神戸電鉄鈴蘭台駅で粟生(あお)線に乗り換え電車に揺られることわずか3駅、斜面上の集落を見上げるように立地する藍那(あいな)駅で下車すると、カカシの駅長と子どもたち(あいな里山公園の広報大使だそうです)が迎えてくれます。
ここ「藍那」は、摂津国の西端で播磨国との間にあることから古くは「相野」と呼ぼれていましたが、のちに「藍野」と書かれるようになり、それが転訛して「藍那」となりました。
藍那駅前に立ち並ぶのが、今回紹介する「七本卒塔婆(そとば)」です。
卒塔婆とはサンスクリット語のストゥーパの音を写したもので、仏塔を意味します。現在の日本では、先祖の供養のために、卒塔婆という縦長の板をお墓の脇に立てていますね。藍那の「七本卒塔婆」は石でできており14世紀末の建立と推定されていますが、誰が何のために建てたのかは分かっておりません。
そして「七本卒塔婆」の向かい、県道小部(おぶ)明石線と神戸電鉄粟生線を渡ったところにあるのが「紫式部の墓」です。
紫式部はご存知の通り源氏物語の作者で、10世紀末から11世紀初めの平安時代中期の女性作家です。本当にお墓なのでしょうか。
「紫式部の墓」には「永和二年(1376)七月十四日」の銘があり、紫式部の生きた時代とは300年以上の開きがあります。藍那には「和泉式部の墓」というものもあり、水不足に悩む村を訪ね水脈を教えた「水の歩巫女(あるきみこ)」の供養塔とも言われます。
なお、この石造物は宝篋印塔(ほうきょういんとう)といいます。宝篋印陀羅尼(だらに)経を納めた塔で、インドのアショカ王が仏舎利(釈迦の遺骨)を分かって8万4千の塔を全国に建てた故事が元となり、中国を経由して日本に伝わったと言われます。
藍那は、源義経が一ノ谷の合戦に向かった道としても有名です。直進して鵯越に出るべきか、右折して白川に出、一ノ谷へ軍を進めるか迷って作戦会議を開いたと言われる「相談が辻(そうだがつじ)」と呼ばれる場所も残っています。
今日は歴史、地形ともに奥が深い藍那を紹介させていただきました。