【こうちマイプロジェクト道場ー今日からわたしを歩んでみよう】こうちマイプロジェクト道場は、一人ひとりの本当にやりたいことを対話とアクションを重ねながら進める学び合いの場です。今回は、自分らしい生き方で全国各地で挑戦を続けているゲストを迎え、彼らのストーリーを共有しながら、参加者一人ひとりの想いを掘り起こしていきます。第一期第三回目のゲスト講師は大西 正泰さん(一般社団法人ソシオデザイン 代表)。今回は徳島県上勝町で活動されている大西さんに、なぜまちづくりや起業家育成を始められてのか、どのような想いを持って現在の活動に至ったのかを中心にお話しいただきました。大西 正泰 氏(一般社団法人ソシオデザイン 代表)1970年徳島県生まれ。野球で甲子園を沸かした池田高校のある池田町出身。教育学及び経営学修士。小中高大学の教員、製薬会社役員、コンサルタント、シェアカフェ、シェアバー、ゲストハウスと異なる職種を経験。幸福度数の高い街づくりをテーマに、ポスト資本主義での地域再生をライフワークとしている。現在は葉っぱビジネスやゼロ・ウェイスト運動で有名な徳島県上勝町をフィールドにし、2011年以降、40を超える事業者を創出している起業風土をベースにした、リノベ・サードプレイス・起業家育成の3点セットでの街づくり手法を全国で講演している。2018年中小企業庁「創業機運醸成賞」受賞。香川大学非常勤講師など。勉強をする意味を見出せなかった少年時代 大西さんは1970年に徳島で生まれました。幼少期からじっと机の前に座り続けるのが苦手なことと、なぜ今この勉強をしないといけないのかを理解できないことなどがあり、勉強は嫌いだったようでした。 例えば音楽。音楽は創造性や感受性を豊かにする、いわゆる情操教育と言われています。しかし、実際はリコーダーや歌唱を先生の言われた通りにしていて、何のために音楽をやっているのかを教えてくれない先生ばかりで、目的が理解できなかった、といいます。スポーツを通して学んだ役割と教え方 小学生のころにはまったのが、サッカーの戦術を練ること。サッカーは野球と違い誰をどこにおくかで戦術が大きく変わってくる競技でした。 小学生ながらプレイヤーとしての目線ではなく、すでに指導者目線でサッカーに取り組んでいました。 しかし体型の変化により次第にサッカーでレギュラーを取れなくなった大西さんは、中学に上がったタイミングで、自分の体型を生かして柔道を始めました。 柔道は個人競技であることから努力すればするほど上達し、中学1年生でレギュラーを獲得することができました。ここから、環境を変えることで、自分の短所が長所になりうることがわかったといいます。 その後はレスリングやラグビーなども経験。個人競技と団体競技、それぞれのスポーツでの経験が、立場が違う中での自分の役割を考えて行動するきっかけになった、と大西さんは語ります。 大学では、柔道部の立ち上げと指導にも従事しました。部長兼指導者になった大西さんは、どうしたら楽しさや競技の勝ち方を言語化できるのかにこだわりました。なぜこの技はこのような動きをするのかを言語化していったりと、試行錯誤しながら自分なりのフレームを作っていきました。教育の勉強を通して出会った恩師 大西さんが教師を志したきっかけは「熱中時代」というドラマを小学生の時に見たことがきっかけです。小学生でありながら、「自分が教える側だったら…」と早くも考えながら、過ごしていました。 そのような幼少期を過ごした大西さんは、自然と大学では教育学部に入学しました。そして、すぐに大学院生のゼミの門をたたきます。大学に入学した当時、父親が前職を辞め起業をしたため、金銭的な理由でできるだけ早く即戦力な教員になるため、学びの多い環境に身を置いたのでした。 当時、大西さんが思っていたのは、「大学での教育の教え方に問題があるのではないか」ということです。 敎育はスモールステップで進歩してくことが基本で、一つ一つのステップを分解して理解していくことが大事だ、と教わるのにかかわらず、大学の教育に関する授業では、いきなり人名や概念が説明されます。「教わったことがなぜ大事なのかを説明されない教育」をする教員に大西さんは憤りを感じました。 ただゼミの教員は、すごくいい先生でした。卒論も修論もかなりギリギリまでしごかれましたが、大西さんはゼミの先生の「越境する教育原理」的な思想に大きく影響され、まさに師匠とも呼べる存在だったといいます。 大西さんはそのゼミの先生の影響で、教育学だけでなく、哲学や社会学、文化人類学などに越境していきました。スポーツをしていた時にもそうでしたが、違う分野にいくことで、比べる素材を得て、初めて違いがわかります。大西さんにとっての教育原理も「越境」にあるのです。衝撃を受けた小学校の現実 大学在学中、大学の付属小学校を見にいった時に、大西さんは衝撃を受けました。担任が良い先生かどうかで露骨に生徒に差が出てくることがわかったからです。小学校は抽選で、子どもも先生もお互いを選べません。そんな抽選で良い先生に出会えなければ、子おも達の人生が狂わされてしまう、これでよいのだろうか・・・大西さんの中に問題意識が生まれました。 世界観が狭い先生に教わると、子どもの未来を狭まると感じた大西さんは、プロとして子どもを教えるには、大学院に行って即戦力になりうる存在にならなければいけないと感じました。大西さんにとっては、給料がいいかどうかではなく、自分がどう生きたいかが大切なテーマであり、自分の人生なのに、外の環境に左右されてしまうのは嫌だと話してくれました。学校で働いて学んだこと そして大学院を卒業した一年後、大西さんが当時通っていた中学校の校長の紹介で、幼稚園から高校までの一貫校である私立の学校に赴任し、中等部を担当しました。 ある事件がきっかけで当時の先輩教員が一気に辞めてしまいます。大西さんはその事件がきっかけで、当時30歳でありながら教頭を任されることになりました。 しかし、弱冠30歳で教頭になった大西さんを良く思う先生はおらず、嫉妬を感じた先生たちと子どもを取り合ったり、他の先生方から話してもらえなくなったりと、関係が悪化していきました。