プロジェクトにご関心を寄せていただいているみなさま、心から感謝申し上げます。
5月25日、今日は「明子さんのピアノ」の持ち主であった河本明子さんの誕生日です。
保険業を営んでいたお父さま・源吉さんの勤務地アメリカ・ロサンゼルス市の日本病院にて生まれたそうです。源吉さんの日記には、
「長イ間 楽シミニ待ッタダケノコトハアル。其子ガ聡明ナル様祈ル。由テ名ヲ明子ト命ズ」とあるそうです。
生きていらしたら93歳、いま一緒に暮らす私の祖母の2つ年上になります。
先週、HOPEプロジェクトの二口さん、一緒に活動されている廣谷さんとともに、明子さんのお墓参りをしてきました。明子さんが、原爆投下当日に建物疎開の手伝いをしていた市内中心部から、命からがら泳いで渡った太田川に沿って走り、体を引きずりながら自宅を目指して歩いたという坂道を登りました。明子さんが、力尽き、うずくまってしまったという自宅への道の分岐点は、当時とあまり変わらない様子が感じられました。近所の方に戸板に乗せられて帰宅した明子さんは、翌日、「急性放射能障害」で亡くなったそうです。最期の言葉は、「おかあさん、あかいトマトが食べたい」でした。
高台に登ると、河本家の敷地だった地域を見下ろすことができます。すでに、マンションが並んでいましたが、その中で青々と大きなクリの木が立っていました。ご両親は、その木の下で我が娘を荼毘に付したと聞きました。近くに住んでいた二口さんは、明子さんのお母さま・シヅ子さんがお茶の木を植えていたこと、キウイを育てて食べさせてくれたことなど、懐かしそうに話してくれました。
明子さんのお墓は、自宅があった場所からすぐそばにありました。明子さんのお母さま・シヅ子さんは、明子さんが寂しいだろうからと、墓石を自宅に向けて建てたそうです。墓石には、19歳で亡くなった明子さんのとなりに、子煩悩だったお父さま、その後二口さんに明子さんの話を優しく語ってくれたお母さまのお名前が並んでいました。1週間後のお誕生日に満開になりそうなつぼみのシャクヤクの花を供え、「大切なピアノをお借りします。たくさんの方に、聞いてもらい、一緒に歌ってもらってきます」
と挨拶しました。
私は、ピースボートのおりづるプロジェクトで出会うことができた被爆者の方々の証言を、改めて思い出しました。これまで、被爆者のみなさんに書き下ろしていただいた証言を読み込み、スペイン語に訳してラテンアメリカの方々に伝えるのが私の仕事でしたが、それぞれに、今も色あせない当時と現在があるのだと再認識しました。今回、明子さんの育った場所、眠る場所を訪ね、93歳の明子さんに、そう教えてもらった気がしています。(5/25 松村真澄)