演劇活動に対して公的なお金をもらうことは、汚いですか?
もしくは逆の言い方をするなら、活動が誰からも何の援助も受けずに成立していたら、かっこいい、美しい、素晴らしい、と思いますか?
こういう問いが出てきたのは、助成金をもらって活動していることに対して、ネガティブな視線を感じる経験がこれまでに少なからずあったからです。そしてその視線は多くの場合、同業のアーティストから向けられていた気がします。
①権威や権力のあるところからお金をもらって活動するのは、いかがなものか?
②助成金の仕組みに賛同できないから、自分はもらわないし、もらう人にも批判的である(なぜなら、瑕疵のある仕組みでも申請者がいることで、その仕組みが温存されてしまうから)
③ 助成金なんて自分には関係ない(もらえない)から、「いいですなあ、結構なご身分で!」と思ってしまう
というようなことが、そのネガティブな視線の中身だったのかなと想像します。
こういうところから「公的なお金をもらって活動するのは汚い」という感覚が生じているんじゃないかと思うのですが、じゃあその場合、「きれいな活動の仕方、きれいなお金のもらい方」というのは何になるのか?
観客からのチケット収入ならOKということでしょうか?
そのアーティストの作品を見たい人がたくさんいて、その人たちが喜んでお金を払っている。たくさんの人に求められて、素晴らしい。それがプロフェッショナルだ!
……という考え方は、「プロかどうか」を求める人の数の多さで測るということで、市場と同じ原理です。
でも私は、例えば今日本番があるとして、その本番を今日劇場に観に来てくれた目の前の人に向けてだけやっているわけではありません。今ここで自分が作品をつくることが、「今ここ」から時間的にも物理的にも遠い世界のありように影響し得ると思っています。
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助成金にNOと言うスタンスは、特にここ最近の状況においてはあり得ることだとも思います。でもそこがYESかNOかではなくて、私が気になっているのは「自分の身体を張って、目の前の観客から得たお金は尊い」とか、「本当にやりたいことは自分のお金でやればいい。それが潔くて、美しい」とかいう感覚です。創作活動とお金の関係についての、「きれい」とか「汚い」とかいう感覚のことです。
例えばどこからも誰からも支援が受けられなくなったとして、そこでつくることを止めるかといったら、きっとやめない(やめられない)のです。ただ単に誰も支援してくれないので自分のお金でやるしかない状況になるだけで、潔さとか美しさは関係なく、ただ貧乏、ってだけだと思います。
例えば路上でパフォーマンスをして投げ銭を得ることは、確かにすごい。でもその観客との出会い方で問題のない作品形式のアーティストはいいけれど、身体ひとつの表現だけが至上ではない(基本ではあるかもしれないけど)。
やりたいことは自分のお金でという話も、投げ銭の話も、分かるけど、それを美談にしてたら結局活動続けられないよね?と思います。作品を発表できる頻度が落ちて、そうなると創作を深めていける幅も浅くなるように思います。だから少なくとも、アーティスト自身が活動に対してお金を得ること汚く思ってしまう感覚については、よく考えて整理した方がいい。お金をもらっている人を敵視して満足するのは不毛だし、なにか問題があるとしたら、制度を理解して変えようとするアプローチをした方がいいと思います。
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アーティストが自分を弱者の側、アウトローの側にアイデンティファイする傾向にも、疑問を感じています。わたし自身も、世界に対するそぐえなさのような感覚が基本状態にあるけれど、でも私は自分を河原者だと言えない。そういう風に言う戦略がいいことだと思えません。
そういうアイデンティティの持ち方と、座長が劇団員みんなを「食わしてやる」ような関係性が想定されながら一蓮托生で作品をつくるようなあり方とが、どこかで繋がってきたんじゃないかと思っています。
ある時期の日本においては、演劇をやろうと思ったら自分たちや作品を社会の外に位置付けて、異形の集団として生き延びるしかなかったのかもしれません。でも今、その戦略はもう終わっていると思います。
「自分のやりたいことなんだから、自分のお金で達成する」ことの自負は、作品の価値が一定の金銭的価値とイコールで結ばれてしまうことへの抵抗から来ているのかな、と思います。でも私としては、お金から自由になるためにこそ、「今、大勢の人にウケている」よりも遠くて広いところを見て、その遠くて広い領域を大勢の人で大事にし合えることを目指した方が可能性があるだろうと思っています。