そうした環境になると、徐々に学校が荒れていきました。ロッカーや天井に穴が空けられてしまった校舎を、大西さんは夜中まで直してから帰る日々を送っていました。 そのようなぎりぎりの生活を4年ほど勤めあげ、やり切ったと感じると同時に2番手である教頭という立場ではできることに限りがあることを大西さんは悟りました。トップにならなければ学校は変わらないと思った大西さんは生徒数3300人、教師数200人ほどいるマンモス校に赴任し、学校の仕組みを学ぶことにしました。ここで2年くらい勤めたことが、「商売としての学校」を意識するきっかけになりました。起業家教育との出会い そんな教師生活をしている中で、教育の意味が根本的にわかるようなことをしたいと考えるようになりました。そこで起業家教育に目が付きました。与えられた時給で自分の仕事を決めるような思想ではなく、仕事を0→1で作る起業家精神を身につけてもらう活動を2000年から開始しました。 それから教師の仕事をしながら5年奮闘し、ついには経産省の仕事をするようになります。 当時国が起業家育成に力を注いでいく方針を立て、起業家育成のためのプロジェクトを全国的に展開することになりました。 しかしその当時、四国エリアの担当者がいませんでした。そこで当時大阪で教員をやりながら、徳島で起業家教育に感するイベントを数多く開催していた大西さんに白羽の矢が立ちました。 そこから大西さんは平日に教員をしながら週末は四国に帰り、起業家向けのイベントを開催するという生活を2年続けました。 そんな大西さんの努力の甲斐もあり、2年後には四国から賞をとる人を輩出し、なおかつプロジェクトの動員数が東京、大阪についで第3位にすることができました。自ら会社を立ち上げ起業を支援する そんな中、起業家を育成しているにもかかわらず自分が起業したことがないことに気が付き、自分でも会社を立ち上げて起業支援をしていくことを決断。大西さんは教員を辞めて起業します。 さらに起業を支援するといっても、経営のことをちゃんと勉強していないことに違和感を感じた大西さんは、大学のビジネススクールに入り直しました。 ビジネススクールを終わって、知り合いの会社で勤めたりもしましたが、長続きせず。起業するテーマを改めて考え始めた大西さん。いま全国的に困っているテーマは何だろうか・・・と考えたときに「まちづくり」がいいのではないかと直観的に感じました。 それは、地方の中小企業では1千万円でも大変な規模のお金なのに、地方公共団体では、市では200億〜300億円規模、人口規模2000人未満の上勝町でも30億円使って、まちづくりをしています。そう考えたとき、このお金の使い方をもっと変えていければ、もっと面白いまちづくりができるのではないか・・・と気づいたのでした。 自治体を企業を見立てて、自治体から起業家を育成していこうということを考え、上勝町に入ってまちづくりをはじめました。リトル大西と対話し、自分ルールを貫く こういった経験ができたのは大西さんが常に自分の中にいる「リトル大西」と対話しているからだ、と大西さんはいいます。 大西さんはプロとして仕事するために、たとえ学校で妬まれても地域で恨まれても関係なく仕事ができるのは、環境によって自分の心が惑わされるのではなく、自分らしく生きていくことを大事にしているからだとお話してくださりました。感想・気づき・質問のシェア キーノート終了後、参加者から「色々な人から蔑められたり、嫌われても平気だったのはなぜか」という質問や「すごく共感した。教育の意味を伝えられる先生になりたい」といった感想がシェアされました。レゴ制作ワーク 次に3人1組になってレゴを使って自分の奥底にある想いや価値観を表出化するワークを行いました。 「自分の大切にしていること」「自分のプロジェクトが達成された状態」といったテーマで各自レゴを使って自分の内面を形にしていきました。そして作ったレゴをグループの一人に他己紹介のような形で説明してもらました。チェックアウト 最後は一人ひとりキーノートやレゴワークの感想を話しました。「大西さんの生き方がすごくかっこいいと感じた」「慣れないレゴに苦戦したが、楽しかった」といった感想があげられました。総括 徳島の上勝町で起業家育成をされている大西さんが、なぜ今の活動に至ったのかを中心にお話しいただきました。 大西さんが幼少期の頃から教えられる側ではなく、「教える側」の視点に立って学校に通っていること、スポーツによって戦略や教え方を試行錯誤していたこと、教育の現場での憤りなどが今の起業家育成やまちづくりにつながっていることがわかりました。 そして外部の環境に左右されるのではなく、自分ルールを貫く大西さんの生き様に、多くの参加者は刺激を受けていたように見受けられました。 起業家育成をする以前の話をするのはこれが初めてのようで、とても貴重な機会になりました。(レポート:鈴木 博文 )※マイプロジェクトとはマイプロジェクト(マイプロ)とは、「一人ひとりが自分とつながり、仕事とつながり、地域や世の中とつながり、一歩踏み出す背中を押す手法」です。私たちは日々暮らす中で、 「漠然といつかはこういうことをしたい」といった想いや、身の回りで起こった出来事やニュースを見て不満を抱いたり、「もっとこうしたら良いのに」、「どうして変わらないのだろう」といった違和感や想いを持ったりします。 “マイプロ”は、そんな「わたし」が感じている些細な問題意識や違和感、疑問に素直に耳を傾け、その「何か」を「プロジェクト(Project)」の形にして、「やってみる」ことから始まる、自分と仲間、世の中の変化を仲間同士で面白がり支え合う取り組みです。「本当のわたし」がずっと思い続けていた夢や好きだったけどいろんな理由で諦めてしまったこと、ずっと心の中に引っかかってたけど見てみぬふりをしたり、やり過ごしてきてしまったこと。社会や周りの期待や求めていること、自分が持っている知識やスキルはもちろん大事だけど、子どもの頃のように、周りの目や評価を気にしないで、「自分の好き・やりたい」っていう想いに正直に向き合い、一歩踏み出すことを仲間と共に目指すことがこの講座の目的となります。慶応大学SFCの井上英之研究室からスタートしたマイプロジェクト手法は、現在、全国の大学教育、高校におけるキャリア教育のほか、起業家育成や企業の人材育成など、様々な場面で活用され、注目を集めています。主催:Kochi Startup BASE設立準備室 事務局:エイチタス株式会社 高知ブランチ住所:〒780-0822 高知県高知市はりまや町3丁目3-3 ガイアビル4FMail: ksb@htus.jpWebサイト:http://startup-base.jp/女性起業家応援プロジェクトHP:https://select-type.com/s/?s=OauI37IZylo
