明子さんは、広島女学院附属小学校 1年のとき、日記にこう書いています:九月十四日 木エウ日ケフ カッカウカラ カヘルトキニ ピヤノノ 本ヲ モラヒマシタ カヘッテカラ オカアサンガ ピヤノノ 本ノ フクロヲ ツクッテ クダサイマシタ フクロニハ ネコヲ ヌイツケテ モラヒマシタ九月十八日 月エウ日ケフモ ピヤノヲ ナラヒマシタ ミヤドーサンガ ピヤノヲ ナラヒニ キマシタ。月エウト 水エウト 金エウニ ピヤノヲ ナラヒマス。1週間に3回もピアノのレッスンがある、広島女学院の音楽への力の入れようがうかがえます。ピアノを習い始めると、本や楽譜を入れる袋をお母さんに作ってもらったり、レッスンに行くときにおじいちゃんにお弁当を持ってきてもらったりと、家族や周りのひとを巻き込んでいく様子が見え、とても微笑ましいです。明子さんがピアノを弾いている、という写真は見たことがありません。でも、この鍵盤を見るたびに、小さな指で重い鍵盤のひとつひとつを押したのだなぁ、と想像します。「神様ヘルプ」を弾くわたしさて、私はエレクトーン。小学校入学時から、週に1回、音楽教室に通いました。小さなアパートの子ども部屋の半分くらいを占めるこの大きな楽器に、いつも兄が文句を言っていましたが、おかまいなしでした。友達が遊びに来ると、チェッカーズの「神様ヘルプ」を弾いてあげて、みんなでふざけながら(「プ」にアクセントをつけながら)歌った記憶があります。本当に楽しかった!六月二十四日 土エウ日ケフ ユフガタ ハツヱサント チズコサント サトコサント ワタクシト ノブチヤントガ アソビマシタ 。 ピヤノ ヲ ジヨウズニシマシタ。上手にピアノで遊んだ明子さんとお友達と弟さん。わくわくさせてくれるピアノの魔法に、引き寄せられていったのでしょう。いつの時代の子どもたちも、鍵盤楽器に心揺さぶられ、「見たい、聞きたい、触りたい」とみんなでそれを囲みます。みなさんにも、そんな記憶がありますか?「明子さんのピアノ」を囲む小学生たち
「明子さんのピアノ」の持ち主である河本明子さんは、1926年、ロサンゼルスで生まれました。お父さまの源吉さんは、1910年に広島から渡米し、サクラメントなどで農業に勤しんだあと、保険業に従事。1922年にシヅ子さんと結婚しました。4年間待って待望の女の子、明子さんが誕生。「長イ間楽シミニ待ッタダケノコトハアル。其子ガ聡明ナル様祈ル。 」(源吉さんの日記)源吉さんは、ピアノを購入しました。1926年製のボールドウィン・ピアノで、明子さんは成長するにつれこの音色に魅せられ、毎日練習に励んだと聞きます。 写真は、明子さんとピアノが一緒に写っている唯一のものだそうです。華やかなクリスマス飾りが、アメリカの雰囲気を醸し出していますね。私、松村真澄は、明子さんが生まれて50年後の1976年、群馬県前橋市で生まれました。父は町のお肉屋さん。待望の女の子…、だったとは思いますが、肉の大売り出しで大変忙しく、生まれて約1週間、父は私に会いに来ませんでした。私は今も、それを覚えています(と言って、時折父をからかいます)。肉屋の娘だけに、生まれた時から肉付き満点ですね。後ろにあるのは、私がのちに習うことになるエレクトーン。その角に頭をぶつけて、おでこがぱっくり開き、いまもその縫いあとが残っています。この楽器は、引っ越し時に出してしまい、もう触ることも弾くこともありませんが、当時その音色にノッて丸い肉体を揺らしていた、と母がよく話します。あなたの誕生はどんなでしたか?周りにはどなたがいましたか?どんな子だった、と聞きますか?明子さんのご両親が書き残したように、赤ちゃんの誕生は、大きな幸せと希望、楽しみをもたらしてくれるものだと改めて感じます。