれるのかと思ったら、そうではない。当たり前の話だと怒られそうだが。後年、別の大手生地会社でトルファンを使ったコットン生地に出会った。けれど、その触り心地にがっかりした記憶がある。全く違っていた。素材は原料・糸(紡績)・織り方&編み方の3種類が成立してこそ。そのことを学んだ。 人は素材を着ているのではなくて、素材のイメージを着ている。どんな肌触りを感じてもらいたいか。肌触りをデザインする。その感覚は服にリアリティが必須のこれからの時代、より大切になると僕は思っている。かっこよさや美しさよりも大切な価値が、服に生まれる可能性があるのではないだろうか。 <了> *こちらのタイトルは、note「AFFECTUS」にアップされた「人は素材のイメージを着ている」と同じ文章になります。