【こうちマイプロジェクト道場ー今日からわたしを歩んでみよう】こうちマイプロジェクト道場は、一人ひとりの本当にやりたいことを対話とアクションを重ねながら進める学び合いの場です。今回は、自分らしい生き方で全国各地で挑戦を続けているゲストを迎え、彼らのストーリーを共有しながら、参加者一人ひとりの想いを掘り起こしていきます。第二回目は瀬戸口 信弥さん(合同会社高知カンパーニュブルワリー代表)。高知に移住してビール造りをされている瀬戸口さんが、なぜ高知でクラフトビールを造っているのか、今どんなことを考えて、どんなビジョンを描いているかといったことをお話しいただきました。瀬戸口 信弥 氏(合同会社高知カンパーニュブルワリー代表)1987年大阪府大阪市生まれ。2010年に摂南大学工学部電気電子工学科卒業後、奈良先端科学技術大学院大学物質創成科学研究科に入学し、タンパク質光制御系開発のための基礎研究を行なう。その後、電機メーカーに入社し、センサ開発に従事。就業中、高知県への移住と、ビール会社の起業を決意し、2016年から、株式会社石見麦酒にてインターンシップを受講。株式会社石見麦酒インターンシップ修了後、合同会社高知カンパーニュブルワリーを設立。2018年1月、発泡酒醸造免許を取得し、3月に高知に本格移住。県内唯一となるビール醸造所を開設し、同年4月にクラフトビール「TOSACO」を販売。勉強が嫌いになり、ひたすらアルバイトをしていた中高生時代 京都で生まれ大阪で育った瀬戸口さんは、幼稚園から大学に至るまで受験を経験してきました。 それは勉強熱心な母親の影響からでした。小学校まではそういった環境の中で楽しく勉強ができていたのですが、中学校から勉強ができる周りの人たちと自分を比べ始めてしまい、勉強に対するモチベーションがどん底まで落ちてしまいました。 こういったことから高校では学校の中でも不真面目なグループに所属していました。そして、高校からアルバイトをはじめ、放課後は遊びとアルバイトに明け暮れていました。“学歴コンプレックス”が、自分の殻を破る 高校を卒業し、短期大学に進学した瀬戸口さん。相手の学歴や通っている学校の偏差値を気にする生活が続いていました。ある時自分が学歴コンプレックスに苛まれていることに気づきました。 「このコンプレックスをどうにかしなければ、この先に進めない」と感じ、短期大学で、はじめて勉強を始めることを決意しました。 短期大学で出会った恩師と呼べる先生に高校の数学を教えてもらいながら、高校で怠った分を取り返そうと必死に勉強をしました。そして努力の甲斐もあり、私立の四年制大学へ編入することができました。 四年制大学に編入する過程で勉強の楽しさを知った瀬戸口さんは毎日のように勉強に明け暮れていました。 あるとき同じ研究室所属の先輩が、大学院に進学することになりました。そこで初めて大学院という世界を知りました。当時まだ“学歴コンプレックス”を拭い去ることができていなかった瀬戸口さんは、国立大学の大学院に進学することにしました。奥さんとの出会いと会社での苦労 現在の瀬戸口さんの奥さんとなる方とは、大学院時代に出会いました。大学院を卒業する頃に、その方と結婚したいという思いが膨らみ、瀬戸口さんは二人が住んでいる大阪の会社で働くことにしました。 会社の方針で今までの事業とは違う、新しい事業を展開していくことになりました。そんな部署に配属されますが、なかなかうまくいかず、毎日トラブルが発生していました。瀬戸口さんは会社に対するフラストレーショがたまり、それと同時に自分が会社のただの歯車になっていることに気がつきました。これらの気づきから瀬戸口さんは、「ただ会社の歯車になるのではなく、自分で何かを生み出してみたい」と感じるようになりました。家庭菜園から見えた自分のやりたいこと 瀬戸口さん夫婦は大阪の高槻市に家を移し、家庭菜園を始めました。 家庭菜園では大根を栽培・収穫しました。大根栽培を通して自分で何かをつくることに対する楽しさを感じることができました。 さらに生産する側だけでなく、加工する側にも興味を抱くようになりました。そんな中で、ビールを独自につくる「クラフトビール」を知りました。当時、ビールが大好きだった瀬戸口さんは、「自分でも独自のビールを作ってみたい!」と思うようになりました。 クラフトビールとの出会いから、家で麦汁をつくったり、奥さんとクラフトビール造りが盛んなアメリカのポートランドに足を運んだり、しました。ポートランドでは、一つひとつのクラフトビールブリュワリーにそれぞれ個性があることに魅力を感じ、当時まだ会社に勤めながらも、頭の中は「どのようにクラフトビールをつくっていくのか」でいっぱいになっていました。家族をつないだ“お酒”という存在 瀬戸口さんがなぜビールにこだわっているのか。その原点は、実は家族にありました。 瀬戸口さん一家は全員お酒が好きで、いまでもお酒の席になると、全員が集まってくるといいます。瀬戸口さんはそこで、「お酒によって家族がつながっている」と感じていました。 瀬戸口さんにとってお酒にはネガティブなイメージがなく、むしろ家族をつなぐ存在として考えていたのです。 またクラフトビールづくりを構想する過程で、たくさんの本に出会いました。