AFFECTUS vol.3に収録するタイトルのご紹介、今夜は第11本目になります。 今、ラフはカルバン・クラインで時代の新しい価値観を作るチャレンジを始めています。その第一歩となったカルバン・クラインのデビューコレクションは、どのようなものだったのか。 ラフのデザインの特徴を解説しながら、ジル・サンダーやクリスチャン・ディオールの時とはどの点で異なっているのか、そこに言及しています。 ぜひ読んでみてください。 「ラフ・シモンズのカルバン・クライン」 ラフのブランドディレクションの手法は、革新ではなく更新。ドラスティックにダイナミックにブランドを変貌させる方法は取らず、ブランドのコードを尊重し、ブランドの中心となる核にフォーカスして、その核をラフ自身の視点によって新しくすることでディレクションをスタートさせる。 ジル・サンダーとディオールのデビューコレクションを見ても、強烈なインパクトをもたらすものではなく、むしろおとなしく控えめな印象。けれど、そのブランドらしい匂いと、ラフの視点による新鮮なニュアンスはしっかりと入っている。そして、シーズンを重ねるごとにラフ自身の個性が強く導入されるようになり、気がつくとブランドが生まれ変わっている。ラフは時間をかけてブランドを変えていく。 その振り幅が最も大きかったのが、ジル・サンダー。ラフは、創業者であるジル・サンダーを超えるジル・サンダーを作ってしまった。ジル・サンダー時代よりもデザインクオリティは一段落ちると個人的に感じるディオールだが、そのディオールでも今のマリア・グラツィア・キウリが手がけるミニマムなディオールという新しいディオール象に繋がる礎を築いた。だから、僕はラフのブランドディレクションには、革新という言葉より更新という言葉がふさわしく思える。 ようやくお披露目となったカルバン・クラインのデビューコレクションでも、その手法は活きていた。ブランドのコードを理解した上でのスタートという手法が。一目見て、強烈なインパクトを感じるコレクションではない。けれど、ラフ自身の視点が明らかに入り、これまでのカルバン・クラインとは趣を一変させていた。ただ、過去の2ブランドと違っていた点がある。ジル・サンダーとディオールのデビューコレクションよりも、ラフ自身の個性が強くにじみ出ていたことだ。 それでは「ラフの個性とはなんだろう」という話になる。ここではウィメンズデザインに絞って話していきたい。ラフのウィメンズデザインの個性は「違和感」にある。 「なんでここに、こんな切替え入れるんだろう?これがなければ、きれいなのに……」「なんでここに、こんなボリューム入れるんだろう?これがなければ、きれいなのに……」 それがなければ、多くの人が美しいと感じられるのに、あえて美しく思わせないような違和感を挟み込み、人の美意識を揺らす。そうすることで、見る人の感覚を違う方向へ振っていく。それが、ラフのウィメンズデザインの個性、つまり特徴と僕は個人的に捉えている。その個性が、このカルバン・クラインのデビューコレクションでは過去の2ブランドのデビューコレクションよりも強く感じられた。 そもそも全体の印象に違和感を感じた。僕が思うカルバン・クラインのイメージは、クールでモダン。シャープな空気が漂っていて、匂い立つ色気が攻撃的。だけど、このコレクションを見た最初の印象は、昔懐かしいアメリカのスタイル(多くは70年代的)をピックアップしてきて、それを身体のラインを主張するセクシーなシルエットではなく程よくゆとりを入れたナチュラルなシルエットで、テーラードなコートやセットアップ、Gジャンやデニムというブランドを象徴するアイテムとスタイルで表現し、多彩かつ多色ながらトーンがとても優しい色使いが気持ちをほっと和ませ、攻撃的というよりは健康的に感じる色気が漂い、そのどれもがカルバン・クラインに必要な要素でありながら、けれどこれまでのカルバン・クラインとは異なる視点で表現されていて、そこにおとなしい印象ながらも心に引っかかる新鮮な何かを感じさせた。この感覚が、ジル・サンダーとディオールのデビューコレクションを見たときよりも、僕には強く感じられた。 カルバン・クラインでありながら、これまでのカルバン・クラインとは違う新しさを強く感じるコレクション。それがラフによるカルバン・クラインのデビューコレクションだった。