2000年代の初め、「プロジェクトX」というテレビ番組があった。
子どものころ大好きだったラグビー青春学園ドラマ「スクールウォーズ」のモデル、伏見工業高校ラグビー部、山口良治さんも題材となり、僕はおそらく10回以上見て、セリフを暗唱できるようになった。(ツッパリ生徒と泣き虫教師)
「あのシンゴが、弥栄のシンゴが、伏工を受ける、伏工入ったらどないすんねーん。っていうシンゴが、いま学校の教師をしてくれてる・・・号泣」みたいな。(笑)
いま、新潟市図書館で借りることができるので、たまに家族で見ているのだけど、やっぱ「プロジェクトX」めっちゃいいね。
何作も見ていて思ったのは、伏見工業・山口先生のような、1人のリーダーをメインに取り上げた放送回は極めて少ないということだった。
たしかに、プロジェクトリーダーはいたのだけど、ほとんどは、名もなきサラリーマン、技術者をメインに取り上げている。
そして、その人たちのことは、いまの僕たちはほとんど何も知らない。
昨日見たのは、「通勤ラッシュを退治せよ世界初・自動改札機誕生」。
日本初めての自動改札機の導入。
阪急・北千里駅。
開発したのは、立石電機(現オムロン)。
弱小メーカーだった。
そんなこと知らなかったけど、まあ、テレビだからある程度大袈裟につくっているのだろうけど、でも、いいんだよ。
困難に挑んだ、名もなきサラリーマンたちがいた。
それだけは、よく分かる。
今回の「かえるライブラリー」のクラウドファンディングで寄稿してもらった文。この8つを眺めてみると、あるキーワードがたくさん出てくることに気付く。
宮本明里さん:
「何者かになるための戦い」を続けるのではなく、自分の感覚を大切に、「何者でもないわたし」を受け入れる。 そんな空間を「本屋」でなら実現できるのではないか。 そんな「本屋」で出会った「何者でもないわたし」と一緒に、新しいことを始めてみよう。
~大好きなバンドが、解散した~
https://camp-fire.jp/projects/117607/activities/70335#main
海津紗弥香さん:
他者より違う、人に褒められるような「何者か」になりたくて、「何者か」にならないといけないのではと、もがいているように見えました。
~何者かになりたいし、何者でもない自分も認めたい~
https://camp-fire.jp/projects/117607/activities/71278#main
増川葉月さん:
だから、大学生になって突然、大勢の自分と同じくらいの学力の人たちの中に入れられたとき、「わたしはだあれ?」という謎が生まれ、
現代よく聞く大学生の悩みでもある、「自分のやりたいことが分からない」という悩みがわたしの中にも存在していました。
~「問い」が始まる本屋~
https://camp-fire.jp/projects/117607/activities/72004#main
野島萌子さん:
ツルハシブックスで出会ったみんなになら会えるかもと思ったのを覚えています。不思議だけど、きっとそれは自分のことを「何者でもない人」として捉えてもらえると思ったから。「勉強ができる」野島、「活動的な」野島、「何事も諦めない」野島、ではなく、「何者でもない」野島として見てもらえそうな気がしたから。
~19歳で焦っていた自分、24歳でうつ病になった自分へ~
https://camp-fire.jp/projects/117607/activities/72112#main
そして僕自身も昨日、書いてた。
いつのまにか僕は、「ツルハシブックスの西田」になっていた。気持ち悪かった。初対面の人に、「あ、あの西田さんですか?」と言われた。
~何者でもない大人に出会える場、何者でもない自分でいられる場~
https://camp-fire.jp/projects/117607/activities/72205#main
「自分は何者か?」という問い。
「何者でもない自分」という不安。
それってどこから来るんだろうって思った。
この夏、「にいがたイナカレッジ」で思ったこと。ひとりの個人としてプロジェクトに参加するのではなく、場に溶けてしまえばいいって思った。場のチカラこそがアウトプットを出すんだと思った。
「プロジェクトX」で表現されているのは、「あきらめないこと」だったり、「リーダーシップ」だったり、「チームワーク」だったりするのだけど、僕がいま見れば、それは「場のチカラ」を高めたことによって成果が出ているのではないか、と思った。名もなきサラリーマンや技術者が、場に溶けていたのではないか。
おそらくは日本型の企業社会ってそういう社会だった。仕事が終わっても上司と飲みに行き、休みの日まで会社の人と一緒にレジャーを楽しんだ。それは「場のチカラ」にとって重要だった。(結果論でもあるが)
「プロジェクトX」は2005年に放送を終了し、2006年からは新番組「プロフェッショナル」が始まった。プロジェクトではなく、「個人」に注目した。
2002年には、学習指導要領が改訂され、「生きる力」を重視するようになった。いわゆる「ゆとり教育」である。「総合的学習の時間」が始まり、先生たちの裁量に任された。