その中でも「しあわせのパン」や「金持ち父さん貧乏父さん」といった本を読んで、色々な仕事の仕方や生き方、田舎での暮らしの良さがわかりました。今の会社名も「しあわせのパン」からとられています。高知でできたつながり 瀬戸口さんはそこから本格的にビール造りをすべく、島根県のクラフトビールの醸造所でインターンシップをはじめました。また奥さんのお兄さんが高知大学に通っていたこともあり、何回か高知を訪れました。訪問する中で、魅力的な場所を紹介してもらったことから、高知への移住を意識し出しました。そこから高知でビールづくりをすべく何回も行き来をしはじめました。 また、高知県が主催するビジネスプランコンテストにも応募しました。そこでは、起業を目指す仲間との出会いがありました。さらに、マイプロジェクトという手法に出会い、自分について考えたり、事業と自分のつながりを考えたり、どのように事業を実現させるのかを考えたりする機会になりました。たくさんの支えにより生み出された「TOSACO」 島根のブルワリーで醸造の研修を受けている中で、酒税法の改正があり、来年度から自分が考えていた規模感でお酒を作ることができなくなることがわかりました。 まだ研修がたくさん残っていた瀬戸口さんは弱気になってしまい、奥さんにビールづくりを諦めようと涙ながらに話しました。しかし奥さんからは「諦めるべきところじゃないでしょ」と逆に背中を押してもらえました。瀬戸口さんはそこからやれるところまでやってやろう、と吹っ切れることができました。 しかしお酒をつくろうにも、場所がないことが問題になりました。まだ移住をしていない瀬戸口さんにとって高知の中にある人脈はごくわずか。しかし以前出会ったNPO法人の代表の方から、香美市内でスーパーを経営している会社の社長を繋げてもらい、余っていた工場を紹介してもらうことができました。 免許も島根と大阪を行ったりきたりして研修を終わらせ、1月に醸造免許を取得することができました。 紆余曲折を経て、ついにクラフトビール「TOSACO」の販売がスタートしました。たくさんのメディアに取り上げてもらい、多くの人に知ってもらいました。しかしまだ従業員もおらず、一人ですべて作業をしていたことや想像していた以上に注文がきたことから、生産が追いつかず、寝る間も惜しんで作業をしていました。そんな生活は長くは続くはずもなく、1ヶ月ほどで体調を崩してしまいました。そんなとき、家のご近所さんが「新聞見たで」「何か手伝えることはあるか」とボランティアでラベルを貼りの手伝いをしに来てくれました。そのお陰もあり、自分に次のことを考える時間が作れ、酒造体制を整えるよう動き出すことができました。新しいフレーバーの製造 瀬戸口さんは今回のマイプロジェクト道場への登壇を通して、改めて自分たちの会社の存在意義を考えました。そして掲げた二つのミッションが「食卓を豊かにする」、そして「その豊かさを地域に還元する」というものです。 ただ、半年間3つのビールを販売してみて、まだ地域のためにやれることがあるのではないかと考えた瀬戸口さんは、新しいフレーバーのビールを製造することにしました。そこで目をつけたのがりんごです。実はりんごは高知県でも作られているのですが、そのことを知らない人が大勢います。 さらに瀬戸口さんはりんご農園に行き、台風や災害によって傷がついたり、形がおかしくなって販売できなくなったりんごを目の当たりにして、使われないりんごを自らビールとして活用していこうと考えました。支えてくれた地域と家族のために、ビールをつくっていく これからのビジョンとして、瀬戸口さんは自分が作ったクラフトビールが都会で売れるような仕組みをつくっていきたいと話してくれました。 地域にある資源を活用して、瀬戸口さんがクラフトビールを作り、都会に住んでいる人にクラフトビールを届けます。瀬戸口さんのクラフトビールが、都会の人に地域の魅力を伝えます。そのような地産外商の仕組みをつくることで、地域をもっと豊かにしていきたいと瀬戸口さんは考えています。 ポートランドでは親がお酒を飲んでいる傍ら、キッズスペースが設けられ、子ども達が元気よく遊んでいる光景がよく見られるそうです。自分がやりたいビジョンが、まさにポーランドでは実現していると瀬戸口さんは感じています。 -「ビールを通した家族の憩いの場をつくっていきたい」 -「家族が幸せになるビールを作りたい」 自分の原体験を忘れずに、これからもビール造りに励んでいきたいと瀬戸口さんは力強く語ってくださりました。感想・気づき・質問のシェア キーノート終了後、参加者から「どうして地域貢献をしたいと思えるのですか」といった質問や「家族が好きというものがとても素敵だった」「作っているビールを飲みたくなった」といった感想がシェアされました。マイプロジェクト共有ワーク 休憩を挟み、次は難波 佳希氏(難波ファシリテーション事務所)によるファシリテーションのもと、参加者同士のマイプロジェクト共有ワークが行われました。 3人1組になり、それぞれどんなライフヒストリーを歩んできたのか、これからどんなプロジェクトやアクションを起こそうとしているのかなどを共有し合いました。 話し手の発表が終わったら、聴き手は共感したことや疑問に思ったことを投げかけ、相互に新しい気づきや学びを得られるよう対話を行いました。チェックアウト マイプロジェクト共有ワークが終了した後、参加者一人ひとりが今日の感想や気づきをシェアし合うチェックアウトを行いました。 瀬戸口さんの話から得られた教訓や学び、マイプロジェクトシェアにより得られた気づきや自分に対する問いなど、様々なコメントがあげられました。まとめ いまや高知県内で飛ぶ鳥を落とす勢いで人気になってきたクラフトビール「TOSACO」ですが、そのバックグラウンドには、家族の存在や地域からの支えがありました。ただ美味しいビールを届けることをゴールとするのではなく、それを通して家族のつながりや地域の活性化、そして人の幸せを実現できることを目標にされていることがわかり、より応援したい気持ちが大きくなりました。 