このショーを見ていて感じたのは、「ラフが1番やりたかったデザインはこれなんじゃないか?」ということだった。シンプルでリアルなアイテムをベースにしてカジュアルなスタイルで、ひたすらにカッコよさの追求。現代のメインストリームとなるエクストリームとは異なる軸の、極めてファッション的なカッコよさ。時代の流れを、王道のファッションのカッコよさへ。そういう挑戦を、特に今回のコレクションの、誇張も極小もない極めてナチュラルなシルエットに感じた。 ラフが提案したいのは驚きや斬新さではなく、これまでにあったファッション的カッコよさの素晴らしさ、それを再提示したいのでは。だから、アメリカの、いやニューヨークのアイコンとも言えるブランドのカルバン・クラインで、アメリカのクラシカルな要素、昔懐かしいスタイルがピックアップされていたように思える。「ばかやろー、そんなこと思ってねえよ」とラフに思われる可能性もあるけど、結果的に生まれたコレクションから僕はそんなことを感じた。この解釈を自由に楽しむってところが、ファッションを見る面白さでもある。正しい答えを知りたいのではなく、自分だけが感じられる何かを感じて、その感覚を楽しみたいから。今の時代、ファッションはもっと自由に軽快に気軽に楽しんでもいい。 メンズについては、ラフは違和感を持ち込むというよりは正統派。正統なカッコよさを人々の感覚がまだ及んでいない、その領域にまでカッコよく更新させる。「え!?これって、こんなにカッコよくなるの!?」というセンス。今回のデビューコレクションのメンズで、僕が一番好きなルックはGジャンとジーンズを着たデニムのセットアップ。かつてニューヨークで発表していたヘルムート・ラングのセカンドライン『ヘルムート・ラング・ジーンズ』を思わすスタイルだ。とてもカッコよかった。このスタイル、こんなにカッコよかったんだ。そう思えた。見た目、めちゃくちゃ普通だけどね。 メンズは初期のシグネチャーで発表していたころの香りがほのかにあって、あの頃の若者が大人になったスタイルというイメージもあった。先立って発表されたシグネチャーよりも惹かれた。シグネチャーに以前ほど魅力は感じないのはなぜだろう(16AWと17SSは除く)。もしかしたらカッコ良すぎるのかも。その感覚が今の気分にあっていないのかもしれない。これはちょっとよくわからない。シグネチャーのみに集中した時は、すごく魅力を感じるんだけど。不思議だ。 ショー終了後、多くの人が言及しているようにヘルムート・ラングの香りがあったのは確か。特にメンズのテーラードコートにスリムパンツのスタイルなんて、まさにラングの代名詞とも言えるスタイルだ。ラフはかつてメディアにマルジェラと共にヘルムート・ラングへの尊敬を述べているし、ニューヨークで発表することになって、なんらかのラングからのインスピレーションはあったんじゃないのか。そう思えるほど、ラングのテイストが漂っていた。そこを誰かラフにインタビューして聞いて欲しいよ。 そして、ラフのディレクションの本領が発揮されるのは、むしろこれからだと僕は思っている。ラフはイメージ作りの天才。ウィリー・ヴァンダピエールと組むビジュアルは、まさにその才能が最も発揮される領域。ショー発表後、早速Instagramで新しいビジュアルを矢継ぎ早にアップしている。そのビジュアルから受けるイメージは、ショーよりも刺激が強い。むしろカルバン・クライン本来の攻撃的な色気を感じさせた。セクシーと感じられる肌の露出なんて皆無なのに。おそらく、完璧に全身を写すことはせず、身体の一部を隠したり後ろ姿だけであったり、モデルたちにそんなポーズを取らせて飛散した様々な色を背景に写した写真が、想像を「刺激」したことが理由だろう。 今回、ラフがカルバン・クラインで発表したウィメンズは、シグネチャーではないのにシグネチャーに極めて近いデザイン、ラフのアイデンティティを表現した真のウィメンズデザインが初めて垣間見えた気分になった。 ショーの最後にピーターと一緒に出てきたラフの表情が楽しそうで、そのリラックス感漂っている姿を見たら、ディオールを辞めて良かったのではないかと思えた。ブランドとの相性がやはり最も重要で、ラフとカルバン・クラインの相性はこれまでで最もいいはず。その確信が得られたデビューコレクションでもある。ディオール以上に、いやもしかしたらジル・サンダーよりも大きな自由を手に入れ、次のコレクションでどのような更新を見せてくれるのか、とても楽しみだ。 <了> *こちらのタイトルは、note「AFFECTUS」にアップされた「ラフ・シモンズのカルバン・クライン」と同じ文章になります。