やれ、と言われるだけで何をやったらいいかわからない。
現場は混乱した。
「総合的学習の時間」とタイミングを同じくして始まったのがいわゆる「キャリア教育」である。(1999年の中教審答申に初めて登場)
そんな空気の中で世に出たのが、「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎 2003年12月発売)である。その前の2003年3月にはSMAPの「世界に一つだけの花」(シングル)が発売。紅白歌合戦のラストを飾った。
よく言われていることだが、「13歳のハローワーク」には、「サラリーマン」という仕事が出てこない。つまり、サラリーマンという大勢ではなく、何らかの「プロフェッショナル」であれ、というメッセージを含んでいるようにも感じる。
いつの間にか、「キャリア教育」の名の下、全国の学校に「職場体験」、あるいは「インターンシップ」が普及していくことになる。
この、「職場体験」の先進事例と言われる、兵庫県の「トライやるウィーク」(中学校2年生の5日間の職場体験)を調べていて、驚くことがあった。
1998年から始まったこの取り組みの5年目の検証に以下のようなまえがきが記されていた。
~~以下引用
兵庫県では、阪神・淡路大震災および須磨区における小学生殺傷事件以来、教育の基調を「教える」教育から「育む」教育へと大きく転換し「心の教育」の充実を図るため、体験を通して子どもたちが自ら体得する場や機会を提供し、児童生徒一人一人が自分の生き方を見つけるよう支援することを目的とした地域に学ぶ「トライやる・ウィーク」推進事業を平成10年度(1998年度)から全県下公立中学校2年生を対象に実施してきた。
この事業は、学習の場を学校から地域社会へと移し、学校・家庭・地域社会の三者の密接な連携のもとに、生きる力の育成を図るものとして、兵庫県独自の取組として、文部科学白書にも取り上げられるなど、全国的にも高い評価を受けている。
~~~以上、平成15年(2003年)3月「トライやる・ウィーク」評価検証委員会 委員長 横山利弘(西暦は後付け)より。
・「教える」教育から「育む」教育へ。
・体験を通して、子どもたちが自ら体得する場や機会の提供
・児童生徒一人一人が自分の生き方を見つけるように支援すること
・学校・家庭・地域社会の三者の密接な連携のもとに、生きる力の育成
とあり、どこにも、職業観・就業観の醸成などというコンセプトは出てこない。
「職場」という題材を通して生きる力を育むための学びの機会の提供がコンセプトである。
ところが、全国は「トライやるウィーク」をモデルに、「キャリア教育」としての職場体験をするようになった。目的は、職業観・就業観の醸成であり、端的に言えば、「やりたいこと、なりたいものを見つける」ために行う職場体験である。
学級文庫には、「13歳のハローワーク」が置かれ、
カラオケでは「世界にひとつだけの花」が日本一歌われた。
そうやって子どもたちは呪われた。
プロフェッショナル、つまり何者かにならなければならないという呪縛だ。
プロジェクトやチームワークにスポットを当てる「プロジェクトX」が放送を終え、個人や技術にスポットを当てる「プロフェッショナル」にシフトしたのは、時代の要請であるのかもしれない。
それでいったい誰が幸せになるのだろう?
って思う。
キャリア教育が突きつけるのは、
「プロフェッショナル」になるか、「奴隷」になるか
という究極の二択だ。
奴隷という言葉が乱暴すぎるなら、「ゆっくり、いそげ」(影山知明・大和書房)の言葉を借りて、操作者(オペレーター)と言おうか。その職場に、「あなた」という「個人」はいない。
交換可能な「人材」としての自分がいるだけだ。
それは苦しい。
僕も2017年度は、そんな状況だった。
交換可能であることを前提に、授業オペレーションのマニュアルを作っていた。
それだけが人生であると、とてもつらい。
ここ数年で出会った大学生を含む若者たちは、僕の心が動くキーワードを持っていた。
・やりたいことがわからない
・自分に自信がない
・リーダーシップ・主体性がない
・「就職したい」けど「就活」したくない。
・「働きたい」より「暮らしたい」
その違和感のすべてを肯定したいと僕は思う。
・「場」のチカラを高める
・ひとりひとりを大切にする
・複数の自分を演じる
この3つを意識することで、もっと楽に生きられると僕は思う。
やりたいことなんてなくても困らないし、
自信もリーダーシップも主体性も不要だし、
ただ、自分が溶け出せる「場」があればいい。
自分という「ひとり」を大切にしてほしいし、
それには「暮らし」という要素はめちゃめちゃ大切だし、
本当の自分なんて、一つじゃなくていいと思う。
「何者かにならなくてもいい」
もちろん、何者かになってもいいんだけどね。
それはあなたの一部の顔であって、
本当のあなたの全てではないことを、
僕たちは知っているから。
そんな手紙が届くような本屋を、ライブラリーを、僕はつくりたい。
クラウドファンディング30日目。
素敵な思考の場と機会をありがとうございました。
あと少し、よろしくお願いします。
あなたもこの船に乗りませんか?