多くの参加者もそういった背景に触れることで、瀬戸口さんの想いに共感したり、プロジェクトに対するモチベーションが上がったり、普通の講演を受けているだけでは得られない学びや気づきを得られたという声があがったり、していました。(レポート:鈴木 博文 )※マイプロジェクトとはマイプロジェクト(マイプロ)とは、「一人ひとりが自分とつながり、仕事とつながり、地域や世の中とつながり、一歩踏み出す背中を押す手法」です。私たちは日々暮らす中で、 「漠然といつかはこういうことをしたい」といった想いや、身の回りで起こった出来事やニュースを見て不満を抱いたり、「もっとこうしたら良いのに」、「どうして変わらないのだろう」といった違和感や想いを持ったりします。 “マイプロ”は、そんな「わたし」が感じている些細な問題意識や違和感、疑問に素直に耳を傾け、その「何か」を「プロジェクト(Project)」の形にして、「やってみる」ことから始まる、自分と仲間、世の中の変化を仲間同士で面白がり支え合う取り組みです。「本当のわたし」がずっと思い続けていた夢や好きだったけどいろんな理由で諦めてしまったこと、ずっと心の中に引っかかってたけど見てみぬふりをしたり、やり過ごしてきてしまったこと。社会や周りの期待や求めていること、自分が持っている知識やスキルはもちろん大事だけど、子どもの頃のように、周りの目や評価を気にしないで、「自分の好き・やりたい」っていう想いに正直に向き合い、一歩踏み出すことを仲間と共に目指すことがこの講座の目的となります。慶応大学SFCの井上英之研究室からスタートしたマイプロジェクト手法は、現在、全国の大学教育、高校におけるキャリア教育のほか、起業家育成や企業の人材育成など、様々な場面で活用され、注目を集めています。主催:Kochi Startup BASE設立準備室 事務局:エイチタス株式会社 高知ブランチ住所:〒780-0822 高知県高知市はりまや町3丁目3-3 ガイアビル4FMail: ksb@htus.jpWebサイト:http://startup-base.jp/女性起業家応援プロジェクトHP:https://select-type.com/s/?s=OauI37IZylo
こうちマイプロジェクト道場は、一人ひとりの本当にやりたいことを対話とアクションを重ねながら進める学び合いの場です。今回は、自分らしい生き方で全国各地で挑戦を続けているゲストを迎え、彼らのストーリーを共有しながら、参加者一人ひとりの想いを掘り起こしていきます。講師は、嶋崎裕也さん(アースエイド代表取締役)。嶋崎 裕也 氏(アースエイド代表取締役)2004年に自動車メーカーのマツダ入社。シャシー開発、低燃費エンジン開発、開発統括業務などに携わった後、2009年に退社。6次産業立ち上げの為の農業技術開発や食品加工技術開発、加工場建設や限界集落の情報インフラ整備等を4年掛けて実施し、2013年アースエイドを創業。株式会社アースエイド 代表取締役社長に就任。「価値を創造してこそ、企業の経営」 高知県須崎市の祖母が食べさせてくれた葉ニンニクのぬたに衝撃を感じ、県外では知られていないこの味を全国、海外へ売ろうと起業する。現在は日本綜合医学会評議員として健康相談や講演活動を通じて「食の本質」を伝えることに注力し、ガン・糖尿病の生活習慣病や精神疾患の削減で事実上破綻している医療費問題に貢献することを人生の目標としている。 コーディネーターは、須藤順(高知大学地域協働学部 講師)。須藤順(高知大学地域協働学部 講師)高知大学地域協働学部講師。博士(経営経済学)、社会福祉士。専門は、社会的企業/社会起業家、コミュニティデザイン、ソーシャルイノベーション、コミュニティビジネス/ソーシャルビジネス等。四万十町など高知県内外で起業家育成や新事業創出支援に取り組んでいる。2018年、中小企業庁・創業機運醸成賞受賞「マイプロジェクト手法を活用した学生向けの起業・新規事業開発支援」。まずは、コーディネーターの須藤さんから、「マイプロジェクト」という手法について簡単に説明がありました。次に、ゲスト講師の嶋崎さんからキーノートスピーチをしていただきました。約1時間程度のキーノートスピーチに参加者は熱心に聞き入りました。少年時代から車が大好きだった嶋崎さん。7歳のころに「車の開発者になる!」と決意し、中学、高校、大学まで、常に「自動車メーカーで働くためにはどうしたらよいか」を考えて行動してきました。例えば、高校生の時には、内申点を上げるためにボランティア部を立ち上げたり、本格的な操縦体験マシンを自ら開発して運転免許取得前に自宅で車の運転を練習したり、大学から50km圏内に3か所のサーキットがあるという理由から進学する大学を決めたり、枚挙にいとまのないくらいの筋金入りでした。大学に入ると、自動車部に所属し、自動車の安全講習会を自主開催したりもしました。その結果、入社したかったマツダから採用を勝ち取りました。しかし、入社1年目、7歳の時に決めた夢「車の開発者になる!」は実現しませんでした。開発部門ではなく、企画部門へ配属されたのです。人事部は、嶋崎さんの想いをわかってくれてはいたものの、「まず、2年はその部署で学ぶように」とのこと。諦めて業務に従事していたものの、すぐにでも車の開発者になりたい嶋崎さん。社内でのコネを最大限駆使し、ごねまくり、2年目からは開発部門への移動を勝ち取りました。このように全力で夢を達成したプロセスから、「目標を達成に導くストーリーの立て方や考え方は、同じだ!」と気が付いたことがのちのち、起業するときにも考え方のベースとして大いに役に立ったと言います。感動的なおいしさの「ぬた」との出会いがあり、大手自動車メーカーからぬたを作るべく起業しました。最初は、葉ニンニクを仕入れて、生産販売をする会社の予定でしたが、高知県全土を走り回って結果、安定して高品質の葉ニンニクを生産している農家はないことがわかりました。素材がなければ作ればいい、まったく知見のない農業へ参入したのは、そんな理由からでした。試行錯誤を経て、完全にオーガニックで高栄養な葉ニンニクの生産、そして、念願であったぬたの通年大量生産に成功しました。