AFFECTUS vol.3に収録するタイトルのご紹介、今夜は第10本目になります。 好調な人気にもかかわらず、ブランドを休止してしまったゴーシャ・ラブチンスキー。彼の2017AWコレクションのショー映像を観て、混乱してしまった心の内を書くタイトルです。 そこにはシュルレアリスムの始祖と言うべき、アンドレ・ブルトンの著作が思い出されました。 ぜひ読んでください。 「またまたゴーシャにざわつく」 先日、久しぶりにドーバーストリートマーケット ギンザ(以下ドーバー)を訪れた。誰もが知るラグジュアリーブランドから、まだまだ荒削りなインディペンデントなブランドまでとその幅広いブランドのチョイスは、いつ見ても面白い。その中にはダイナミックな造形で驚かされる服もあり、「これぞモード」という面白さを体感できるブランドも数多くあった。 だが、ドーバーで僕が最も残った印象に残ったブランドは、そういったダイナミズム感じさせる服を作っていたブランドではなく、何の変哲もないTシャツを作っていたブランドだった。そのブランドの名前は、ゴーシャ・ラブチンスキー。ゴーシャが作る、その何の変哲もないTシャツに僕は大きく動揺してしまった。 「なんだ、これ……よくこんなのを作ったな……」 ゴーシャのTシャツの何に動揺したのか。それは「ダサさ」だった。 今はダサいことがカッコいい時代だ。90年代のように自分をきらびやかに見せるよりも、たとえ笑われるようなことであっても自分をありのままに見せること、そこに人々が共感する。だけど、ダサいといってもそのダサさには「よくわからない。でもいいかも」という惹かれる要素が潜んでいることが多い。しかし、ゴーシャにはそれがない。本当にダサい。控えめに言ってもそのダサさは完璧だ。 しかし、僕はこの「ダサさ」にどこかで出会っている。どこだろう?その気持ちをたどっていくと、僕がまだ小学生だった1980年代後半に行き着く。今のスポーツショップほど当時のスポーツショップはおしゃれではなかった。トレーニングウェアやユニフォームなど、あくまでもスポーツのためのウェアが用意されている場所。それが当時のスポーツショップだった。そのウェアはスポーツをする上ではカッコいい。だけど、街でデイリーウェアとして着るには勇気がいる。つまりダサい。それを着て街を歩こうものなら「ダサい奴」の烙印は瞬時にして押されただろう。 ゴーシャの服には、その1980年代のスポーツショップに置かれていた服とまったく同じダサい空気が充満していた。完璧なほどに。特に僕がドーバーで目にした2017SSのゴーシャは、 FILAやKappaなどお馴染みのスポーツブランドとコラボしたアイテムがあるだけに、余計に1980年代のスポーツショップと同じ空気を感じて、そのダサさに磨きをかけていた。こんなことばかり言っていたら、件のスポーツブランドに怒られそうだけど。 最新のカッコよさを競うモードの場で、こんな服を発表したこと。それが僕が動揺した理由の根っこにある。ヴェトモンもカッコよさの定義を問うコレクションを発表している。特に、街の風景をそのまま切り取ったような2017AWコレクションは。しかし、カッコよさの定義を問うという意味では、ゴーシャの方がさらに一段深い。ヴェトモンの服には、現代のストリートのエッセンスが強いだけにまだ理解できるカッコよさが潜んでいる。しかし、ゴーシャにはそれがない。現代に通ずるカッコよさの匂いがひとかけらも、だ。 僕の動揺はそれだけにとどまらない。ゴーシャの最新コレクション2017AWのショー映像にも僕は動揺してしまった。ただし、僕を動揺させたのはそのショーで発表されたルックではない。ショーの演出方法に、吐き気を催す感覚に近い衝動が起きた。 原因はショーに使われていた音楽だった。その音楽(と表していいのか、わからないが)は、ランウェイを歩くモデルが自ら自己紹介する声だった。ショーのルックに集中して何か感じて想像したいのに、BGMとして流れるモデルの声がその想像をせき止め、想像したいのに想像できないという感覚を引き起こした。