午前の松本での本屋宇宙旅行オープン記念イベントの後、東京・湯島のかえるライブラリー・ラボで、本の処方箋やってました。「二拠点居住」「地方で仕事をつくる」とかのテーマで話して、大学2年生の中野さんに処方されたのは、
「都市と地方をかきまぜる~「食べる通信」の奇跡」(高橋博之 光文社新書)でした。
こうやって、「本の処方箋」やって貸し出すライブラリーになったらいいのかも。
ということで、今日の1冊。
100分de名著 スピノザ「エチカ」(解説 國分功一郎)
テレビは見ていないのだけど、古本屋で見つけてしまい、購入。
いきなり面白い。國分さんの説明、わかりやすいなあ。
「エチカ」は考え方のOSが違う、と國分さんは説明します。
エチカの語源はギリシア語のエートスなのですが、ここまで遡るとおもしろいことが分かります。エートスは、慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を表すようになり、さらには私たちがその場所に住むに当たってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。つまり倫理という言葉の根源には、自分がいまいる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがあるわけです。
と始まります。
倫理とは、ひとりひとりの環境によって変わってくる。
「自然界に「完全/不完全」の区別が存在しないように、自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しない。」とスピノザは言います。完全/不完全の考えは、我々が形成する一般的観念(偏見)との比較によってもたらせれる。善悪は、組合せによってもたらされる。「憂鬱な人」にとっての音楽はいい影響を与えるが、「悲傷の人」にとっては邪魔でしかないかもしれない。
その上で「自分にとって」善いものを判断しなければならないのだと。
~~~ここから引用
私にとって善いものとは、私とうまく組み合わさって私の「活動能力を増大」させるものです。そのことを指してスピノザは、「より小さな完全性から、より大なる完全性へ移る」とも述べます。
いわゆる道徳とスピノザ的な倫理の違い。道徳は既存の超越的な価値を個々人に強制します。そこでは個々人の差は問題になりません。
それに対してスピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えますから、個々人の差を考慮するわけです。この人にとって善いものはあの人にとっては善くないかもしれない。この人はこの勉強法でうまく知識が得られるけれども、あの人はそうでないかもしれない。そのように個別具体的に考えることをスピノザの倫理は求めます。
個別具体的に組み合わせを考えるということは、何と何がうまく組み合うかはあらかじめ分からないということでもあります。たとえばあるトレーニングの方法が自分に合っているのかどうか。それはやってみないと分かりません。その意味で、スピノザの倫理学は実験することを求めます。どれとどれがうまく組み合わされるかを試してみるということです。
もともとは道徳もそのような実験に基づいていたはずです。それが忘れられて結果だけが残っているのです。ですから、道徳だから拒否すべきということにはなりません。ただ、個々人の差異や状況を考慮に入れずに強制されることがあるならば注意が必要になるわけです。
~~~ここまで引用
これがスピノザの善悪についての考え方。
いやあ、今こそ哲学っていう感じですね。
僕たちは今、哲学なくしては生きられない時代を歩き始めているのではないかなあと。
善悪は組み合わせなのだから、実験してみるしかない。ほかの人にとっては良くても、自分にとっては悪いことがありうると。「考え続けること」が必須なのだなあと。そして、この本は2日目の「本質」に移っていきます。
ここで重要なのは、「コナトゥス」という考え方です。
~~~ここから引用
「おのおのが物が自己の有(存在)に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。」
ここで「努力」と訳されているのがコナトゥスで、「自分の存在を維持しようとする力」のことです。
大変興味深いのは、この定理でハッキリと述べられているように、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが、その物の「本質」であるとスピノザが考えていることです。
古代ギリシアの哲学は「本質」を基本的に「形」ととらえていました。ギリシア語で「エイドス eidos」と呼ばれるものです。これは「見る」という動詞から来ている単語で、「見かけ」や「外見」を意味します。哲学用語では「形相」と訳されます。英語では「form」です。