全く分野違いの、農業、食品加工業に参入したものの、いままでの経験に無駄なものはなく、全てがつながって生きてきたとお話をしてくださいました。例えば、農業機械を手入れするためには、中学校時代から続けてきたオタク的な車のパーツいじりや高校・大学で深めてきた工学的な知見、車の開発者としてかかわってきた実践がそのまま応用できたのです。最後に、嶋崎さんは、起業をバスに例えてお話をしてくださいました。―「あなたが経営者でバスの運転手です。目標とする山頂まで行きたくて、乗っているメンバーもいます。しかし、燃料は5リットルしかないことがわかっています。経営者としてのあなたは、出発しますか、しませんか?」嶋崎さんの答えは「それでも、出発するのが起業」。燃料(=お金)がなくても、まずは走ってみる。燃料が尽きたら、自分たちで押したらいい。走っていれば、支援してくれる方々が集まってきて、応援してくれます。応援してもらえるように頑張っていくことの大切さ、そして、ジャパネットたかたの高田社長やホンダ創業者本田宗一郎の言葉を引用しながら、自分の想いを見つめて、生きていくことについて語っていただきました。次に、休憩を経て、マイプロジェクトme編を参加者同士で共有しあいました。一番印象的だったのは、嶋崎さんのラストメッセージです。自らの生き方を振り返って、「人に与えられるもっとも価値のあるものは自分自身」であり、「夢そのものが人生を切り裂いて作っていく」とお話をしてくださいました。この日は初回だったこともあり、2グループに分かれ、自己紹介も含めて、グループ内でマイプロジェクトme編を共有しあいました。最後に、須藤さんから「こうちマイプロジェクト道場」が安心安全な場として運営していくためのルールについて説明がありました。参加者一人一人がチェックアウトをして、会は終了しました。総括今回のイベントでは、こうちマイプロジェクト道場1期1回目ということで、参加者同士もはじめましての方々が多く、皆さん最初は緊張した面持ちでした。しかし、嶋崎さんのスピーチや対話を経て、どのグループも和やか雰囲気でお互いの話に耳を傾けあうことができたようでした。参加者からは、「その言葉の奥に何があるのかを意識しながら話を聞いた、思ったよりも疲れた」「自分のことを語ることで自分が忘れていたことを思いだした」といった感想も出ていました。2回目以降が楽しみです。
「こうち女性起業家応援プロジェクト」は、起業や育児休業後の職場復帰や再就職、移住後のキャリアチェンジ、そして、キャリアアップを目指す女性を幅広く支援したいという想いから、各分野で活躍する起業家をゲストに迎えたセミナーや、生活目線から考える事業アイデアの創造に向けた学びの機会を提供し、高知の女性が自分事として取り組むことのできる新たなチャレンジを後押しすることを目指し、開催しております。第3回目は上野伊代さん(NPO法人まちづくり須崎・すさき女子)。『自分の“好き”を大切に生きる-女性目線で地域を考える』と題して、須崎に移住する経緯や、移住後の暮らし、チャレンジ、そして、今、についてお話いただきました。上野 伊代 氏(NPO法人まちづくり須崎・すさき女子)<プロフィール>大学卒業後、広告代理店の企画営業や地域活性化イベントの企画運営などを経て、2014年4月から須崎市の地域おこし協力隊を委嘱し2016年3月末に任期終了。同年4月より地域コーディネーターとして地域自主組織のモデル事業の立ち上げを委嘱。翌年よりNPO法人まちづくり須崎の職員として引き続き、地域自主組織の推進事業に関わる。本業の傍ら、女性コミュニティ『すさき女子』の活動に関わり、女性目線を活かしたイベントや四国女子会(2015年・2016年)といった場づくりを手掛ける。その他、地域団体のサポートやブログによる地域の情報発信、ライター、デザイン等、様々な仕事に携わっている。須崎に来るまでの経緯子供時代は人づきあいが苦手で、家庭でも親の機嫌を伺いながらひねくれて育ったという上野さん。高校の時に初めて「デザインの勉強」という自分のやりたいことが見つかりますが家庭の事情で大学に進学。目的もなく大学生活を過ごしていたそう。しかし大学2年生の時に面白い民俗学の先生に出会ったことで楽しさを感じるようになり、自分は「人の生活」に興味があることに気が付いたそうです。 卒業後は編集の仕事がしたくて大手の広告代理店に入社するも、編集の仕事だけではなく、苦手でやりたくない営業もやることが必要で…。しかし、仕事に慣れてくると、自分の企画でお客さんが喜んでくれることが嬉しくてバリバリ働くようになりました。ところが24,5歳の時、無理がたたって体調を崩してしまいます。「どうして自分はこんなになるまで頑張らなきゃいけないんだろう。」自分を大切にできなかったことを初めて悔やんだ出来事だったそうです。その後、職を変えるも人間関係が悪くすぐに退職。1か月ほど自宅に引きこもりがちな生活をしていた上野さんでしたが、東日本大震災を契機に、「いつ死ぬかわからないから、自分のやりたいことをやろう」と思っていた時に、見つけたのが須崎の浦ノ内地区での仕事でした。須崎に来て、人生変わった浦ノ内地区での1年間は本当に楽しく、そのまま須崎市の地域おこし協力隊に応募した上野さんでしたが、まさかの不採用…。違う仕事についたりもしていましたが、浦ノ内地区での仕事のようなやりがいや面白さが忘れられませんでした。浦ノ内地区をはじめとする須崎の方々とは、浦ノ内地区の仕事を離れてからも、付き合いを続けていました。1年後、再び地域おこし協力隊の募集がありました。須崎の方々からは応募を進められるものの、チャンスをつかめるか否か、また落ちることへの不安からとても迷ったそうです。それでも、思い切って応募すると今度は採用!須崎のひとたちの後押しもあって再び、須崎でお仕事ができることになりました。須崎の人たちの想いをのちに知ったとき、「この町で絶対頑張ろう」と心に決めた上野さん。地域おこし協力隊を経て、現在は地域コーディネーターとして須崎に深く入り込んだ活動をされています。