通常ならできて当たり前の行為を阻む現象に気分が悪くなり、それは乗り物酔いして吐き気を催す感覚に似ていた。 でも、この感覚を僕はまたどこかで感じたような気がして、そう思うとすぐに思い出した。アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』を読んだ時だった。アンドレ・ブルトンはシュルレアリスムの始祖とも言える存在。その彼の書いた本が『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』になる。『溶ける魚』はアンドレ・ブルトンが自動書記によって書いた物語だ。自動書記は、乱暴な言い方すれば何も考えず文を書きなぐっていくこと。そのような方法で書かれた物語が『溶ける魚』になる。 ここから書くことは、僕はこの作品を読んで実際に感じたことを書いていく。他の人が読んだら、まったく別の感想を抱く可能性があることは理解してもらいたい。 僕はこの作品が物語と言っていいのかわからない。とにかく読んでいて、気分が悪くなった。通常、文章を読んでいると、その言葉に刺激され頭の中で何らかの想像が働き、風景や場面など映像が見えてくる。けれど、アンドレ・ブルトンが書いたこの『溶ける魚』は僕にそれを許してくれなかった。文章に脈絡が感じられなくて、一つの文を読んで何かを想像しようとすると、次に読む文が前文とは関係ないの文であることが多く(少なくとも僕にはそう感じられた)、その文章の構成が想像しようとした頭の働きを阻む。その現象が連続して起こり、一冊の中に充満している。これを読みきった時、頭がぐるぐる回り乗り物酔いしたように気分が悪くなってしまった。面白さは微塵とも感じなかった。だけど、すごい本だと思った。二度と読みたくないとは思ったが(実際読んでいない)。そのアンドレ・ブルトンの著作と同じ感覚が、ゴーシャの2017AWのショーにもあった。 ゴーシャ・ラブチンスキーという人間は何なんだろう。 捉えどころがない。世の中の価値観を壊すというより、かき乱す。そんなふうに感じる。現在のファッション界でデザインについて考えた時、最も重要な人物はゴーシャではないかと思えてくる。それほど彼のやっていることは、ファッションの「カッコよさ」を深いところでかき乱し、あぶり出していく。今、自分たちが感じている「カッコよさ」とはなんなんだろう。なぜそれをカッコいいと感じるのか。カッコいいとは何なのか。なんてことのない、ありふれたデザインのダサい服が深く突っ込んでくる。 ゴーシャがこういうことができる背景に、彼のフォトグラファーという一面が大きな役割を果たしているのではないか。これからのファッションデザイナーは、服のデザイン以外にも何か一つ、表現スキルを持っていることが重要になる。ゴーシャの存在を思うと、そんな時代がもう目の前に迫っている予感すらしてしまう。 ゴーシャの服をダサいと感じるのは、もちろん僕の個人的感覚だ。いまゴーシャの服を好む若い世代の人たちからすれば、僕の感覚の方こそ理解しがたいものだろう。でも、僕のようなこういう感覚を感じる人間がいることも事実で、それがファッションの魅力だろう。感覚の違いを大きく感じられることが。いま風の言葉で言うなら「多様性を認めること」になるんだろう。面白さはいつだって、思わぬところからやってくる。 最後に。ゴーシャのウィメンズが見たい。本格的なウィメンズが。彼が女性のためにどんな服をデザインするのか。僕はとても気になる。一人のファッション好きとして、その日が早く訪れることを願う。 <了> *こちらのタイトルは、note「AFFECTUS」にアップされた「またまたゴーシャにざわつく」と同じ文章になります。