このエイドス的なものの見方は、道徳的判断とも結びついてきます。人間について考えてみましょう。男性と女性というのも、確かにそれぞれ一つのエイドスとしてとらえることができます。
そうすると、たとえばある人は女性を本質とする存在としてとらえられることになる。その時、その人がどんな個人史を持ち、どんな環境で誰とどんな関係を持って生きてきて、どんな性質の力を持っているのかということは無視されてしまいます。その代わりに出てくるのは、「あなたは女性であることを本質としているのだから、女性らしくありなさい」という判断です。エイドスだけから本質を考えると、男は男らしく、女は女らしく、ということになりかねないわけです。
それに対しスピノザは、各個体が持っている力に注目しました。物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えたのです。そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。
たとえば、この人は体はあまりつよくはないけれども、繊細なものの見方はするし、人の話を聞くのが上手で、しかもそれを言葉にすることに優れている。だからこの人にはこんな仕事があっているだろう・・・。そんな風に考えられるわけです。
そして、当然ながら、このような本質のとらえ方は、活動能力の概念に結びついてきます。活動能力を高めるためには、その人の力の性質が決定的に重要です。一人一人の力のありようを具体的に見て、組み合わせを考えていく必要があるからです。
どのような性質を持った人が、どのような場所、どのような環境に生きているのか。それを具体的に考えた時にはじめて活動能力を高める組み合わせを探し当てることができる。
ですから、本質をコナトゥスとしてとらえることは、私たちの生き方そのものと関わってくる、ものの見方の転換なのです。
~~~ここまで引用
うわー。
「場のチカラ」ってこういう考え方もできるなあと。
僕の「にいがたイナカレッジ」での肩書は、「チューニング・ファシリテーター」なのだけど、ミーティング中にしている「チューニング」っていうのは、スピノザ的に言えば、
「それに対しスピノザは、各個体が持っている力に注目しました。物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えたのです。そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。たとえば、この人は体はあまりつよくはないけれども、繊細なものの見方はするし、人の話を聞くのが上手で、しかもそれを言葉にすることに優れている。だからこの人にはこんな仕事があっているだろう・・・。そんな風に考えられるわけです。そして、当然ながら、このような本質のとらえ方は、活動能力の概念に結びついてきます。活動能力を高めるためには、その人の力の性質が決定的に重要です。一人一人の力のありようを具体的に見て、組み合わせを考えていく必要があるからです。」
これのことですよね!
そして、「本の処方箋」っていうのも、まさにその人の「コナトゥス」を見つけ出す旅なのかもしれない。
その見つけ出す旅の中で、「場のチカラ」が高まって、本の妖精が本を届けてくれる。そんな活動なのかもしれないなと。
何より、前半部分であった、善悪は実験しないとわからない。っていうのがまさにその通りだなあと。
自分に向いている仕事とか就活でいろいろ自己分析したら出てくるんだろうけど、
実際はやってみなければわからないし、
その職場で誰と組み合わさるか?(いい上司、悪い上司とかではなく)
っていうのがとても大切なのだと。
「本屋宇宙旅行オープン記念イベント」での菊地さんのトークの中で、
・どのまちで、店を開けたいのか?
・暮らしたいまちってどんなまち?
・暮らしたいから加わりたい
松本というまち:
個人店のマスター(店主)が他のお店を紹介してくれるまち
→「目の前のお客さんを喜ばせたい」と思っているから
昔から街道の交差点
→人とモノ、情報、文化が行き交う
そして、住みたいまちに何を加えたらいいのか?
⇒それは独立系の本屋
みたいなこと、って
「コナトゥス」を大切にしてきて、「組み合わせ」を実験し続けた結果、「栞日」にたどり着いて、今なお問い続け、進化し続けて行っている。
だから、「栞日」に行くと、自らの本質である「コナトゥス」が強まっていくのかもしれない。それが僕が松本の朝は必ず栞日でモーニングを食べる理由なのかもしれない。
僕が2017年から研究してきた「場のチカラ」とか「チューニング・ファシリテーション」が理論的に補強されたような気がして楽しい松本滞在&イベント&読書でした。
さて、もう一度、
自分の本質である「コナトゥス」はなんだろう?