地域の人たちとの意思疎通の難しさを痛感したり、想いの伝え方に悩んだりと、これまでとは異なる苦労も多い仕事ですが、上野さんは須崎に来て人生が大きく変わったといいます。 -人付き合いが苦手で友達がいなかった自分に心許せる友達と居場所ができたこと。 -「安定した職に就かず転職を繰り返して、何をやっているか分からない」と言っていた家族が初めてイベントに来てくれたこと。 -手術・入院をして仕事が出来なかったとき、自分がいなくても世の中は回っていくけれど、自分が元気でいないと悲しむ人がいると気付いたこと。 須崎でのたくさんの経験や人との出会いを通して、上野さん自身が変わり、今の自分を認められるようになったそうです。SHAREの心で、みんなを巻き込む地域づくり現在取り組んでおられる地域づくりのお仕事で、上野さんが意識していることがあります。それは「自分の半径数メートルにいる人たちの困りごとを解決していく」ということ。「地域の課題」ではなく、「私の住む地域の課題」として、自分に関係あるものとして捉えることで、初めて自分たちで解決していく課題になる、と上野さんはいいます。また、仕事の上で大事なことは、「何をやるかよりも、誰とやるか」。一人でもやろうと思えばできますが、自分に持っていないものを持っている人たちと一緒にやることで、一人でやる以上のことを達成することができます。 -地域を居心地よくしたい -子供たちが誇りを持って地域を語れるようにしたい -安心して話ができるゆるやかなつながりを作りたいそんな理想の状態に向けて、誰かをのけ者にしたり対立したりせず、楽しく無理せず活動する中で徐々に地域の人たちを巻き込み、総力戦で取り組んでいくことを、上野さんは大切にしています。自身が須崎にいて感じた小さな困りごとを解決しようという思いが、現在の地域づくり活動やすさき女子、四国女子会での活動に結びついています。地域に対する真剣な思いを胸に、仲間を増やしながら一つ一つ成果を上げている上野さん。彼女の夢は、「人の夢を叶えること」だそう。そのためのお手伝いができることが、自分にとっての幸せだとおっしゃっていました。ライフヒストリーや気づきのシェア次に参加者3人1組のグループをつくり、自身のライフヒストリーや、上野さんのお話を通して得られた気づきを共有する対話ワークを行いました。参加者それぞれが今までの人生をグラフに書き起こし、自分がどんな人生を歩んできて、そこで得た気づきや教訓を紹介し合いました。今回は上野さんのお話を通じて、人生のターニングポイントを思い返しながら話している参加者の姿も見受けられました。チェックアウト最後は、チェックアウトと題して、一人ひとり今日の感想を話しました。参加者からは、女性ならではの視点で活動することや、仲間とともにやりたいことをやるという姿勢への共感の声が上がっていました。総括 -対立や競争をするのではなく、 -一人で頑張るのでもなく、 -周りの人たちを仲間に引き込んで楽しく活動するうちに、 -大きなことを成し遂げていく。上野さんのお話から、プロジェクト達成のために大切な「人とのつながり」や「楽しむこと」を学び取れたように思います。また、地域に関わるプロジェクトを考えている参加者も多く、女性ならではの視点で地域づくりをしておられる上野さんのお話には共感や発見が多くあったのではないかと思います。本セミナーも3回目となり、さまざまな立場の参加者同士でマイプロの共有を行う中で、お互いを応援できる関係性が構築されていっているように感じました。(レポート:陶山智美 )主催:Kochi Startup BASE設立準備室 事務局:エイチタス株式会社 高知ブランチ住所:〒780-0822 高知県高知市はりまや町3丁目3-3 ガイアビル4FMail: ksb@htus.jpWebサイト:http://startup-base.jp/女性起業家応援プロジェクトHP:https://select-type.com/s/?s=OauI37IZylo
「こうち女性起業家応援プロジェクト」は、起業や育児休業後の職場復帰や再就職、移住後のキャリアチェンジ、そして、キャリアアップを目指す女性を幅広く支援するという想いから、各分野で活躍する起業家をゲストに迎えたセミナーや、生活目線から考える事業アイデアの創造に向けた学びの機会を提供し、高知の女性が自分事として取り組むことのできる新たなチャレンジを後押しすることを目指し、開催しております。第二回目は浅野聡子さん(株式会社Story Crew/代表取締役)。『起業という選択―高知の食に魅せられた私の生き方―』と題して、高知に移住する経緯や、移住後の暮らし、チャレンジ、そして、今、についてお話いただきました。浅野 聡子 氏(株式会社Story Crew/代表取締役)北海道釧路市出身、日本縦断人生を暴走中のローカルキャリア女子。2008年株式会社リクルート入社。中古車約3500台、国内外の結婚式場101会場の販売マーケティング、広告、事業計画、営業に携わる。2014年12月夫の故郷高知県に移住。高知県地産外商公社に入社し、高知県食材の県外商流構築に携わる中でローカルの食のすばらしさに感銘を受ける。2016年3月株式会社Story Crew(ストーリークルー)設立。自分流の外商をすべく、独立。高知を本社に、東京、神戸のパートナーと組みながら、自分らしいローカルライフの実現も目指す。農産品、加工食品のリブランディング、営業販路戦略設計、カフェ運営プロデュースなどを行う。2018年5月、バリキャリ向けのフードブランド、「イナカデリコ 」をたちあげ、都内オフィス向けに高知県食材を活用したサラダ、サンドイッチ、デリカッセンなどを展開。ローカルの食材を多様なスタイルに変換し、人を元気にすることが使命。手間なくよい食と暮らす「話始めると熱が入りすぎてしまう」と笑いながら、まずは自身が現在行っている活動についてお話をしてくださいました。北海道出身の浅野さんは、上京して7年間会社員として過ごし、旦那さんの出身地である高知県に移住し、高知県の地産外商公社に勤めた後、起業しました。