AFFECTUS vol.3に収録するタイトルのご紹介、今夜は第9本目になります。 今回ご紹介するタイトルは、もしかしたら書いた時の思い入れは、vol.3の中で一番かもしれません。 突如ファッション界を去ってしまったスコット・スタンバーグ。彼の名がメディアに全く上がらなくなったころに書いたタイトルです。 スコットのあたたかいユーモアを備えたデザインは、彼の新ブランド「Entireworld」でも健在でした。 ぜひ読んでください。 「スコット・スタンバーグよ、もう一度」 もう見れなくなって悲しいブランドはある。そのデザインが見れなくてなってしまい、寂しくなるデザイナーもいる。たいてい、そういうときはブランドのビジネスがうまくいかない場合が多いだろう。売れるか売れないかの世界は、とてもシビアだ。でも、それでも、願わくばもう一度そのデザインを見たいと願うデザイナーはいる。 僕にとってその一人が、バンド オブ アウトサイダーズ(以下バンド)を立ち上げたスコット・スタンバーグになる。いまや、メディアで取り上げられることのないスコット・スタンバーグについて、自由気ままに喋りたくなった。 一時期、僕はバンド オブ アウトサイダーズを熱心に見ていた。ウェブでスコット・スタンバーグのインタビューを探しては見つけ、何度も繰り返し読んでいたし、セレクトショップに行ってはそのデザインの秘密を探るように、パターンと素材を喰いるように何度も見ていた。バンドはメンズも展開されているので(そもそもメンズからスタート)、試着もしてその服を体感することも怠らなかった。今では僕は服を買うことがほとんどなくなってしまい(そのお金があるなら服作りの資金や、デザインに関わる資料の購入にまわしたい)、持っているバンドの服は黄色いポロシャツ一枚になる。 スコット・スタンバーグのデザインは、伝統的なアメリカントラッドスタイルを自身の感性でクールでシャープなスタイルへと変換させていた。アイコンともいえるボタンダウンシャツを着てみると、それがよくわかる。かなりスリムなシルエットだ。僕はボタンダウンシャツを初めて着たとき、身体へのフィット感に驚いた。バックスタイルにはヘムラインから肩甲骨に向かってダーツが伸びていく。そのダーツが左右両身頃にあり、ボディのシルエットをきつく絞る。シャツのレングスも短い。シャツの裾を外に出して着るスタイルが促されているようだった。 スコット・スタンバーグがデザインしたボタンダウンシャツに、心地いい着心地があったかといえば、それは否定する。決して着る人に心地よさをもたらす服ではない。スコットの服へ対する美学が、一方的に押し付けられているのかのようなボタンダウンシャツだった。それはボタンダウンシャツに限らず、スコットがデザインするすべての服にいえる。 「これが一番カッコいいんだよ。着てみなよ」 そんなメッセージが潜んでいるかのような服だった。 伝統的なアメリカントラッドに測りながらも、自分の美学を反映したスタイルを提案する。服は決してリアリティは失わない。けれどその保持されたリアリティの中に、着る人間に労苦を強いる強引さも明らかにある。服の外観はまったく異なるが、その感覚はまるでコムデギャルソンのようだ。伝統は現代で新しいステージに上っていた。今、書いていて気づいたのだが、その静かな興奮があったから僕はスコットの服に魅せられていたのかもしれない。 そして、その面白さは服だけではなく、毎シーズン発表されるビジュアルにも反映されていた。スコットは、アメリカントラッド伝統のユーモアを決して忘れていなかった。バンドのビジュアルで最も好きな写真がある。どこかのカフェなのか、丸いテーブルを挟んで二つの椅子がある。一方の椅子には女性がカップを持って楽しげに笑っている。向かい合ったもう一方の椅子に座っていたのは、ゾウのぬいぐるみだ。その風景のあたたかさが、僕はとても好きでバンドのビジュアルの中でも一番好きだった。 それにバンドのビジュアルは、モデルの女性たちの笑顔がとてもステキだった。純粋にかわいい。そう思えてしまうほどに、彼女たちの笑顔は魅力的だった。女性の笑顔をかわいく見せることでは、スコットが僕の中ではNo. 1デザイナーだ。その思いは今でも変わらない。なんでモデルたちは、あんなに魅力的な笑顔を見せていたんだろう。彼女たちに仕事を忘れさせて、遊び心を思い出させているような、まるで子供が見せる本当にステキな笑顔だった。淡く儚げで、色褪せた色調の写真に流れるノスタルジックな空気と共にスコットが見せてくれた彼女たちの笑顔は、僕を心地いい気分にしてくれた。たとえ、その写真が見れなかっとしても僕の毎日に何の影響もなかっただろう。だけど、見れたことで感じた心地よい気分は、その瞬間を楽しさで満たしてくれたのも事実だ。 いい服を作っていたし、いいビジュアルも作っていた。だけど、それでもビジネスが失敗するのがファッション界。いや、ファッション界に限った話ではない。それはわかっている。