摂津国の西の端、湯の山街道上にあるとともに、丹波を経て京都に通じる近道でもあった丹生山田の里は、大きく3回にわたって戦乱の波が押し寄せてきています。
平安時代末期平清盛の所領となった丹生山田の里では、丹生山明要寺が再興されました。当時は僧兵を抱えた軍事拠点でもあったようです。清盛の死後、源義経が丹生山田の里の鷲尾三郎を道案内に、有名な一ノ谷の合戦に向かっています。丹生山上の遺跡発掘調査ではこの年代の地層から消失遺跡が見つかっており、明要寺はこのときに焼き払われたのではないかと言われています。
次は鎌倉幕府の滅亡から南北朝内乱にかけての時期です。倒幕の兵を挙げた足利尊氏と呼応した播磨の赤松円心が平野兵庫から摩耶山にかけて戦闘を繰り広げました。この時代、山城が各地の要害に盛んに築城されたようで、丹生山はじめ周辺の多くの山で砦が築かれました。
そして3つ目の波が戦国時代末期です。織田信長が羽柴秀吉に中国の毛利攻めをさせていた時、三木の別所長治が信長に反旗を翻しました。三木城は秀吉に包囲されますが、信長から離反した荒木村重が花隈城(神戸市中央区)、丹生山城、淡河城(神戸市北区)を経由して兵糧を三木城に送ります。丹生山城には僧兵、武士、人足など約2000人の人々がいましたが秀吉軍の焼き討ちにあい数百人が殺されたと言います。
明要寺にいた稚児たちは尾根伝いに逃れましたが、追手が迫り最後は殺されてしまいました。里人たちがこの亡骸をねんごろに葬った山は稚児ヶ墓山と呼ばれています。山頂には塚を作って、その傍に椿を植えたと伝えられます。東隣の山は、稚児の墓に供える花を手折ったことから花折山と名付けられました。
山田民俗文化保存会では、平成27年3月稚児ヶ墓山の山頂に、稚児ヶ墓山伝説遺跡の標識を再建し供養を行いました。このような地域の素朴な伝説を大切にしていきたいと思います。