現在はオフィスデリバリーのイナカデリコを中心に、カフェやショップのプロデュース、リブランディングなどを行っています。イナカデリコでは、東京の企業に向けて、高知の新鮮な食材を忙しい人のライフスタイルに合わせて加工し、オフィスの冷蔵庫に配達。集金箱を設置することで、無人で販売しています。「特にビジネスウーマンのライフスタイルは変わる。だから、それに合わせて編集して売る」そうおっしゃった浅野さんは、都会の忙しさから、疎かになりがちな働く女性の食を守るため「手間なくよい食と暮らす」というコンセプトを掲げています。高知県って面白い!そんな浅野さんはどうして高知で起業したのでしょうか。旦那さんの実家のある高知に移住して、初めて行ったスーパーマーケット。そこに並ぶ新鮮でおいしそうな食材の、種類の豊富さ、それもほとんどが高知県産であったことに浅野さんは衝撃を受けたといいます。しかし、同時にその販売方法に課題も感じます。そして東京で得た、「相手の課題を解決するとおのずと売れていく」セールスマンとしての経験が生かせそうな地産外商公社に就職しました。そんな中、「地方に住みつつも活躍の場をもっと外へ拡げたい」という想いが生まれた浅野さんは、高知で就職して1年後、起業しました。浅野さんのモットーは「どんなに小さなことでも、思いついたら、やる」というもの。そのモットーに従い、2016年の3月に起業してから9か月間は、野菜を抱えて東京のマルシェで売ったり、農家の名刺をもらって営業代行をしたり、知り合いの通販サイトで売ってみたり、卸をしたり……と、しっくりくるものが見つかるまで、とにかく色々なことをやりました。そうして、現在のイナカデリコのスタイルにたどり着きました。東京の信頼できるパートナーと共同経営をし、都会のニーズをすぐに把握して、お惣菜などの商品を開発、ニーズに合わせて高知の食材を送り出していく。自社で加工場を持ち、しっかりと事業展開をしてきたところ、日本橋高島屋の一等地に自社ショップをオープンするにまで至ったといいます。「使命」の見つけ方しかし、そこに至るまでには悩みも多かったといいます。なぜそれを私がやるのか、それを続けて自分の人生は満足なのか、それをやっていて私は心から嬉しいのか、という疑問に、満足する答えは出せず、もがいていました。そんな中、出会ったのがゴールデン・サークルという理論。それに従い、「何をどうやるか」ではなく「なぜそれをするのか」と、自分に問い続けていった結果、「ローカルが働く女性を幸せにする」という、浅野さん自身の「使命」を見つけたといいます。「私だから」をどう見つけたかこの「使命」や「私だから」を見つけることは誰でも必ずできる。そう浅野さんは強く語ります。その秘訣は自分の「原体験」に注目すること。浅野さんは、東京で働いていた頃を振り返り、毎日、ビルの37階から降りる時間がもったいなく、1日分のご飯をコンビニで買いこんでいたこと。仕事も、おしゃれも楽しんでいたはずなのに、生活の中で、あまりにも食の優先順位が落ちていたこと。そして高知の食材に出会った時の感動。そんな原体験を語ってくださいました。そしてこれらの実体験から、ビジネスマンを食で支えること、働く女性を応援すること、高知の食のスーパー営業マンとして活動できるのは、東京での経験と高知の食の感動を知っている、「私だから」できることだと感じたといいます。“あなたの命どう使いますか”最後に浅野さんは、この言葉で締めくくりました。今回のお話の中で、何度も登場した「使命」という言葉。一度しかない人生の命を何のために使うのか。それは自身の過去から意味づけをすること発見できる。と浅野さんは語ります。また、使命があることで、つらいこと、嫌になることがあったときにも、乗り越えることができ、ワクワクした気持ちになるといいます。他にも、気持ちが熱いうちにどんなに小さなことでもいいので何かやってみる。環境に制限されている時こそ動き始めるチャンス。世の中に常にアンテナを張り、何事にも自分の考えを持つ習慣をつける、など、参加者の方へ、「使命」を見つけるためのヒントをたくさん残してくださいました。ライフヒストリーや気づきのシェア浅野さんのお話を踏まえ、次に参加者同士で3人1組のグループを作り、浅野さんのお話の感想や気づき、自分自身のライフストーリーについて共有をするワークを行いました。参加者自身が自分の人生の出来事や感情の起伏、その時感じたこと、学んだことなどをグラフに表し、それについて他の二人と質問や感想を共有しました。浅野さんのお話にあったように、自分自身の原体験を思い起こしながらのワークとなり、参加者同士が相手の原体験から刺激を受け、自らの気づきにつながる機会となりました。チェックアウト終わりには、一人ひとり挙手をして今日の感想や気づきなどを話しました。参加者からは、浅野さんに対する具体的な経営についての質問や、振り返りを行うことで気づいたこと、共感したところなど、実に様々な感想が飛びかいました。総括浅野さんが現在取り組んでいる仕事へのこだわりだけでなく、高知との出会い、起業するまでの流れ、「使命」の重要性や、「私だから」を見つける方法など、浅野さんのライフストーリーを振り返りながらお話しいただきました。東京で勤めていた時代に感じたこと、経験したことや、移住してからの驚きなどの様々な原体験が現在の浅野さんを作りだしていることに共感し、自分と向き合う時間をつくりたい、小さなことでも明日から取り組みたい、とおっしゃっている方も多く、浅野さんの元気なパワーが参加者の皆さんにも届いていた様子でした。会場全体が、自分自身の未来にむけて、熱い気持ちに包まれたイベントでした。(レポート:檜山諒 )主催:Kochi Startup BASE設立準備室 事務局:エイチタス株式会社 高知ブランチ住所:〒780-0822 高知県高知市はりまや町3丁目3-3 ガイアビル4FMail: ksb@htus.jpWebサイト:http://startup-base.jp/女性起業家応援プロジェクトHP:https://select-type.com/s/?s=OauI37IZylo