でも、それでも、その切なさを最も強く感じるのは、節操がないほどに新しさを追い求めるファッション界に思えてならない。 もし、スコットがもう一度ファッションデザインをやるなら、ショーなんてやらないで、ただただ自分の美学を反映したアメリカントラッドを作り、そのスタイルをビジュアルだけで発表して欲しい。そして、彼の服を好きな世界中の人たちに届けて欲しい。カッコよく着れて、ユーモアにじませて、笑えて毎日を過ごせる服を。 <了> *こちらのタイトルは、note「AFFECTUS」にアップされた「スコット・スタンバーグよ、もう一度」と同じ文章になります。
AFFECTUS vol.3に収録するタイトルのご紹介、今夜は第8本目になります。 今回は、ヴェトモンが発表した2017AWコレクションについて書いたものです。僕はこのコレクションを見て、とても驚きました。よくこんなデザインをパリコレクションで発表したな、と。 いったい、何に驚いたのか。それをマルタン・マルジェラ、コム デ ギャルソン、ラフ・シモンズにも触れながら書いています(ギャルソンはほんの少しだけですが)。 ぜひ読んでください。 「普通が世界を変えていく」 2017SSオートクチュール期間中に発表されたヴェトモンの2017AWコレクション。このコレクションを見て、その時感じた感情を可能なかぎり言葉にしてみたくなった。しかし、すぐに書こうと思ったのに、あくせくしているうちに時間が経ち、その時に感じたはずの感情が胡散霧消してしまい、何を書きたかったのか忘れてしまった。「鉄は熱いうちに打て」とはよく言ったもので、本当その通りだ。気持ちが熱くなる体験をしたなら、すぐに言葉にすべきだった。いまさら言ってもしょうがないが。どうでもいい僕の反省が長くなった。 ヴェトモンの2017AWコレクションを映像で観たときの素直な気持ちは、こうだ。 「よくこんなの発表したな……」 真っ先に思ったことがこれだった。すごく大きな戸惑いを感じた。なぜ、そこまで戸惑ったのか。 そこに映っていたのが「普通」だったからだ。コレクションといえば、これからの時代に向けた最新ファッションを問う場。そしてパリコレは、その創造性において、僕はやはり今でも世界No.1だと思っている。パリコレで発表されるコレクションの創造性の深さと広さは、他の都市よりも1段上に感じる。このレベルで1段はかなり大きい差だと思う。 そのパリコレで、ヴェトモンが発表したコレクションは「普通」だった。年齢、性別、体型、人種、モデルのありとあらゆる要素に統一感はなく、様々な人たちがモデルとして登場し、これが一つのブランドのショーなのかと思えるほどに雑多な印象。彼らが着ている服に驚かされる。普通なのだ。もちろん、ヴェトモンのテイストがシルエットやディテールなどに織り混ざってはいる。しかし、そのことよりも先にモデルたちが着ている服のデザインベースが、極めて普通なことに驚く。これがパリコレで発表する服なのかと。けれど、僕の言う「普通」は服のことを指しているわけでない。 このショーの風景そのものが普通だということ。まるで街の風景を切り取って、そのままショーに持ってきたかのようだ。歩いているモデルを、後ろから早足で追い抜いていくモデルがいた。先を急ぐように。これを見て、僕は驚いた。本当に街だ、と。こんな風景、誰だって目にしているはずだ。街中で人が人を追い抜いていく様を。そんな風景を、この創造性が最も問われるパリコレの場で、演出する乱暴さに驚いた。ここまで、リアリティを追求して「街」を持ってきているのか、と。 いや、ヴェトモン自身にこの演出に、そこまでの意図はもしかしたらないのかもしれない(誰かインタビューしてよ)。けれど、わざわざこんな演出を入れる必要もない。はっきり言って、通常のショーからすれば、美しさも統一感も何もない演出であり、ショーだ。通常の感覚でいえば、感動するショーではない。けれど、通常の、いわゆるこれまでのショーとは別の新しい価値を提示し、そのことに心が揺さぶられた。服のデザインとショーの演出は、僕の「好き」とは異なっているにもかかわらず。 まるで、街中でヴェトモンが気に入った人間に声をかけ、ショーに誘ったみたいだ。「その格好いいね。そのままでいいから、これからショーに出てよ」そんなふうに。