
8月にキャストの顔合わせを行った際、皆さんにこうお伝えしました。
「この脚本は完成していません。これから皆さんとリハーサルを重ねながら、完成させていきたいと思っています。ぜひ、意見やアイディアを聞かせてください」
オーディションの時から感じていたのは、同じセリフでも、演じる人によって解釈がまったく違うということです。
私にとっては何十ページもある脚本の中の一部分でも、オーディションを受ける側にとっては、その役を理解するための唯一の手がかりです。
一人ひとりが自分なりに答えを出し、その役を体現している姿を見ると、私自身も想像していなかった演技に出会えることがあります。
以前、大学の課題で、2ページほどの短いシーンを撮影したことがありました。その際にお願いした役者さんが、私がセリフの中に何気なく入れた「鶏肉の鍋焼き」という言葉を理解するために、わざわざそのレシピを書き写してきたことがありました。
役者魂を感じて、心が震えたのを覚えています。
その時に思い知ったのは、目の前にいる役者さんは、私が書いたセリフをただ口にするだけの人ではないということ。もしかしたら、私よりもずっと深く役について考え、自分自身の経験と照らし合わせながら、私には思いつかないような見解を持っているかもしれない。
それを聞かないのは、すごくもったいない。
だからこそ、映画『名店にて』では、キャストの皆さんとじっくり向き合いたいと思っていました。なんなら、キャスティングの際にも、「この人なら信じられるぞ」と直感した方々を選んだところがあります。
でも・・・結局、どうすればいいんだろう? 向き合うって何? どうしたら、皆さんが意見を言いやすい環境をつくれるんだろう?
その答えは、フジサワ名店ビルにありました。
リハーサルでは、皆さんと一緒に店内を巡ったり、喫茶店でお茶をしたり、中華料理店でお昼を食べたりしました。
『名店にて』というタイトルなのだから、フジサワ名店ビルの空気を吸い、手すりの手触りを感じ、その場の雰囲気を五感で味わってもらいたい。
私が映画『名店にて』で目指しているのは、「そこにいそうな人たち」です。
今でも、10年前でも、20年前でも、フジサワ名店ビルに行けば、そこにいるんじゃないか。そんなふうに思える人たち。
一緒にゆっくりと時間を過ごすうちに、皆さんの表情も少しずつフジサワ名店ビルに馴染んでいったような気がしました。
このリハーサルのやり方が正しかったのか、私にもわかりません。
でも、皆さんのフジサワ名店ビルでの思い出が増えたことは確かです。
いつかふと、あの時食べたラーメンの味を思い出してもらえたら。
もう、それだけでも嬉しいです。



