今回の鳥公園の創作体制変更に始まる問題提起に対して、様々な方から応援や応答のメッセージをいただきました。ご紹介していきます!
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「鳥公園」新体制にむけて
岩城京子
日本の演劇界は六〇年代のアングラブームを牽引した強烈な先人たちの名残で、いまだに「劇作家と演出家がおなじひと」という創作方法がこの国では一般的です。政治に喩えていうならこれは「独裁政権」です。たしかに言論闘争などを武器に社会変革を目指していた昇り調子の時代には、そのような圧倒的個人による有無を言わさぬ馬力が必要だったのかもしれません。実際、そのような先人たちの革新力がなければいまの日本演劇は存在しません。でもそうした圧倒的個による牽引力は、いまの腐敗時代にそぐわない気がしています。まず、これだけ政界のトップに多くの独裁者くずれが鎮座する、戦前の匂い漂う世界情勢においては、たとえ小さな演劇集団であれ、それを模倣し再生産するようなシステムは採用したくないとおもうはずです。演劇の内容ではなく形式として、個の絶対濃度は稀釈していっていいはずです。その意味で、鳥公園がむかうコレクティブという方法論はとても時代に則した選択であるようにおもいます。
ただひとつ懸念事項は、日本が「空気を読む」社会だということです。「空気」が意志決定の最上位に置かれているこの国においては、コレクティブになった途端に、責任の所在がどこにあるのかわからない玉虫色の意見が量産される可能性があります。ブレヒトはかつて「個人が考える。集団が戦争に向かう。なぜなら人は自分の意志で考えるより集団に従うほうがたやすいからだ」と述べました。ですので、今回の鳥公園の新体制が、色の異なる個の集まりとしてのコレクティブとなり、同系色の集団になってしまわないことを切に願います。
もちろん西尾佳織さんの近作には通底して、絶対純度の意見を迂回しつつ、自分の信念をやわらかに貫きつづける丹力があるので、このような懸念は老婆心だとおもわれます。とにかく、ひとりのアーティストが誰よりも偉大であり、ほかの人々は彼/彼女に従うべき、という日本演劇の独裁体制がここからゆるやかに変容されていくことを願っています。