かつてマルタン・マルジェラは、過去のコレクションをグレーに染め直しただけでそのまま発表したり、自ら新しくデザインをせずとも、マルタン・マルジェラ自身がいいと思った服をそのままコレクションに発表するという行為をした。 今回、ヴェトモンがやったことは、このマルタン・マルジェラの行為をアップデートさせたものに思えた。今回のヴェトモンとマルジェラ、すでに存在している服をそのままショーで発表したようなコレクションを行ったが(厳密に言えばヴェトモンはデザインしているが)、ヴェトモンの方により強い「普通さ」を感じる。その差は、ショーの演出やマルジェラよりもさらに幅広いモデルのチョイス、そしてこれが一番の大きい要因だと思っているのだが、服ではなく街を歩く人々のスタイルをそのまま持ち込んできたことが起因している。 「いいものはそのままでいい」 そのことを、マルジェラは「服」という「物」にフォーカスしていた。しかし、ヴェトモンは「物」よりさらにその裏側、「概念」にフォーカスしている。 コムデギャルソンが造形で「服とは何か」という問いへの答えを示していたのに対し、マルジェラは概念で「服とは何か」への答えを示していた。2017年のいま、「新しさとは何か」という問いに対してマルジェラは服で答えを示していたが、ヴェトモンは概念で答えを示した。僕はそう感じた。ちょっと大げさになるかもしれないが、今回のヴェトモンのコレクションはファッションデザイン史においてエポックメーキングになるのではないだろうか。この方向性が支持と共感を得て、さらに発展していくのか。それともヴェトモンだけの独自の行動で終わるのか。それはまだわからないが、とても面白いアクションが生まれた。 同時期に、ラフ・シモンズによるカルバン・クラインがクチュールラインとも言うべき新ライン「By Appointment」を発表した。僕はそのビジュアルに痺れた。待っていた。これが見たかったんだ。ああ、早くショーが観たい。そう胸が高鳴った。ヴェトモンの最新コレクションでは一瞬たりとも感じなかった感情だ。僕はこういうタイプの人間だ。しかし、そういう人間でも、今回のヴェトモンのコレクションには揺さぶられる何かがあった。 ヴェトモンは最新ファッションとして「普通」を発表した。これからは普通が世界を変えていくのかもしれない。いや、もう変わり始めている。いま、様々なアプリによってプロではない人たちが、自らのクリエイティビティを発揮し、世界を変えていっている。プロではなくともクリエイティビティを世に問えて、世界から共感を得られる時代だ。それがいまのリアル。そのリアルもヴェトモンは捉えているように感じた。 もうすぐラフ・シモンズによるカルバン・クラインの初コレクションが発表される。ラフのデザインは王道だ。シリアスでエレガンス。普通と王道、この異なる二つの軸が近接するいま、世界がどうなっていくのか。普通が世界を変えていくのか。それとも……。 <了> *こちらのタイトルは、note「AFFECTUS」にアップされた「普通が世界を変えていく」と同じ文章になります。
AFFECTUS vol.3に収録するタイトルのご紹介、今夜は第7本目になります。 ファッションブランドは鮮度が命。どうしたって注目されるのは「今を生きる」ブランドです。けれど、かつて存在したブランドの素晴らしいデザインを伝えたい。それもAFFECTUSがやっていきたいことです。 今回ご紹介するタイトルは、1999年にデビューしたある日本ブランドのコンセプトです。不思議な違和感を内包した、その独特なエレガンスを持つ女性像が僕はとても好きでした。 ぜひ読んでください。 「自然であること、自由であること、美しくあること」 今回のブログタイトルは、あるブランドのコンセプトをそのままタイトルにした。けれど、そのブランドは今はもう存在していない。1999年にスタートし、2004年にその活動をクローズしてしまったからだ。活動期間は5年だった。そのブランドの名前は“NAiyMA”といい、読み方は「ナイーマ」になる。ブランド名の由来は、デザイナーが想像する架空の女性の名前だ。デザイナーはトキオ・クマガイとヨウイチ・ナガサワでキャリアを積んだ柳田剛氏。 ナイーマをリアルタイムで知っている人間となると、年齢で言えば現在30代後半以降の人たちになるだろう。ナイーマは、僕が最も魅力された日本のウィメンズブランドになる。