あと数時間でこのクラウドファンディングも終了となりますが、皆様の応援のおかげで、目標額を達成することが出来ました。 多くの方にご覧いただき、温かい励ましや、ご協力、ご理解をいただきながら、私たちも最後の仕上げに取り組んでいます。 本当にありがとうございました。 この事業が、六甲山の山間部に広がる私たちの町が多くの方に愛され、貴重な文化財の保護や町の活性化に繋がり、この町が愛着をいただけるような町になることを祈りつつ、3月には皆様のお手元に喜んでいただけるような「山田の里ガイドマップ」及び「解説書」をお届けしたいと思います。 終わりにあたり、多くのご協力に感謝いたしますと共に私たちの強い決意といたします。 合掌山田民俗文化保存会役員一同
歴史 の付いた活動報告
本日は山田民俗文化保存会の取組みのひとつ、「山田民話の手作り紙芝居」を紹介します。 丹生山田の里には、数多くの民話が伝わっており、当会ではこれらを紙芝居として保存する活動を行っています。 これまでに全8巻を発行しており、語り部付きDVDも制作しています。以下に8巻の内容を紹介します。活動報告で紹介した物語も入っていますね。第1巻『孝行犬物語』 山田の庄の孝行犬は大阪城で飼われていた虎のエサになったのか?第2巻『柏尾谷池の牛柱』 毎年堤が切れて困っていた柏尾谷池の堤対策方法は?第3巻『姫の送り火』 城山の美しい姫はどこの方に嫁入りしたのか?第4巻『焼きもち地蔵』 ご利益多い焼きもち地蔵が盗まれて、その後は?第5巻『高尾の地蔵』 高尾山のふもとの地蔵さんは何も喋らないのか?第6巻『稚児ヶ墓山物語』 秀吉郡による三木城攻めで、丹生山明要寺にいた稚児たちは?第7巻『鷲尾三郎物語』 山田の庄の若者、鷲尾三郎は平家攻めを目指す源義経の家来になり、山中の夜道の案内役に…第8巻『新兵衛石物語』 福地村の領主が村内見回りで立ち寄ったとき、新兵衛少年が「お願いがあります」と訴えた。さて、その後は? さて、丹生山田ガイドマップ改訂に向けて、多くの方からクラウドファンディングのご支援をいただいており、本当にありがとうございます。ついにこのプロジェクトもあと1日となりました。 活動報告で丹生山田の里の魅力をお伝えしてきましたが、これらはほんの一部です。まだまだ紹介できていないものがたくさんあります。ぜひ新しくなるガイドマップと解説冊子を片手に、丹生山田の里を訪れて頂けたらと思います。
丹生山田の里はまず原野(はらの)から開かれたといわれています。今回は、原野に伝わる白滝姫の伝説を紹介します。 丹生山田の住人、矢田部郡の郡司(律令制の地方官)である山田左衛門尉真勝(やまださえもんのじょうさねかつ)は、奈良で宮仕えをしているとき右大臣藤原豊成の二女、白滝姫に恋をしました。身分違いの困難な恋でしたが、淳仁天皇(じゅんにん、758-764年)自らの斡旋により二人は夫婦となり、真勝は白滝姫を丹生山田の里に連れ帰りました。 しかし、結婚3年にして子どもひとりを残し姫は亡くなってしまいます。 真勝は邸内に白滝姫を祀る弁財天の堂を建てました。それからのち姫が亡くなった5月、「栗の花が落ちる」梅雨のころになると堂の前の泉から清水が湧き、旱天の日も絶えることはありませんでした。それより真勝は姓を「栗花落(つゆ)」と改め、池を「栗花落の井」と呼んでいます。 丹生山田の里の白滝姫は、当地に来られた経路が南北二通り考えられており、神戸市兵庫区都由乃町(つゆのちょう)で白滝姫が泉を見つけた「栗花落の森」や、西宮市山口町で白滝姫が山深くなる景色に涙した「白水川」など、それぞれに痕跡を残しています。 白滝姫と山田左衛門の恋物語は全国的な広がりをもつ伝説です。柳田国男は岡山県、岩手県、千葉県など各地に伝わる、高貴な姫君を獲得した山田男の話を紹介しています。どのような背景でこの物語が広がったのか不思議ですね。
広陵町は丹生山田の里の住宅地です。まちを歩いていると突如オレンジ色と青色がまぶしい三角形の建物が出現します。 実は、1970年の大阪万博のパビリオンであったカンボジア館を、翌年住宅地のシンボルとして移設し、自治会館として使用しているのです。 鮮やかな色彩と急勾配の屋根。新クメール建築という貴重な建築様式だそうです。敷地内には仏像のレプリカや大阪万博の展示物も多数保存されており、新しい史跡と言えるのではないでしょうか。 老朽化が目立ってきていましたが、平成29年には屋根瓦を葺き替えるなど大規模な改修工事も行われました。地域に愛されながら現在に至っています。
神戸電鉄鈴蘭台駅で粟生(あお)線に乗り換え電車に揺られることわずか3駅、斜面上の集落を見上げるように立地する藍那(あいな)駅で下車すると、カカシの駅長と子どもたち(あいな里山公園の広報大使だそうです)が迎えてくれます。 ここ「藍那」は、摂津国の西端で播磨国との間にあることから古くは「相野」と呼ぼれていましたが、のちに「藍野」と書かれるようになり、それが転訛して「藍那」となりました。 藍那駅前に立ち並ぶのが、今回紹介する「七本卒塔婆(そとば)」です。七本卒塔婆 卒塔婆とはサンスクリット語のストゥーパの音を写したもので、仏塔を意味します。現在の日本では、先祖の供養のために、卒塔婆という縦長の板をお墓の脇に立てていますね。藍那の「七本卒塔婆」は石でできており14世紀末の建立と推定されていますが、誰が何のために建てたのかは分かっておりません。 そして「七本卒塔婆」の向かい、県道小部(おぶ)明石線と神戸電鉄粟生線を渡ったところにあるのが「紫式部の墓」です。紫式部の墓 紫式部はご存知の通り源氏物語の作者で、10世紀末から11世紀初めの平安時代中期の女性作家です。本当にお墓なのでしょうか。 「紫式部の墓」には「永和二年(1376)七月十四日」の銘があり、紫式部の生きた時代とは300年以上の開きがあります。藍那には「和泉式部の墓」というものもあり、水不足に悩む村を訪ね水脈を教えた「水の歩巫女(あるきみこ)」の供養塔とも言われます。 なお、この石造物は宝篋印塔(ほうきょういんとう)といいます。宝篋印陀羅尼(だらに)経を納めた塔で、インドのアショカ王が仏舎利(釈迦の遺骨)を分かって8万4千の塔を全国に建てた故事が元となり、中国を経由して日本に伝わったと言われます。 藍那は、源義経が一ノ谷の合戦に向かった道としても有名です。直進して鵯越に出るべきか、右折して白川に出、一ノ谷へ軍を進めるか迷って作戦会議を開いたと言われる「相談が辻(そうだがつじ)」と呼ばれる場所も残っています。 今日は歴史、地形ともに奥が深い藍那を紹介させていただきました。