たぶん、ナイーマほど毎シーズン楽しみにしていた日本のブランドはないと思う。 5年という短い活動期間ではあったが、今でも記憶に残っている。その理由は、コレクションの印象が鮮烈だったからではない。不思議な違和感を感じさせ、その違和感が心の奥底にとどまっている。今でもずっと。だから忘れることがない。 僕がナイーマを初めて知ったのは2000年12月。『ミスター・ハイファッション』2001年2月号を読んだ時だった。なんでメンズ誌で女性のブランド?と思われる方もいるかもしれない。僕自身もそうだった。特に当時は、今ほどジェンダーレスという概念が浸透しているわけではなかったから、誌面で見た時は不思議だった。当時の僕は自分が着られるメンズしか興味がなかったため、ウィメンズブランドのことはまったく知らなかったし、興味もまったくなかった。だから、ミスター・ハイファッションでナイーマを見た時は「ふーん」ぐらいの感想しかなかった。しかし、その感想は最初だけだった。 なぜミスター・ハイファッションにナイーマが掲載されていたのか。それは、デザイナーの柳田氏が第2回モエ・エ・シャンドン新人デザイナー賞を受賞したからだった。その記念としてスウェーデン人フォトグラファー、アンドレ・ウルフが写したナイーマのフォトストーリーが、ミスター・ハイファッションに掲載されることになった。 その写真に、僕は完璧に魅了された。 8枚すべてのカットがモノクロ。誌面いっぱいに掲載されたその写真にはダイナミズムを感じ、けれど、モデルの白人女性がナイーマの服を身にまとって一人佇む姿には、静かで、ただただ美しいエレガンスが写し出されていた。不思議なニュアンスを含んだ服とともに。それまでまったくウィメンズに興味のなかった僕が、一瞬にしてそのカッコよさに魅了されてしまった。 僕なりにナイーマの服を一言で表現するなら「違和感のあるエレガンス」になる。アンドレ・ウルフが写した写真にもその特徴は写し出されている。 一枚の写真がある。場所はビルの屋上。画面右側には後方に高層ビルが写され、画面左側にはジャケットとパンツが着たモデルが左手にモエ・エ・シャンドンの瓶を持ち、その口からはシャンパンが溢れ、風に乗って画面右側へと流れていく。高層ビルの上をまたいでいくように。モデルの顔は首から上が切り取られ、写し出されていない。ナイーマの「違和感あるエレガンス」を見事に捉えた写真だと思う。 その写真でモデルの穿いているパンツに目がとまる。股下が膝上まで落とされ、細いウェストベルトから伸びる通常よりも長いダーツは、ファスナーのあき止りをほんの少し超えて止まる。脇線は太腿のあたりまで外へ張り出し、そこから裾に向かってなだらかにややテーパードしていく台形シルエットに、膝下10cmほどでカットされたパンツのレングス。一見すると、スカートにも見えるキュロットだった。 ナイーマはシンプルな服に違和感を持ち込む。「なぜ、そんなディテールを入れるの?」「なぜそんなシルエットにするの?」それらがなければ、おそらく多くの人たちが美しいと感じられる服となるはずなのに、わざわざその美しさを崩して、人々を惑わす。その違和感が、あらゆるところに心を惹く謎となって散らばり、王道のエレガンスへとフィニッシュさせるのがナイーマだった。 代官山にあったショップにも、唯一無二の存在感が放たれていた。代官山駅のそばにあった建物の二階に、ナイーマのショップはあり、階段を上りドアを抜けると、そこにはそれまで見たこともない光景が広がっていた。フロアには白い砂が一面に敷き詰められている。まるで砂漠だった。ショップを訪れた人間は、足でその砂の感触を感じながら、手でナイーマの違和感あるエレガンスに触れることになる。僕がそこまでの圧倒的な創造性を感じたショップは、ナイーマ以外では恵比寿にオープンしたマルタン・マルジェラのショップだけだった。 僕はナイーマのことが好きだった。これから、5年10年とたてばナイーマを覚えている人は今よりもきっと減っていく。そこにファッションの悲しさを感じる。でも、その悲しさもファッションの魅力なんだろう。だから僕はナイーマが好きだ。憂いのある女性に、男は惹かれるから。 <了> *こちらのタイトルは、note「AFFECTUS」にアップされた「自然であること、自由であること、美しくあること」と同じ文章になります。